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27-1:泡沫の残り香

 ルシファーは目を覚ました。

 まるで長い夢に捕らわれていたかのように、体が重く気怠い。自分が今どこにいるのか、すぐには分からなかった。

 ぼんやりとした意識の中で視線を上げると、真鍮(しんちゅう)製の壁掛けランプがゆらゆらと揺れているのが見える。そのランプと自分との間には、黒ずんだ鉄格子があった。

 サタンの居城――自分の置かれている状況を思い出したルシファーは、ため息をついて天井を見上げた。



「母上、大丈夫?」


 天井から降り注ぐように聞こえてくる言葉に、ルシファーは力なく微笑(ほほえ)む。


「えぇ、平気」


「うなされていたよ……」


 ルシファーはすぐそばにある紫色の(うろこ)状のものに寄りかかると、大きく息を吐いて目を(つぶ)った。


「夢を見ていたの……古い……夢」


「古い?」


「そう、昔の……ね」



 不死に近い存在であるルシファーにとって、十年や二十年という歳月は古い過去ではない。だが今となっては、フェリシアと過ごした日々は実感のない泡沫(うたかた)のようだった。


 あの頃の自分は何かが狂っていた。

 手に入らないものを欲し、その代替をなりふり構わずに探し求めた。しかし、何を手にしても、そのどれもが自分を満たすものではなかった。

 そんなときにふらりと立ち寄った人間界で、たまたま目に入ったのがフェリシアだった。


 いつか終わりが来ると分かっていながらも、愛し合う血のつながった妹と兄。

 そんな二人を見た途端、ルシファーは自らの手で彼女たちを引き裂きたいと強く願った。

 ただの一時的な感情で終わるはずだった彼女たちの仲を、抜け出せない沼に放り込み、徐々に沈みゆくさまを、苦痛にゆがむ顔を見たいと思ったのだ。


 フェリシアは、ルシファーが望んだ通りの終焉(しゅうえん)へと向かう。

 彼女の魂を喰らう瞬間だけは、心が満たされた。しかし、それはほんのつかの間。再び空虚な渇きがルシファーを支配する――はずだった。期せずして、次の()()がルシファーの目の前に転がり落ちてくる。


 新たな契約者となったラナの願い通り、ルシファーはカーディフ一族だけではなく、カーディフの領民にも災いをもたらした。

 多くの命が地獄(ゲヘナ)のものとなるのを見届けたラナは、名を『イリーナ』と変えて一人で生きていく。


 ラナは、ルシファーがそばにいることを望まなかった。母フェリシアをずっと見てきたのだから、当然ともいえる。

 少女のあどけなさが残る十二歳のラナは、誰に頼ることもなく必死で生きた。生きるために体を売ることも(いと)わなかった。そしていつしか、ルシファーの存在を忘れる。いや、ルシファーがそう仕向けたのだ。

 ラナから自分の存在を消し去ったルシファーは、第三者が物語を読み進めるように彼女の人生を見守り続けた。


 ラナは、自分が生まれた土地からなるべく遠くへ離れるように、各地を流浪する。

 そして十八歳になった頃、流れ着いた小さな町で出会ったのが、のちの伴侶となるグレイ・エヴァットだった。

 実直なグレイは、ラナに振り回されながらも変わらぬ愛を与え続けた。

 (ゆが)んだ愛しか知らなかったラナは、戸惑いながらもグレイの愛を徐々に受け入れていく。

 ルシファーは、それを冷ややかな目で見ていた。



「はぁ……」


 大きく息を吐きだしたルシファーは、自分がいる(ろう)の内部を見回した。


 サタンの居城には呼び名がない。城といっても、ダマーヴァンド山の内部をくり抜いてできているため、山そのものが城といえるからだ。


 ルシファーがいる牢は、黒ずんだ鉄格子と光沢のある灰色の壁に囲まれている。

 外の世界が(のぞ)ける唯一の手段は、明かり取り用の横長の窓だけだった。

 ただ広いだけの殺風景な牢の片隅には、この場に不釣り合いな天蓋(てんがい)付きベッドと小さな白い丸テーブルがぽつりと置かれてある。

 そこから少し離れた場所で、ルシファーは膝を抱えるように床に座っていた。

 紫色の鱗甲(りんこう)に寄りかかり、丸テーブルをぼんやりと見つめる。

 人間界の我が家の庭にあったあの丸テーブルはどうなっただろうか……そんなことを思う。

 あそこで……あのガゼボで、双子の弟ミカエルと再び向かい合う日が来るとは、ルシファーは想像もしていなかった。



「愛している……」



 熱い吐息が耳にかかる感触とともに、ミカエルの言葉がルシファーの中でよみがえる。人間界を離れる最後の夜、古いサイロの前で言われた言葉だった。

 彼の言葉を思い出すと、たちまち自分の中で感情が荒れ狂い始める。それを抑えつけるように、ルシファーは自分の体を両腕で抱きしめた。


「母上?」


 ルシファーの妙な動きを、何事かと心配する声が聞こえてくる。


「大丈夫……」


 ルシファーは何でもないというように、頭を左右に振った。



 ミカエルの姿がちらつく頭の中を(から)にしたくて、意識を違うほうへと向ける。すると今度は、ハルの安否が気になりだした。

 ハルが生まれて以来、こんなにも長く離れたことなどない。

 天界(ヘブン)での暮らしに慣れず、夜一人、泣いていなければよいのだが……。そう考えると、胸がざわついて仕方がなかった。


 ゆるくカールのかかった栗色の髪、くりくりと大きな緑色の瞳。ハルは幼い頃のラナによく似ていた。そして、フェリシアが愛したシリルの面影もあった。



 あの子の血族を滅ぼしたのが私だと分かったら、彼女はどう思うのだろう?



 ハルとともにいると、いつもその不安がつきまとう。

 そう考えて、ルシファーは眉をひそめた。



 不安? 悪魔の私が? なぜ?



 この牢に閉じ込められてから、ルシファーの中でミカエルとハルが交互に現れる。

 その(たび)に、考えたくないことを考えさせられた。追い出そうと足掻(あが)いてみるが、どうしてもできない。

 こんなとき、サキュバスがいればよいのにと思う。()の体温に触れているときだけは、不思議とすべてを忘れられた。


 ルシファーは体を捻り、紫色の鱗甲に頬を寄せる。

 それを感じた『声』が戸惑い気味に言う。


「母上、鱗であなたを傷つけてしまうから……」


 根元に厚みのある鱗は、外側へ向かうほど切りっぱなしのガラスのように薄く鋭くなっていた。

 何者も容易く傷つけるこの鱗甲に、ルシファーはまるで寂しさを補うように寄りすがる。


「平気よ。私があなたで傷つくことはないわ」


「……」


 鱗甲から伝わるドクンドクンと脈打つ音が自分のそれと重なる。

 昔はこの音が、耳障りで仕方がなかった。


 自分の拍動がヒトと同じだと思うと、どうにも腹立たしかった。

 なぜ『あの人』は、こんなにも似せてヒトを創ったのかと苛立つのだ。


 ヒトを目にすると、天界(ヘブン)を思い出す。

 天界(ヘブン)を思い出すと、手放したものを思い出す。

 すると、どうしようもなく感情が暴れだした。止め処ない怒り、憎しみ、絶望。


 ルシファーは、雑音をかき消すようにたくさんのヒトの命を奪った。

 あの頃は、それが当然の権利のように思えた。この世界は、自分の犠牲の上に成り立っているのだからと。

 ヒトを虫けらのように踏みつぶすことに、ルシファーは何ら躊躇(ためら)いもなかった。

 ハルと会うまでは……。


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