24-1:地獄(ゲヘナ)へ
ウリエルが人間界でヒトに紛れて暮らすための仮の姿は、伯爵の爵位を持ったエクノールという名の貴族だ。そのエクノール家が所有する領地クルタール地方は、大陸の東側にあり、南北に細長く広がっている。
この地域には四季があり、特に領主の屋敷がある北の地域は寒暖差が大きく湿度が低いため、葡萄作りに適している土地だった。そのため、クルタール地方は領地内で収穫した葡萄を使ってワインを醸造するワイナリーを多く抱え、それを中心に領地は栄えていた。
広大な葡萄畑を背にしたエクノール家の邸宅は、リスノという町の奥に鎮座していた。
リスノは、ヒトの姿をした天使が領主のお膝元なだけあって、クルタール地方で最も治安が良いとする場所だった。そうしたこともあり、エクノール邸は、昼間は門扉が常に開け放たれ、畑の手入れをする農民やワインの買い付けに訪れる商人など、ヒトの出入りが頻繁な屋敷だった。
しかし、今日はそのエクノール邸の門扉は固く閉ざされていた。
町の人々は、そこに領主の屋敷が存在していることを忘れているかのように、門扉の前を通り過ぎていく。
町の空は薄雲が筋のようにいくつか見えるだけで、目の覚めるような青空が広がっていた。だが、エクノール邸の周囲だけは、薄紫色の円形状の膜が屋敷の存在を隠すように覆っていた――
「本当に隔離された空間なのねぇ」
中央に噴水が配置された広大なシンメトリーの前庭に佇む女の姿のサキュバスが、薄紫色の空を見上げて不思議そうに言う。
「天界からも地獄からも、見られてはいけないからね」
ウリエルが腰に手を当て、サキュバスと同じように上を見た。
天使や悪魔が下界を覗く際に使う『千里眼』の対策として、エクノール邸一帯は結界が張られていた。これにより、ヒトはもとより天使や悪魔も、ここは認識できない空間となっている。
「この結界があれば、ハルちゃんは今すぐにでも人間界で暮らせるんじゃない?」
サキュバスは視線を空から横にいるウリエルに移した。だが、ウリエルは首を振る。
「無理だね。この結界は空間ごと切り離すから、この地が空白地帯となってしまうんだ。一時的であれば問題はないけれど、長期の空白は周囲の認知に齟齬を与えて違和感を生んでしまう」
「ふぅーん」
「……」
理解できたのか怪しい返事をするサキュバスを、ウリエルは薄眼で見る。そして、話題をかえるように、二人とは少し離れた場所にいるハルのほうへと向き直った。
「で、姫はまだご機嫌斜め?」
ウリエルに釣られて同じ方向を見たサキュバスは、首を振ってため息をついた。
栗色の髪を片側に結わえてまとめたハルは、暗黒色のローブを身に纏ったミカエルから顔を背けて立っていた。
薄紫色の空間は、色鮮やかであろう園庭の華やかな色をくすませていた。それと同じように、ハルの顔も暗くくすんで見える。
「ハル……」
銀髪のミカエルが困った顔をしながら、体を折り曲げてハルの横顔を覗き込んだ。
「……」
しかし、ハルは今朝からずっと、ミカエルとは一切目を合わせようとはしなかった。
ミカエルの隣にいたラジエルが、助け船を出すようにハルの正面で片膝を突く。
「ハル、あなたも分かっているはずですよ。地獄がどれほど危険なのか」
地獄に捕らわれているルファを救い出すとミカエルから聞いたハルは、開口一番、自分も一緒に地獄へ行くと言い出したのだ。しかし、当然ながら彼女の願いは聞き入れられなかった。
「でも……私ならルファの居所が分かるのよ? みんなの役に立てるのにっ」
眉間にしわを寄せ不満を訴えるハル。ラジエルは躊躇い気味に微笑む。
「気持ちは分かりますが……」
「嘘だと思っているのでしょ?」
そう言うと、ハルは自分の服の裾をぎゅっと握り締め俯いた。
先日から、ハルは同じことを繰り返し訴えていた。自分はルファの気持ちを感じ取れる。だから彼女の居場所が分かるはずだと。
ハルがなぜ、そのようなことを言うのか、根拠は一体何なのか、本人すらも分かっていないため、周囲はその訴えをどう扱ってよいのかが分からず困惑していた。
ラジエルがゆっくり首を振り、静かに諭す。
「いいえ。あなたが嘘を言っているとは誰も思っていません。危険が大きすぎると言っているのです」
「でも……」
反論しようとするハルを遮るようにラジエルは続ける。
「冷静に考えてみてください。あなたを地獄へ連れて行けば、己の身とあなたの身の両方を守りながら先へと進むことになります。敵地の状況が分からない中、それがどれほどの危険を伴うか、もし分からないと言うのなら、それはあなたが地獄へ行くべきではないということです」
「それは……」
その答えがイエスでもノーでも、答えは一緒だと気づいたハルは唇を噛み締める。
ラジエルは片手でハルの頭にそっと触れた。
「ハル、私も同じ気持ちですよ。願うことなら、私もミカエル様とご一緒したかった」
ガブリエルが裏で指示したとは知らないミカエルは、ラジエルを天界に残すというウリエルの提案をあっさりと了承した。それはやはり、最も信頼できる天使をハルのそばに付けておくことが最善であると、ミカエルも判断したからだった。
上官の命令は絶対だ。ラジエルもまた、自分の気持ちをすべて飲み込みミカエルの指示に従ったのだ。
ラジエルの気持ちが自分と同じだと分かったハルは、申し訳なさそうに顔を上げる。
「それは……私のせい……よね?」
ハルを気遣うように、ラジエルは首を振りつつニコリと笑った。
「いいえ、そうではありません。ミカエル様は、最も重要な任務を私に任せてくださったのです。あなたを守るという重要な任務を」
「……」
「それに、信じて待つことは、ともに戦うことと同じだと私は思っています」
「信じて……」
ポツリと呟くハルに、ラジエルは力強く頷いた。
二人のやり取りをそばで聞いていたミカエルが、片膝を突いているラジエルの肩にポンと手を置き、ハルを見た。
「ハル、ラジエルと一緒に待っていてくれ。ルファを必ず連れてくるから」
「……分かったわ。必ずよ?」
「ああ、必ず」
コクリと頷くハルの頭を、ミカエルはクシャリと撫でて微笑んだ。