23-1:思惑と重なり
「どういうことなのか、説明してもらえるかな?」
仄かな光が揺れる岩の壁に囲まれた室内で、赤髪のウリエルは不快感を露わにした。
ガブリエルは、部屋の奥に置かれた焦茶色の書斎机で、開かれた書物に視線を落としたまま言う。
「お前が聞いた通りだ」
冷ややかに答えるガブリエルの態度に、ウリエルは怒りに任せてバンと書斎机の天板を叩いた。
「ミー君を地獄へ行かせるだなんて、僕は聞いていないっ!!」
ハルとの接見を前倒しにすると、ガブリエルから事前に聞いていたウリエル。もしミカエルが自分の職務を放棄して下層へ向かうようなことがあれば、足止めをするようにとも言われていた。
だが実際は、ガブリエルに出し抜かれたことを知っても、ミカエルは職務を予定通りにこなしたため、ウリエルが足止めするようなことにはならなかった。
その後上層へ戻ったガブリエルから、下層での詳細な報告をウリエルは聞かされる。しかしその時は、ミカエルが地獄へ行くとはガブリエルは一言も言わなかった。にもかかわらず、つい先刻、ミカエル本人からその旨の相談を受けたウリエルは酷く狼狽し、その足でガブリエルの隠し部屋へと押しかけたのだった。
薄紫色の長髪を後ろで束ねたガブリエルは、ため息交じりに読んでいた書物をパタリと閉じる。そして、ウリエルの怒りに反応してずれてしまった小物を定位置に戻しつつ、頭を左右に振った。
「下層で話し合ったときには、ミカエルは地獄行きを決めてはいなかった。あいつ自身『考えさせてくれ』と言っていたのだ」
「ガブ君は、僕にそんな話をしていないよね?」
不服そうに口を尖らせるウリエルに、ガブリエルは珍しく困った顔を向ける。
「不確定な話をお前に聞かせるべきではないと思ったからだ。勘違いしているようだが、ミカエルに地獄へ行きルシファーを連れ出してこいと、私が言ったわけではない」
だが実際は、ガブリエルがミカエルに対し連れ出してこいと半ば言ったようなものだった。
地獄は今、人間界の或る国に目が向けられていた。ヒトの中にある小さな燻りが、地獄により炎と化そうとしていたのだ。
天界はただ手をこまねいて見ていたわけではない。辛抱強くヒトを光へと導いていた。だが、ヒトがどう選択するかはヒト自身が決めること。それが悪しき道だったとしても、天界はヒトを止められない。それが、神がヒトに与えた『自由意志』という権利であり、天界に課した枷だった。
ルシファーが地獄で囚われの身だとミカエルから聞いた時、ガブリエルは好都合だと考えた。
囚われたルシファーを天界が解き放ち、あとは都合のいいように利用すればよいと。だからこそ、ガブリエルはミカエルを唆した。ルシファーのこととなれば、目の色が変わるミカエルだ。必ず動くと確信があった。
しかし、ガブリエルはそのことをウリエルに話すことはしなかった。ウリエルもまた、ミカエルのこととなると目の色が変わる。これ以上火に油を注ぐような真似は面倒ごとしか生み出さない。
ガブリエルは話の矛先を変えるように言う。
「いずれにせよ、あの娘の転生話を進めれば、ルシファーとの断絶は避けられない。ともすれば、一度はルシファーと接触せねばなるまい」
ガブリエルの言葉を聞いた途端、ウリエルの怒りは急速にしぼみ、その表情が曇る。
「それ、本当にする気なのかな……。いや、ミー君のことだから、するのだろうけれど」
「……」
ガブリエルの眉根が僅かに動く。
無垢の子であるとはいえ、最高位天使ミカエルから切り出した核を使い、ヒトを天使に転生させるなど前代未聞だった。いかに反発しあう仲とはいえ、天界の戦力を大きく後退させることをこのまま認めてよいものかと、ガブリエルは考えていた。
それに加えて、ヒトに対し慈悲深く寛容な天界であっても、ルシファーとの関係が深すぎるハルの転生を素直に受け入れるとは、ガブリエルには思えなかった。
だが、ミカエルがあそこでまさか『あの子』の話を持ち出してくるとは……。
ミカエルは神の子である『あの子』の終焉に立ち会った。そして、ガブリエルは来るべき終焉を知りながら『あの子』を闇に染まる人間界へと降ろしたのだ。
己でヒトを光へ導けず、守るべきヒトの子の力を借りるとは……。ガブリエルはそっと拳を握り締めた。
「神は、なぜこのような理を創ったのだろうか?」
ガブリエルは不意に、随分前にこの部屋でウリエルに向かって言った自らの言葉を思い出す。それに加わるように、ミカエルがガブリエルに言った言葉が重なる。
「父上がヒトの魂をそのように創造したことには意味があると思う」
ガブリエルは書斎机に肘をつき口元を片手で覆った。ガブリエルの中で己が発した言葉とミカエルの言葉が再び共鳴する。
「神が我らを試しているのではないのか」
「父上がそのように定めたからといって、俺たちはただそれに従うだけでいいのか?」
ガブリエルは、自分の心底とミカエルのそれが重なるとは思ってもみなかった。自分たちが兄弟であることを嫌でも認識させられる。だからなのか、ミカエル自身が矢面に立つという彼の転生計画に乗ることを、ガブリエルはあの場で決めてしまった。
急に黙るガブリエルをウリエルの青い瞳が不思議そうに覗き込む。
「ガブ君? 大丈夫?」
「あ……あぁ、少し考えごとをな……」
「ふぅーん」
夢から醒めたように呆けた顔をしたガブリエルを、ウリエルは彼がまだ何かを隠しているのではないかと訝しい表情で見る。
それを感じつつも、ガブリエルは話題を逸らした。
「で、ミカエルはお前にどんな相談をしてきたのだ?」
不満げな表情を残しつつ、ウリエルは「あぁ……」と言いながら、書斎机の前に置かれている革張りのソファーへドカリと座る。
「ハルのことだよ。ラジエルとお目付け役の夢魔を地獄へ帯同するから、しばらくラファをサフィルス城に滞在させたいって」
「ラファエルを?」
「そう」
末妹のラファエルが無垢の子ハルのそばにいれば、自分が手を出しづらいはずというミカエルの算段だと、ガブリエルはすぐに気がつく。ミカエル自らが地獄へ行くことは感心しないが、止めても無駄だろう。
書斎机の天板に両肘をつき、組んだ手に顎を乗せるガブリエル。しばらく考えた後、口を開いた。
「ウリエル」
「ん?」
目の前のローテーブルに置かれた無花果の皮を剝き、今まさにかぶりつくところだったウリエルは、その口の形のままガブリエルを見る。
「お前が最も信頼する部下をミカエルにつけてくれ。無垢の子のそばにはラジエルを置くほうがよいだろう」
無花果を手にしたまま、ウリエルは目を細める。
「それは、地獄でミー君の動向を監視しろってこと?」
「それと万が一、あいつが暴走しないよう、よく鳴る鈴をつけておきたい」
「鈴……ね」
肩をすくめたウリエルは、手にしていた無花果をサクリと食べる。その瞬間、仄かな明かりだけが灯る室内に甘美な香りが広がった……。