25-3:はじまり
フェリシアの自室は、屋敷の三階南西の角にある。その部屋は淡いピンクの壁紙が貼られ、暖炉のそばには白地に花柄の一人掛けソファーが二脚置かれてあった。
そこから少し離れた場所にあるソファーと同じ柄の窓際ベンチに座るフェリシアは、窓辺に頬づえをついて外を眺めていた。
日が暮れたばかりの南西の空には、緋色と淡い紺の間に三日月状の細い月が輝いている。なんとも頼りないその月を見ながら、フェリシアは口を開いた。
「本当に、これでよかったのかしら?」
フェリシアの傍らに佇むルシファーが、首を傾げて彼女を覗き込む。
「あら? それなら、その子を堕ろす?」
「嫌よ! 絶対にダメ!」
フェリシアは自分の腹を守るように抱えながら、大きく首を振った。
ルシファーが満足そうに微笑む。
「そうよ、フェリシア。その子を堕ろせば、シリルはあなたのもとを去ってしまうわ」
その言葉に、フェリシアはぎょっとした顔でルシファーを見た。
「この子は……この子は何があっても産むわ。だって、シリルとの絆ですもの」
フェリシアは少し膨らんだ腹を大切そうに撫でる。そんな彼女を、ルシファーは愛おしそうに抱き寄せた。
「あなたは本当にいい子ね。そう、この子はあなたとシリルをつないでいる大切な存在なのよ」
耳元でささやくルシファーの声が、フェリシアの脳内に浸透していく。
フェリシアは信じて疑わなかった。腹の子さえ産まれれば、物事はすべてうまくいくのだと。
* * *
シリルは、父レイモンドの書斎室で、採掘を任されているコランド鉱山の報告をしていた。赤茶色の壁とそろいのソファーに座り、次々と報告書を読み上げる。
レイモンドは固く目を閉じたまま、時折小さく頷きシリルの報告を聞いていた。
シリルが責任者として着任する前のコランド鉱山は、徐々に採掘量が減っていた。だが、彼が着任し、新たな採掘法を試したことによりその量が好転する。
仕事が軌道に乗りつつあるシリルは、ある種の自信のようなものを抱きつつあった。
「報告は以上です。何かご不明な点はございますか?」
書類の束をテーブルの天板でトントンと整えながら、シリルはレイモンドを見た。
「いや。まだ不安要素はあるものの、よい結果だ。引き続き頼むぞ、シリル」
めったに褒めることのない父の言葉に、シリルの顔が思わず綻ぶ。
しかし、レイモンドの顔は微塵も喜ばしそうではなかった。
「で……、フェリシアのことだが」
レイモンドがそう切り出すと、シリルの表情が途端に曇る。数日前、フェリシアからこの家を出ようと提案されたことを思い出した。
「堕胎に応じる気配がない。おまえからも言っているのか? 医者が言うには、まごまごしていると処置ができない時期に入ってしまうそうだぞ」
「それが……あの……なかなか首を縦に振らなくて……」
うそだった。
シリルは、フェリシアに堕胎してくれとは一度も言ったことがない。そんなことを言えば、フェリシアとの関係が切れてしまうことは明らかだったからだ。
レイモンドは探るように目を細めてシリルを見る。
父と視線が合ったシリルは、思わず目を逸らした。その態度に何かを察したレイモンドが口を開く。
「シリル。分かっているとは思うが、今後もおまえたちの結婚が認められるようなことはない。もし、もしもだ、おまえたちがこの家を出ようと思っているのなら、考え直したほうが賢明だぞ」
「……」
「おまえたちはこの家以外の世間を知らん。貴族という保護から出て、平民として生きていけるとでも思っているのか? この家を出れば、おまえはフェリシアと腹の子、そして自分自身の生活を、たった一人で支えていかねばならん。貴族の世界しか知らないおまえが、どうやって生活を支える? 泥水をすすって生きていくつもりなのか?」
「……」
「当然だが、この家を無断で出れば、私はおまえたちを一切手助けせんし、この家に戻ることも許さん。よくよく考えることだ」
レイモンドは、目の前にいる息子の気持ちが手に取るように分かった。
ここ最近、シリルは仕事にやりがいを感じ始めているのだ。
鉱山の屈強な男たちは、簡単に外部の人間に心を開かない。ましてや、まだ十八の若造の言葉など、聞く耳を持たなかっただろう。
しかし、シリルは粘り強く鉱員たちと向きあった。そして、鉱員たちがシリルの言葉に耳を傾けるようになった結果、停滞していた採掘量が上向きに転じる。その具体的な数字を目にして、鉱員たちはシリルを信頼し頼り始めていた。
仕事で認められつつあるシリルが、今、すべてを捨ててフェリシアとともに家を出るとは思えない。だが、レイモンドは釘を刺すように、あえて警告をした。
自信に満ちていたシリルの顔色が褪せてくる。
「分かって……います……。父上」
この日以来、シリルはフェリシアのもとへ足を向けることが極端に少なくなった。彼に代わり、父レイモンドがフェリシアのもとへと頻繁に通う。そしてその度に、フェリシアに堕胎を迫るのだが、彼女は最後まで首を縦にすることはなかった。
こうして月日あっという間に過ぎ去り、フェリシアの望み通り、堕胎ができない時期へと入る。
日を追うごとに目立つフェリシアの腹は、事情の知らない屋敷の使用人たちの間でもうわさになり始めた。
そこでレイモンドは仕方なく、敷地内にある古い離れを改修し、そこへ身重のフェリシアを住まわせることにする。
それに衝撃を受けたのは、フェリシアではなくシリルであった。フェリシアが新たに住む建物を見て、彼は愕然とする。窓という窓に、鉄の格子が冷たくはめ込まれていたのだ。
「フェリシア!!」
大声で彼女の名を叫ぶシリルは、灰色のモルタルの壁に囲まれた離れに入ると、正面にあるサロンへと向かう。サロンといっても、暖炉の前にロッキングチェアがあるだけの、簡素な部屋だった。
そのロッキングチェアにゆったりと座りながら編み物をしていたフェリシアは、シリルの慌てぶりを見て不思議そうに笑う。
「どうしたの? シリル。そんなに慌てて」
「どうしたって……。父上はひどいよ。こんなところにフェリシアを閉じ込めるなんて……」
シリルは苦悶の表情でフェリシアのもとへ近づくと、彼女を抱き寄せその額に口づけをした。
フェリシアは、抱きしめるシリルの手に自分の手を重ね、彼を見上げる。
「私は平気よ。この子とあなたがいれば」
シリルは崩れ落ちるように膝を床につけ、懇願するようにフェリシアを見た。
「フェリシア……お願いだ。おなかの子は里子に出そう……。僕たちで育てるのは無理だよ」
その言葉を聞いたフェリシアの眉がピクリと動く。
「どうしてそんなことを言うの? 私たちの子供なのに……」
「フェリシア……」
「嫌……嫌よっ! 絶対に嫌っ!! この子は誰にも渡さないわっ!!」
フェリシアは自分に触れていたシリルの手を振り払い、ロッキングチェアから勢いよく立ち上がった。
キーっと鈍い悲鳴のような音を立て、ロッキングチェアが後ろへと下がる。
シリルはあまりのことに言葉が出なかった。
フェリシアはまるで何かに憑りつかれたかのように、怒りに打ち震えた恐ろしい形相でシリルを睨みつける。
「あなたまでこの子を奪うというのなら、今ここですべてを終わらせてやる……」
いつもの屈託のない少女の顔とはまったく違う彼女の変貌ぶりに、シリルは困惑しながらも、フェリシアにゆっくりと近づく。
「フェリシア、落ち着いて。僕が……僕が悪かった。だから……ね?」
そう言うと、シリルはフェリシアをそっと抱きしめた。その途端、彼女は幼い子供のように声を上げて泣き始める。
シリルは、そんな彼女をただ抱きしめ続けることしかできなかった。
フェリシアが十七歳の誕生日を迎えた翌月、冷たい灰色の離れの中で、彼女はひっそりと女の子を産み落とした――