30-3:交渉
俺たちがひそかに地獄へ侵入した理由を、ベルゼブブはあらためて思案しているようだった。探るように俺を見つめる。
そんな彼の視線を受け止めながら、俺は話をさらに続けた。
「マモンが王座に着こうと、七十二柱が裏で操ろうと、ましてや、おまえがルシファーに変わって新たな頂点に立とうと、地獄は内部から崩壊する。だよな? ベルゼブブ?」
「……」
ベルゼブブは、わずかに眉をひそめただけで何も答えない。
地獄の支配者の一人を侮辱するような発言。アガリアレプトは剣を構え直し、ギリギリと俺を睨みつけた。
「貴様、好き勝手なことを……。もう我慢ならん! この場で切り刻んでくれる!」
これに反応したカマエルは、すばやく俺の前へと出る。体勢を低くし、いつでも飛び込めるように剣の柄を握りしめた。
張り詰めた空気が、再び室内を満たし始める。
そこへ、ベルゼブブの低く静かな声が響いた。
「剣を納めろ、アガリアレプト」
「ベルゼブブ様!?」
驚いたアガリアレプトは、思わずベルゼブブのほうを見る。
俺も無言でカマエルに頷き、剣の柄から手を放すように促した。
ベルゼブブはため息のように大きく息を吐く。
「どうやら、われらの望みは一致しているらしい」
「まさか……ルシファー様を、天界へ引き渡すおつもりですかっ!?」
青ざめるアガリアレプト。
ベルゼブブは頭を左右に振って答えた。
「いや。もし、わが君を天界へ連れて行けば、地獄が天界へ総攻撃を仕掛けるのは、火を見るよりも明らかだ。だがそれは、天界の望むところでないだろう。あそこは常に事なかれ主義……ですよね? プリンス?」
「……」
ベルゼブブの最後の言葉に、俺は思わず眉をひそめる。
アガリアレプトは困惑の表情を浮かべ、ベルゼブブに尋ねた。
「では、こいつらは一体何のために、危険を冒してまで地獄へ侵入してきたというのです?」
しばらく俺を見つめたベルゼブブが、ぽつりと言う。
「無垢の子……か」
「無垢の子?」
すでに剣先が下へと落ちているアガリアレプトが、不思議そうに繰り返した。
俺は彼女の疑問に答えるように口を開く。
「マモンが……いや、地獄が人間界へ侵攻しようとしている今、天界が無垢の子を完璧に守るためには、ルシファーとの断絶が必要不可欠だという結論に至った」
俺へと視線を移したアガリアレプトは、信じがたそうな表情を見せた。
「だから、ルシファー様が必要だというの? 無垢の子のためだけに、最高位天使自らが地獄へ乗り込んできたと?」
「天界は事なかれ主義、なもんでな。無垢の子が無垢の子のままでいるほうが、お互いのためだと思うのだが?」
「……」
俺の言葉で、アガリアレプトが沈黙する。
その後ろにいるベルゼブブの口元が、ニヤリと歪んだように、俺には見えた。
天界には『無垢の子』というカードがある。
無垢の子が『神の子』として人間界へ降臨すれば、悪魔はそこから排除されてしまう。
この事態を回避するには、地獄はマモンの計画を破棄し、俺とルシファーが締結した休戦協定を継続させるほかはない――という建前。
もちろん、天界は神の理により無垢の子の命を奪えない。そして、俺は無垢の子であるハルを全力で守る。
だがそれを、ここで明らかにする義理はないし、理に関してはベルゼブブも把握しているはずだ。
俺の話を黙って聞いていたベルゼブブは、口元に笑みを浮かべながらも、射抜くようにこちらを見た。
「プリンス。先ほども申しました通り、わが君にもしものことがあれば、地獄はたとえ悪魔が死滅しようとも、天界へ攻め続けることになりましょう。いえ、私がそういたします。それは、お分かりでしょうか?」
「俺は……」
そこまで言うと言葉に詰まる。
もう二度と、ルシフェルを失いたくはない……。
この場では言えない本音を、俺はなんとか飲み込んだ。
執務室にいる全員の視線が、無言で固まる俺へと集中する。
中途半端な静寂を打ち破ったのは、またしてもベルゼブブだった。
「アガリアレプト」
突然名を呼ばれたアガリアレプトは、不審そうにベルゼブブを見る。
「はい?」
「彼らをわが君のもとまでご案内しろ」
「えっ……」
あぜんとするアガリアレプトに対し、ベルゼブブは続ける。
「だが、サタンの居城の手前までだ。おまえは、決して誰にも見られてはならぬ。わが君にもだ」
* * *
「いやぁ、本当に怖かったぁ」
ベルゼブブに滅ぼされかけたサキュバスは、緊張の糸がほどけたのかヘラリと笑う。
「一度滅びればよかったのよ……」
サキュバスの隣を歩くアガリアレプトは、前を見据えたままボソリと言った。
「ひっどぉい。レプちゃんだって、ルファの心配をしていたくせにぃ」
サキュバスが口を尖らせて抗議をすると、アガリアレプトはその場にピタリと立ち止まり、彼を睨みつけた。
「その呼び方をするなと言っているでしょ!?」
「どっちのぉ? レプちゃん? それともルファ?」
サキュバスが不思議そうに首を傾げた。
アガリアレプトは苛立ったように声を荒らげる。
「どっちもだっ!! というか、無駄口をたたくな! サタナキアの前に放り出すわよ!!」
そう言い放った彼女は、俺たちを置き去りにしそうな勢いで再び歩き始めた。
「やだぁー。レプちゃん、相変わらず怒りんぼぉう」
「おまえのせいだろうっっ」
「……」
「……」
この不毛なやり取りは、随分前から続いている。
俺とカマエルは呆れながら、無言で彼らの後ろを追随していた。
ここは、クリンタ宮殿内廷部の地下から延びる隠し通路。
アガリアレプトによると、この通路はサタンの居城があるダマーヴァンド山につながっているらしい。
そんな秘密の通路を、外部の、しかも天使に教えてよいのかと尋ねると、アガリアレプトはあざ笑うように俺を見た。
「たった一度通ったくらいで、覚えられるものではないわ」
彼女の言う通り、地下通路は迷路のように入り組み、簡単には覚えられそうになかった。しかも、途中で転送ゲートを何度か通ったため、来た道順すらもすでに分からない。
ここでアガリアレプトに置いて行かれたら、地上に戻る自信はないな。にしても……。
「にぎやか……ですね」
カマエルが俺の気持ちを代弁するようにボソリと言う。
「まったくだ」
苦笑いをする俺の横で、カマエルは「あの……」と気まずそうに切り出した。
「先ほどは……申し訳ありませんでした。不覚にも取り乱し……」
ベルゼブブの挑発に乗ってしまったことを言っているのだろう。俺は軽く頭を振る。
「気にするな。おまえの気持ちはよく分かる」
「ミカエル様……」
カマエルはそれだけ言うと、顔を歪めて俯いた。
俺は、マモンが意気揚々と語っていた大広間の様子を思い返す。
七十二柱と呼ばれる悪魔の中には、天界から堕ちた元天使の姿が少なからずもあった。当然、カマエルが見知っている者もいただろう。
能天使である彼の過去を考えると、俺が思う以上に、この任務はカマエルにとって酷なのかもしれない。
俺たちを引き連れたアガリアレプトは、薄暗い通路をしばらく歩くと、黒くごつごつとした岩壁の前で立ち止まった。そして、くるりと振り返ると、強いまなざしで俺たちを見る。
「私は、おまえたちを信用していない」
突然の物言いに、俺は幾分困惑した。
そりゃそうだろうけど……急にどうした?
カマエルも何事かと眉間にしわを寄せていた。
アガリアレプトは続ける。
「だがベルゼブブ様は、おまえたちに主を預けるとお決めになられた。そもそも、主がおまえたちごときに、どうなるとも思えない」
「なに……」
反論しようとしたカマエルを、俺は片手を上げて制した。
アガリアレプトは俺たちを睨みながら言う。
「しかし、主が傷つくようなことがあれば、私が黙っていない。そのことを忘れるな」
今できる精一杯の牽制。
主を直接助けられない、アガリアレプトのもどかしさが俺にも伝わってきた。
「分かっている。用件が済めば、おまえの主はすぐにでも解放しよう」
アガリアレプトは、信用できないと言わんばかりに、眉をひそめて俺を見た。そして、体を横に向けると黒の岩壁に片手を添える。
「おまえたちがこの扉を通ったあとは、内側から封印するようベルゼブブ様から言いつかっている。帰りは自力で何とかすることね」
「帰り……か」
ぽつりとつぶやく俺に、アガリアレプトはフンと鼻を鳴らした。
「まぁ、主を救出しようとして、逆におまえたちが主に捕らわれないよう、せいぜい気を付けることね」
そう言うと、アガリアレプトは壁に添えた手に力を込めた。
ゴゴゴゴゴ……
岩と岩が擦れる耳障りな音とともに、黒い壁がゆっくりと動いていく。そしてその先には、地獄の空と同じ赤銅色の空間が広がっていた――