26-2:決別
床に這いつくばったままのフェリシアは、バラバラに散らばったドール人形を見て、ワナワナと震えだす。
「あぁ……ラナ……私のラナが……」
「お母……様?」
ラナの言葉に反応したフェリシアは、殺気立った目つきで娘を睨みつけた。
恐ろしくなったラナは、自分の上で四つん這いになるフェリシアから逃れようと、床に尻をつけたまま後退る。
だがフェリシアの青白い手がラナの服をわし掴み、力任せに自分のほうへと引き寄せた。
「おまえさえ! おまえさえいなければ!!」
そう言うと、ラナの首に手をかける。
「かあ……さ……くる……し」
ラナはフェリシアの腕を振り払おうとした。しかし、彼女の腕は微動だにしない。
フェリシアの細い指が、ラナの首に食い込んでいく。
「私はあの人が欲しかっただけなのに! おまえがいるから、私は自由になれない! おまえがいるから、あの人は来ないのよ!!」
ラナは苦しさのあまり、体をよじった。それを逃すまいと、フェリシアはラナの上に馬乗りになる。
体重のかかった母の手が、娘のか細い首を絞めあげていく。
ラナは意識が遠のきはじめた。このまま自分は母の手で殺されるのか――そう思ったときだった。
フェリシアのそばで亡霊のように立っていた黒髪の女が、ささやくように言う。
「この子の命を奪っても、あなたの苦しみは終わらないわ、フェリシア」
その言葉で、フェリシアの手の力が弱まった。
「ひどいわ、ルシファー。これは私が望んだことじゃない……」
フェリシアの瞳から、涙がポロポロとこぼれる。
ルシファーと呼ばれた黒髪の女は、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「いいえ、これはあなたが望んだことよ。あなたはこの子を産むことで、シリルをつなぎとめた。この子がいなければ、彼はとっくにあなたを捨てていたわ」
フェリシアは首を大きく左右に振る。
「うそよ!」
ルシファーはフェリシアの頭を愛おしそうに撫でてから、彼女の両頬に手を添えた。
「可哀そうなフェリシア。シリルがあなたを抱いたのはね、そういうことに興味があったから。年頃にはよくある話だわ」
「違う! 違うわ!! そんなのじゃない!!」
フェリシアはルシファーの手を払い除けた。これ以上聞きたくないと言わんばかりに両耳をふさぐ。
ルシファーはフェリシアのふさいだ手に唇を近づけた。そして、先ほどよりも低い声色で言う。
「そうね。あなたはシリルを心から愛していた。もちろん、シリルもあなたを愛していたわ。でも、あなたほどじゃなかった」
フェリシアの手は、ラナの首から完全に離れていた。だがラナは、フェリシアの視線に縛りつけられるように、体がしびれて動けない。
馬乗りになるフェリシアは虚ろな目でラナを見つめながらも、横にいるルシファーに向かって言う。
「苦しいの……。もう一人は嫌……。助けて、ルシファー」
その言葉を待っていたかのように、ルシファーの美しい口元が醜く歪んだ。フェリシアを背後から抱えると、翼をバサリと羽ばたかせる。
ラナは呪縛が解かれたかのように、這いずりながら壁際まで移動した。
廊下はランプの明かりがついているはずだった。しかし、地下室にいるかのように辺りは暗く、空気が淀み重苦しい。
ルシファーは六枚の翼の下二枚でフェリシアを抱えると、彼女の耳もとに唇を押し当てる。
「あなたを守ると誓ったわ。だから……この苦しみから救ってあげる」
そう言うや否や、ルシファーはフェリシアの胸の中央に右手を当てた。すると、手のひらよりも一回り大きな黒い穴がぽっかりと開く。底の見えないその穴に、ルシファーはズブズブと手を入れ始めた。
ハッと短く息を吸い込んだフェリシアの体が、痙攣するかのように強張る。
ラナは恐怖のあまり、その場から動くことも、目を逸らすこともままならなかった。
何かを探すように、中をまさぐっていたルシファーは、目的のものを掴んだようでニヤリと笑う。フェリシアの胸の穴からゆっくりと引き抜かれた手には、金色に光る球体が握られていた。
ルシファーはその球体を愛でるように眺めると、フェリシアの頭に頬を寄せる。
「これであなたは永遠に一人じゃないわ。私がずっと可愛がってあげる」
そう言うと、まるで林檎を頬張るように、手にした球体をサクリとかじった。
「あっ……」
そう言ったきり、フェリシアは操り人形のように下あごをガクガクとさせる。
フェリシアから取り出した金の球体を、ルシファーが食べ尽くす。と同時に、フェリシアは大きなため息をつき、そのまま首を前へと垂れ下げた。
ルシファーの翼は、不用品を放るようにフェリシアの体を解放する。支えを失った彼女の体は、バタリと床へ転がった。
血の気のないフェリシアと目が合ったラナは「ひっ……」と微かに悲鳴を上げる。自分の体が震えているのが分かった。
「それで……あなたはどうしたいの? ラナ」
突然名を呼ばれたラナの体がビクリと跳ねた。声のするほうをそっと見る。
六枚の飛膜の翼を羽ばたかせた悪魔が、こちらに向かって微笑んでいた。
ゾクリとするほど美しい。だがその笑みは狂気をはらんでいた。母と同じ狂気――
「わっわた……私は……」
ラナは恐怖のあまり声が上擦る。
ルシファーは翼を羽ばたかせてラナに近寄ると、彼女の頬に優しく手を添えた。
「怖がらなくてもいいわ。今ね、とても気分がいいの。だって、ずっと欲しかったものが手に入ったんですもの」
ルシファーの言葉には不思議な安心感があった。
ラナは潮が引くように、少しずつ落ち着きを取り戻す。そして、物のように床に横たわるフェリシアを見た。
「お母様は……死んだ……の?」
ルシファーもラナと同じように、フェリシアを見る。
「そうよ。望みを叶えた者は悪魔に魂を喰われる。それが、私たちと契約した者の末路」
「お母様は、あなたと契約していた?」
「そう」
ルシファーはラナの頬から手を離すと、自分の胸の前で腕を組みラナを見下ろした。
フェリシアの亡骸からルシファーへと視線を戻したラナが尋ねる。
「私が産まれたのも、そのせい?」
「そうね」
「お父様とのつながりが欲しいから、私を産んだ……」
先ほどのフェリシアとルシファーとのやり取りを思い返しながら、ラナはつぶやいた。
その様子をじっと見つめていたルシファーが言う。
「それで? あなたはどうしたい? 生きたい? それとも堕ちたい?」
「……」
生きる? こんな状況でどう生きろと言うのだろう。そう思いながら、ラナは足元に転がる母だった物を見た。
この人の欲望のせいで自分は産み落とされたのだと思うと、怒りが湧いてくる。
この人をここまで追いやった父。助けてくれなかった祖父。彼らが普通に生きるこの世界すべてが憎いと思った。
俯いていたラナはスカートの裾をぎゅっと掴むと、絞り出すように言う。
「このまま一人で堕ちるだなんて、理不尽だわ」
その言葉を聞いたルシファーはニヤリと笑う。体を折り曲げ、ラナに顔を寄せた。
「すべてを滅ぼす? 目に見えるすべてを」
ラナは視線を彷徨わせてから、確認するようにルシファーを見上げる。
「あなたと契約すれば、私はあなたに魂を喰われる。でも、望みを叶えたらすぐに喰われるわけでもない。私はどうなったら、この人のようになるの?」
ルシファーは少し驚いたように目を見開いた。そして、体を起こすと自分を抱きしめるように腕を組む。
「目の前のえさに、すぐには飛びつかないのね。フェリシアは、そんなことを聞かなかったわ」
「あんなものを見れば、誰だってそう聞くわ」
ラナは眉間にしわを寄せながら言う。
ルシファーは一瞬虚を衝かれたような顔になった。だがすぐに声高に笑う。
「あはは! 確かにそうだわ」
「で、どうなったら私はあなたに喰われるの?」
ラナは急かすように尋ねた。
ルシファーは組んでいた腕を解いて、自分の顎に手をやり考えるような素振を見せる。
「そうね……。あなたが最も愛を感じた瞬間に、あなたの命を奪う……なんて、どうかしら? それでもあなたは、私と契約をする?」
ラナは『愛』という言葉にひどく嫌悪を感じた。その『愛』のせいで、自分の人生は滅茶苦茶にされたのだ。
ラナは不快感を全面に滲ませてルシファーを見る。
「愛なんて気持ち悪いだけよ。きっとこれからも、知ることはないわ」
「これは悪魔との契約。一度結べば、何があろうと途中でやめられない。それでも、あなたは望むのね?」
念押しするように尋ねるルシファーに、ラナは苛立ち気味に頷く。
「構わないわ。だから、叶えてほしいの。私の存在をもてあそんだすべてを滅ぼして。この目に映るすべてのものを灰にして!」
ルシファーは、ラナの言葉を聞いて満足そうな顔つきになった。
「分かったわ。あなたの望みを、私が叶えてあげる」
そう言うと、ラナに向かって手を差し伸べる。
ラナは躊躇うことなく、ルシファーの手を取り立ち上がった。
ラナとルシファーが契約を結んだこの日が、カーディフ家の最期となった。
その夜、屋敷があるイルナミアの町は突如として大雨に襲われる。
落雷がカーディフ家の屋敷に直撃したが、あまりの荒天で町の者はそこへ近づけなかった。
雨も止んだ翌早朝、すぐさま屋敷へと駆けつけた彼らが見たのは、カーディフ一族の変わり果てた姿だった。まるで獣に喰われたかのように、引きちぎられた体の一部が屋敷のあちこちに散乱していたのだ。
町の者たちにより集められた亡骸の量からして、カーディフの人間だけではなく、使用人たちも犠牲になったと推察される。
屋敷の母屋の亡骸は、どれもが個人の特定が難しいほどにバラバラだった。にもかかわらず、離れで亡くなっていたカーディフ家の長女フェリシアと老婆の使用人だけが、唯一まともな亡骸であったことに、町の者たちは首を傾げる。
彼らは誰一人、気がつかなかった。この屋敷の離れにいた一人の少女が消えたことに。そして、思いもよらなかった。この娘がのちに自分たちの厄災となることを――