31-1:サタンの居城
サタンの居城は『奇妙』という言葉がピタリと当てはまる。
ダマーヴァンド山の内部に造られているせいか、城の内壁は黄みがかった暗い赤茶色で、同じ色の細い石柱が壁を這うように四方八方へと広がっていた。
まるで血管のように張り巡らされたその石柱の間に、真鍮製の壁掛けランプがポツリポツリと置かれている。
「ここ……あんまり長居はしたくないね」
落ち着かない様子のサキュバスが、亜麻色の短い髪をいじりながらボソリと言う。
「同感だな」
暗黒色のローブを頭からすっぽりと被っている俺は、不快そうに眉をひそめた。
城の内壁が奇妙だから、ではない。
アガリアレプトに案内された地下通路を出た直後から、それは纏わりついていた。サキュバスも、無言で歩くカマエルも、おそらく同じ感覚だろう。
生命の気配を感じないこの城で、俺たちは常に誰かの視線に晒されていた。
「何者……でしょうか?」
俺と同じ暗黒色のローブを被ったカマエルが、帯剣していた剣の柄を握りしめ、小声で尋ねる。
魔力が使えないサタンの居城。だが俺とカマエルは、神の加護が受けられる生命の樹の欠片を身に着けることで、己の身を地獄の瘴気から守っていた。
そんな俺たちでも、いや応なしにその存在を認知させる気配。
移動の足を止めることなく、俺はボソリと答える。
「サタンだ……」
「な……」
カマエルは絶句し、歩く速度がわずかに落ちた。
俺には確信がある。この感覚は、父上が俺たち天使を見守る気配に似ているのだ。もっとも、父上はこんなにあからさまなアピールはしないが。
「大丈夫だ。襲う気があるのなら、この城へ侵入した時点でそうしているだろう」
「しかし……」
カマエルは躊躇い気味に言うが、それ以上の言葉は出てこない。
彼の言いたいことは分かる。
俺たちの存在がサタンに知られているのなら、ルシフェルを脱獄させる計画はすでに破綻しているのでは? と。
だが、俺はそうは思わなかった。
地獄へ堕ちたルシフェルはベルゼブブとアスタロトと共闘し、当時の支配者であったサタンを王座から引きずり降ろした……と言われている。
俺は、この話には錯誤があると考えていた。
天界で、ガブリエルが俺に話していた言葉を思い出す。
「畏怖がそこにあるからこそ、悪魔たちを操りやすくなる――」
俺も、これには同意見だった。
ただ、このときのガブリエルの話は、ベルゼブブがルシファーを滅ぼさない理由として、だった。
しかし、俺の考えは少し異なる。
それは、サタンがいまだに健在である理由として、だった。
ルシフェルが地獄の頂点として君臨しているのは、サタンの策略ではないかと俺は考えている。
それは、サタン自身が天界の神と同格となるために、つまり、地獄で最も影響力のある『畏怖』となるために、あえてルシフェルに王座を渡したのではないだろうか。
王の地位に就く者は、それ相応の『適性』を必要とする。
俺が見る限り、マモンにはそれがない。仮に、ベルゼブブがルシファーの地位に就いたとしても、サタンは彼を認めないだろう。
天界すべての天使を束ねていた『ルシフェル』だからこそ、サタンは彼女を地獄の頂点に据えた……。
俺の考えはおそらく正しい。
そうでなければ、サタンの懐であるこの城に足を踏み入れた途端、俺たちはやつに滅ぼされていたに違いない。
アガリアレプトから教わった経路を、俺たちは足早でたどる。
地下通路ほどではないが、入り組んでいる通路を何度か曲がると、一本の長い直線の通路へと出た。
今までの赤銅色だった壁が、そこだけは光沢のある灰色へと変わっている。
左側には、三メートルほどある黒ずんだ鉄格子が、天井から床まで突き刺さっていた。まるで世界との断絶を明示するかのように、それは通路の端まで整然と続いている。
「ルファ!!」
サキュバスが錆びた鉄格子にしがみついて叫んだ。
「……サキュ……バス?」
紫色の塊に寄りかかり、床にぼんやりと座っていたルシフェルは、サキュバスに気づき困惑した表情となる。
ルシフェルの無事を確認したサキュバスは、安堵からか膝から崩れ落ちた。
「あぁ……よかった……。無事で……本当に……」
「どうやって、ここに?」
不審がりながらもルシフェルは、サキュバスのもとへと近づく。
だが、暗黒色のローブを被った俺の姿を見つけると、彼女はその場に立ち尽した。
「まさか……どうして?」
「ルファ……」
俺が彼女の名を口にすると、ルシフェルは手で追い払うようなしぐさをする。
「帰って! ここへ何をしに来たの!? 分かっているでしょ? ここは……」
俺はルシフェルの言葉を遮った。
「分かっている。だが、どうしようもなかった」
それを聞いたルシフェルは目を見開く。そして、彼女の背後にある紫色の塊を気にする素振を見せてから、再度俺に向き直り小声で尋ねた。
「あの子に……ハルに何かあったの?」
俺は頭を左右に振り、すぐさま否定する。
「いや。今は大丈夫だ」
「今は?」
ルシフェルは訝しげに俺を見るが、この場で、サタンの腹の中で話せる内容ではない。
「とにかく、おまえをここから連れ出しに来た。詳しいことは、ここを出てからだ」
「……」
ルシフェルは事態が飲み込めないらしく、眉をひそめながら視線を彷徨わせた。
そのとき、大広間並みに広い牢の中にあった紫色の塊が、もぞもぞと動き出す。
「あれ……? 母上?」
突然聞こえてきた声に、ルシフェルは体をビクリとさせて、慌てたように振り返った。
それを追うように、俺も牢の中へと目を向ける。
小山のような大きな紫色の塊はさらに膨らみ、そこからぬるりと竜の頭が三つも持ち上がった。
「な……」
俺は思わず後退りをする。
そこへサキュバスが、俺の姿を隠すように前へと入ってきた。
「じっ……ジダ君、ルファと同じ場所に……いたんだ?」
「……インキュバス? どうして、ここに?」
サキュバスから『ジダ』と呼ばれた紫色の三頭竜は、不思議そうに首を傾げた。
地獄へ来る前、サタンの居城の牢にはルシファーが最初に創った息子が幽閉されている、とサキュバスから聞いていた。名は確か『アジダハーカ』だ。
アジダハーカの六つの目に見つめられたサキュバスは、突然のことで言葉に詰まる。
「えぇっとねぇ……」
「もしかして、母上を迎えに来たの!?」
三つあるアジダハーカの頭の中央が、にょろりとこちらへ伸びてきた。
「え? あぁ……うん。そう、そうなんだ」
サキュバスはニコリと笑い、その場を取り繕うとする。
だが、彼の後ろにいる暗黒色のフードを被った俺とカマエルに気づき、アジダハーカの表情に疑わしさが広がった。
「その……後ろにいる者たちは……何?」
「うーんとぉ……」
明らかに動揺をするサキュバスを見て、アジダハーカの顔が強張る。
「まさか……おまえも母上を傷つけに来たの?」
そう言うと、アジダハーカは紫色の巨体を起こし始めた。ズズズズと竜の鱗が壁や床を擦る音が辺りに響く。
「ちょ……ジダ君、落ち着いて……」
手のひらをアジダハーカに向け、サキュバスは冷静になるよう促した。
だが、アジダハーカの丸まっていた体躯は、見る間に天井へ届くほどに膨れ上がる。
「もう……二度と母上を傷つけない……」
サキュバスがジリジリと後ろに下がりながら、俺に小声で言う。
「ミー君、ヤバいかも……」
ヤバいって、おまえな……。
アジダハーカは、魔王ルシファーの力を最も引き継いでいる悪魔だそうだ。
己で制御ができないほどの強力な魔力ゆえ、しばしば暴走を繰り返した過去があるらしい。そのため、魔力の使えないサタンの居城に幽閉されているのだとか。
喉奥から絞り出すような唸り声を上げながら、アジダハーカは俺たちににじり寄る。
そこへ、ルシフェルがアジダハーカと俺たちの間に割って入った。
「アジダハーカ、落ち着きなさい。彼らは大丈夫よ」
「母上?」
ピタリと動きを止めたアジダハーカは、困惑するような表情でルシフェルを見る。
そのときだった。
ヒュンッ
何の前触れもなく、風を切る音とともに空気の波が押し寄せる。次の瞬間、俺の斜め後ろにいたカマエルが、反射的に飛び出した。
ガンッッ
抜刀したカマエルが、剣で何かを弾き飛ばす。
見ると、鷹ほどの大きさの鴉が、ギャーギャーと喚きながら黒い翼を羽ばたかせ、鋭い爪のある趾や嘴で俺たちに襲い掛かってきた。
「なっ何だ? こいつは!?」
カマエルは戸惑いながらも、鴉の攻撃を剣で左右に振り捌く。
俺は、剣を鞘から抜きながら叫んだ。
「マモンだっっ!!」
大鴉の背後から見えたのは、紫色のローブを纏ったマモンが、鈍色の剣を抜きながらこちらへ猛然と向かってくる姿だった。