22-2:黒い謎
「あぁっ! クソっ! あいつ、どうやってサタンの城に忍び込んだんだよっ」
上層の大神殿にある物音ひとつない書庫の空間に、苛立った俺の声が響く。
中央が円形状の吹き抜けになっているこの書庫は、まるで闘技場の観客席のように、階段状に並べられた書架で埋め尽くされていた。
書架に詰め込まれた書籍を開くと、題目だけが各ページにひしめくように記載されている。その題目に手をかざせば、さらに詳しい内容が魂の系譜同様に映し出される仕組みだった。そのため、書籍は見た以上に膨大な情報が収められている。
書庫の中でも閲覧注意となっている禁書の書架がある区画。俺はそこで目ぼしい本を取り出しては、熾天使だったベルゼブブがサタンの居城へ侵入した方法がないかを探していた。だが、それらしいものは今もって見つけられていない。
もっとも、俺はこの書庫に収められているすべての書籍に目を通している。そのため、それが書かれた本は存在しないと分かってはいるのだが……。
「ガブリエル様……に、お尋ねになった……のですか?」
薄墨色のショートボブのサリエルが、上半身が見えなくなるほどの大事典を抱えながら、独特な間の取り方で尋ねてきた。
俺は彼女が抱える大事典の半分を受け取り、机の上に山と積まれた書籍の脇の僅かな空きスペースに押し込みつつ答える。
「謀反の騒ぎが収まってからいろいろと調査したが、ベルゼブブの件は最後まで分からなかったらしい。そりゃそうだよな。ルシフェルに加担した大半の堕天使が地獄へ堕ちてしまったんだから……」
ガシガシと銀色の髪を掻きむしりながら、俺は目の前の書籍へ再び視線を落とした。
ルシフェルの謀反が収束した後、ベルゼブブの自室が隅々まで調べられた。だが、彼の自室からはサタンの居城へ侵入した方法はおろか、謀反の詳細な計画などを書き記したものは一切出てこなかった。
調査はベルゼブブとかかわりのあった天使にまで及んだ。しかし、これも徒労に終わる。
ベルゼブブはもともと、天使としての出自が特異だった。俺たちのように生誕の間では生まれていないのだ。そういったことが背景にあるせいか、ベルゼブブは周囲との接触を最低限度にとどめていたらしい。そのため、彼のことを詳しく知る者はほとんどいなかった。いや、おそらく、ベルゼブブをよく知っているのは、彼とともに地獄へ堕ちたルシフェルとアスタロトの二人だろう。
サリエルは持っていた残りの辞典を、俺が置いたものの上にそっと積みながら首を傾げる。
「ですが……どこかで知識を……得なけれ……ば、ベルゼブブは行動を……起こせない……かと」
「そうなんだよなぁ。それと……」
「それと?」
サリエルが繰り返す。
だが、俺は余計なことを言ってしまったと思い、首を振った。
「いや、何でもない」
熾天使だったベルゼブブが地獄にあるサタンの城へ忍び込んだ方法も謎だが、そもそも地獄へはどうやって行ったのだろう?
俺たち天使は、地獄への直接的な転移ゲートは開けない。天界と地獄の境界線である『狭間』を、誰にも気づかれることなく抜けることも不可能だろう。
だがもうひとつ、天界から地獄へ直接行ける方法がある。しかし、そのことを知っているのは、俺と父である神、そして、天界のあらゆる知識を持っているあの天使しかいないはずだった。
俺が調べ終えた書籍を抱えたサリエルは、物思いにふける俺からそっと離れ、書庫の奥へと姿を消す。
すると、それを見計らったかのように、バサリと翼の羽ばたく音が聞こえた。
「初心にかえってお勉強かい? ミカエル君」
頭上から聞こえた声に顔を上げた俺は、そこに現れた天使の珍しさに驚く。
「ケルビム……」
白の法衣を身に纏い、スキンヘッドの人型の智天使ケルビムは、地面に立つこともなく、翼を羽ばたかせながら空中で足を組み佇んでいた。
「珍しいな。お前が父上のそばから離れるなんて」
俺は思わず訝しい表情になる。
人・獅子・牛・鷲と四体に分かれているケルビムは、天界と神を守護する役目を担っている。特に、人型のケルビムは常に神のそばにいて、その御身を守っているはずだった。
「まぁ、たまには息抜きも必要だよね」
頭の後ろで手を組んだケルビムは、体を仰け反らせてニヤリと笑う。
「へぇ……」
一秒でも時間が惜しい俺は、用件を言わないケルビムから目の前の書籍へと視線を戻す。
それを見たケルビムが言う。
「ミカエル君、つれないなぁ……。冗談だよ、ジョーダン。伝言をね、預かってきたんだ」
「伝言?」
その言葉に反応して再び顔を上げた俺を見て、空中で組んだ足に肘を乗せ、頬づえをついていたケルビムが苦笑いをした。そして、俺の鼻先に拳を突き出す。
彼の手の甲には、皮膚を割くようにして収まる眼球があり、俺はそれと目が合った。
すぐに手首を返したケルビムは、握っていた手をパッと開く。そこには小さくクシャリと丸められた紙があった。
その紙が外気に触れた途端、青白い炎が燃え上がる。すると、燃える紙の上に、炎と同じ青白いエノク文字が浮かび上がった。
『生誕の間で待つ』
その文字は、紙が燃え尽きるのと同時に、オレンジ色に変わって焼け落ちた。
ケルビムの手のひらには燃えカスだけが縮れて残る。彼はまるでろうそくを吹き消すように、その灰をふーっと吹いて空中へと消し去った。
「誰から……」
誰からの伝言かと俺は言いかけた。しかしその前に、ケルビムはニヤリと笑って、手品のコインが消えるようにあっという間に姿を消してしまう。
差出人不明の伝言。だが、人型のケルビムを伝達役に使える者は、ほとんどいない。父である神が俺に何かを伝えるのであれば、必ずメタトロンを通すはずだ。
ケルビムを通して俺に接触してきた天使。俺はそいつをたったひとりしか思い浮かべられなかった。