30-0:内廷部(本編外)
話は、地獄の執務室で、俺たちがベルゼブブに見つかる前へとさかのぼる――
「ここがクリンタ宮殿……」
サキュバスが創り出した転移ゲートを潜り抜けた先は、深紅の壁が広がる地獄の支配者ルシファーの寝室だった。
すぐ目についたのは、床から二段ほど高い場所にある白の絨毯の上に置かれた天蓋付きの黒枠のベッド。白百合色のベッドカバーに覆われ、四隅から黒い支柱が突き出ていた。天井から垂れ下がるダマスク柄の黒いレースカーテンは、タッセルでその支柱に留められている。
ベッドの足元へ視線を移すと、鈍く光る金色のフットスツールがあった。そこには、部屋の主が羽織るであろう黒のナイトガウンがきれいに畳まれてある。
「……」
「ミー君、見つめすぎ」
呆ける俺の視界に、男の姿のサキュバスが突然入ってきた。
「あ……いや……その……」
自分の心中を見透かされた気がして、俺はしどろもどろになる。
そんな俺を見て、サキュバスは肩をすくませた。だが、それ以上は何も言わずに、俺に背を向けて大きく伸びをする。
サキュバスも、この部屋にいたんだよな……。
サキュバスのがっしりとした背中を見て、俺は自然と渋い顔になった。だがそれ以上は深く考えないように、頭を軽く左右に振る。
そのとき、暗黒色のローブを目深にかぶったカマエルが、寝室の扉を警戒しながら言う。
「あまり長居をしないほうが、よろしいのでは?」
サキュバスは両腕を突き上げたまま、カマエルのほうへと向き直った。
「あー、それは大丈夫。ここはルシファーの居住区で、特定の悪魔しか入れないもん。おまけに、部屋の主は、今はサタンの居城だし。誰も来やしないよ」
カマエルは訝しげにサキュバスを見返す。
「よく見てみろ。主が不在の部屋の清潔が保たれている。つまり、この部屋は定期的に手入れがされているという証拠だ。誰かが来ている、というな」
サキュバスは、キョトンとした顔でカマエルを見た。
「カー君って、洞察力がすごいんだね」
「か……」
「ん? カマ君だと変でしょー?」
「……」
あぜんとするカマエル。それを見た俺は、何とか笑いをこらえる。
こいつ、本当に相変わらずだな。
サキュバスはこういうやつだ。初めての相手との距離感がないというか、いきなり懐に入ってくる。
いつかのラジエルと同じ戸惑った顔をするカマエルを置き去りにして、サキュバスは話を続けた。
「確かに世話係は出入りするけど……、グールだもん」
「グール?」
俺は首を傾げる。
カマエルは、不快感をわずかににじませながら口を開いた。
「ヒトの死体を喰らう下級悪魔です。自我がなく、主の指示通りにしか動かない」
「死体を……」
そういえば、そんな話を聞いたことがある。悪魔の翼すら持てない底辺の悪魔で、ヒトの死肉を求めて人間界を彷徨っているとか。ここでは、世話係として使われているのか。
「もしグールがこの部屋へ入って来たとしても、僕らに何の興味も示さないよ」
サキュバスの答えに、カマエルは納得したように頷く。
「なるほど、グールは問題ない、というわけだな。だか、それ以外の悪魔が来ない、とは言い切れない。このあとは、どうなさるおつもりですか?」
カマエルが俺のほうを見るのと同時に、サキュバスもこちらへ視線を向けた。
「まずは、アガリアレプトを探す」
「アガリアレプト……ルシファーの従者ですね」
さすがは能天使カマエル。最前線で地獄と対峙しているだけあって、悪魔に詳しい。
俺は、天界を出発する前の『密談』を思い返した――
他聞をはばかる話をする場として常態化した俺の夢の中で、ラジエルがサキュバスに尋ねる。
「サタンの居城内部を知り、かつ、ルファの救出に手を貸してくれそうな悪魔はいないのですか?」
サキュバスが言うには、サタンの居城があるダマーヴァンド山の場所は知っているものの、その内部へ自らは入ったことがないらしい。
そんな状態で城内を闇雲に捜索するよりも、『魔王ルシファーの解放』という利害が一致する悪魔を見つけたほうが得策ではないか、というのがラジエルの考えだった。
確かに、仲間意識が希薄な悪魔ならば、天使であろうと手を貸すに違いない。
ラジエルの問いに、サキュバスはテーブルに片肘を突きながら、斜め上を見て考えを巡らす。
「うーん、思い当たるのは二人かな」
「そいつは誰だ?」
俺はベルゼブブとアスタロトをすぐに思い浮かべたが、あり得ないと即時に否定する。
そしてサキュバスの口から出たのは、俺の知らない悪魔の名だった。
「ルシファーの直属の配下にいる、アガリアレプトとサタナキア」
「アガリアレプトとサタナキア……一体どんな悪魔なのですか?」
ラジエルも首を捻る。
「僕以外でクリンタ宮殿の内廷部に住んでいる唯一の悪魔。アガリアレプトが姉で、サタナキアが弟の姉弟なんだ。彼らがルシファーの身の回りを取り仕切っているんだよ」
「身近に置くほど、信頼されているんだな」
俺の言葉にサキュバスが頷いた。
「ルシファーを狂信的に支持しているし、今回のことで相当激怒していると思うよ」
「では、そのどちらかに協力を仰げば、力になってくれると?」
ラジエルの問いに、サキュバスは腕組みをして「うーん」とうなりながら椅子の背に体を預ける。
「たぶん、サタナキアはだめ……かなぁ。頼るなら、アガリアレプトだと思う」
「サタナキアがだめな理由は?」
俺が尋ねると、サキュバスは言いづらそうな表情になった。
「えぇとぉ……それはぁ、僕が夢魔……だから」
「はい?」
ラジエルが思わず聞き返す。
「いやぁ……サタナキアってさ、女を意のままに操る能力があるんだよね」
「それで?」
サキュバスの言わんとすることが理解できず、俺は続きを促す。
「僕はさ、相手の好みに合わせて容姿を変えるじゃない? それって、相手を操る……とも言えちゃうんだよね」
「つまり、能力が似通っているため、サタナキアは、あなたに対しライバル意識がある……と?」
ラジエルが眉間にしわを寄せつつ言うと、サキュバスが苦笑いをする。
「それともう一つ、僕も避けたい理由があってさ。女の僕は彼の好み……みたいなんだよね」
ライバルであり、好みの女でもある……そりゃ複雑だ。いや、そうじゃなくて。
「余計な面倒ごとはごめんだな。アガリアレプトのほうは、協力要請に応じる確証はあるのか?」
俺の問いに、サキュバスは自信ありげに大きく頷いた。
「彼女が一番適任だと思うよ。だって、ルシファーに対する忠誠心は、ベルゼブブやアスタロトと同じくらいにすごいし。彼女たちの地位をあそこまで引き上げたのは、ルシファーだから」
「恩義がある……ということですか」
ラジエルが納得したように言う。
彼女らとルシフェルとの間に、何があったのかは分からない。だが今は、ルシフェルのそばにいたサキュバスの言葉を、俺たちは信じるしかなかった。
「分かった。地獄へ着いたら、まずはアガリアレプトを探す。だな?」
俺は同意を求めるように二人を見た。
サキュバスは、ため息交じりに頬づえをつく。
「それがだめなら、サタナキアかぁ……。絶対に『やらせろ』って言うんだろうなぁ」
「……」
「……」
言われたのか……過去に……。
俺とラジエルは押し黙ったまま、ウンザリするサキュバスを見つめた。
* * *
「それで、サキュバス。アガリアレプトが今どこにいるのか、見当はつくか?」
ルシファーの寝室で、俺はサキュバスに尋ねる。
地獄へ潜入する前、彼には、クリンタ宮殿の様子を探るように頼んでおいた。
「それがさ……」
「うん?」
サキュバスは渋い顔になる。
「最近、いつもベルゼブブと一緒なんだよね」
「はぁ!?」
「ちょ、ミカエル様!」
思わず大きな声になった俺に、カマエルが慌てる。人差し指を自分の唇に押し当て、静かにするよう俺に促した。
「う……すまん。一体どういうことだよ? なんでベルゼブブと?」
声を潜めた俺の問いに、サキュバスが腕を組んで答える。
「なんかさ……ルファを解放してもらおうと、ベルゼブブに張り付いているみたいなんだよねぇ」
なるほど、忠義に厚い彼女なりに何とかしようと動いているわけか。しかし……ベルゼブブと行動をともにしているとは。
「ほかに……代替え案はございますか?」
カマエルが俺に尋ねる。
あるには……ある。アガリアレプトの弟サタナキアへの協力要請。サキュバスには悪いが、ここはサタナキアへ切り替えるべきか? 俺が俯いて考えを巡らせていると、サキュバスがボソリと言った。
「あ……、アガリアレプトを見つけたかも」
「へ? わかるのか?」
顔を上げた俺は、驚きのあまり、また声を上げそうになる。なぜなら、目の前にいるサキュバスの瞳が、青から金へと変わっていたのだ。
俺は、この瞳の持ち主をよく知っている。
俺と同じように、死者を冥界へ導く任を追う大天使サリエル。彼女が特殊能力を使うとき、サキュバスと同じ瞳の色となるのだ。
こいつ……サリエルと同じ邪眼の力を持っているのか?
カマエルも、不審そうな顔でサキュバスを見ている。
ギュッと一度目を瞑ったサキュバスは、ニコリと笑って俺を見た。その瞳の色は、元の青に戻っている。
「アガリアレプトは、内廷部と中央棟の間に一人でいるみたい。今から向かえば、捕まえられるかも」
「では……急ぎ参りましょう」
そう言うと、カマエルは慎重にルシファーの寝室の扉を開けた。
こうして俺たちは、中央棟の手前でアガリアレプトを見つけ出した。だが、彼女に接触しようとする矢先、ベルゼブブと合流されてしまう。
特定の悪魔しか立ち入れない内廷部とは違い、中央棟や外廷部は上級悪魔や従属の悪魔がいるはずだった。だが内廷部同様、中央棟にも外廷部にも悪魔の姿は見当たらず、俺たちはいとも簡単に彼らを尾行できた。
その理由はすぐに明らかとなる。
外廷部にいる上級悪魔の大半は、ルシファーの息子であり七つの罪源のひとつ『貪欲』のマモンにより、大広間へと集められていたからだった……。