20-3:水と油
魂の終焉が『消滅』と定められている無垢の子。
神により決められたその定めを、ただ漫然と受け入れる。神は……父上はそれを望んでおられるのだろうか? 俺の中で、それは違うと声がする。俺の知っている父上なら、その定めの、その理の先にある『何か』を己の手で掴み取ることを望んでおられる気がするのだ。
そんな俺の思いとは裏腹に、ガブリエルが頭を左右に振りながら盛大なため息をつく。
どこかで見たことのある顔だなと思ったら、人間界で俺がルシフェルと契約魔法を使って協定を独断で結んだと知ったウリエルの顔にそっくりだ、と思い当たる。
なんだかんだ言っても、やはり、兄弟……だな……。
そんなことを俺が思っているとは知るはずもないガブリエルが口を開いた。
「お前はそれを永遠に続けるのか?」
「?」
俺はガブリエルの言っている意味がすぐに理解できず、僅かに首をひねる。そんな俺に彼は呆れ気味に言う。
「仮に、あの娘が天使になることを選んだとする。そして、遠い未来に再び『座位の無い者』が誕生した時、お前は同じことをするのか? いや、できるのか?」
「それ……は……」
ガブリエルの指摘を理解した俺は苦い顔をした。彼はなおも続ける。
「ヒトを天使に転生させることは容易ではない。基となる『核』が必要だからな」
「……」
「お前のことだ。あの娘が天使になると選択すれば、己の核を切り出すつもりなのだろう? あの娘はそれでよいかもしれない。だが、次に誕生した座位の無い者はどうする? その先は? まさか、ほかの天使の核を切り出すつもりではなかろう?」
「そんなことはっ」
俺は反論しようと口を開いたが、そこに被せるようにガブリエルが言う。
「そもそもお前は、自分の核が貴重だという自覚がなさすぎる。切り出した分だけお前の力が弱まるのだぞ? それは天界の戦力が弱まることと同義だと分かっているのか?」
「だからって、目の前で消え去るだけの命を放っておけるかよ!」
語気を強めた俺は、思わずソファーから身を乗り出す。ガブリエルは冷めた目で俺を見つめた。
「それが『定め』ならば受け入れるしかない」
結局、互いの本来の主張へと戻ってしまった俺たちは、しばらくの間睨み合った。妥協点なんて見つけられるはずがない。なぜなら、俺とこいつの立ち位置がそもそも違うのだ。
やがて、ガブリエルは俺から視線を外すと、ソファーの背に体を預け天井を仰ぎ見た。
「不毛だな。私がここでいくら諭したところで、お前はこのまま押し切るのだから」
俺もガブリエル同様、ソファーに深く座り直し、大きく息を吐きだした。
「自己満足だって言いたいんだろ? その通りだよ。これは俺の都合で押し切るんだ。ハルは関係ない」
「……」
その言葉に、ガブリエルの視線が俺へと戻る。俺を見つめるその目は、何かを探る様なものだった。
少し間をおいて、目を細めたガブリエルが口を開く。
「なるほど……。では、彼女はお前の暴走の犠牲となるわけか。それはさぞ、不憫で皆の同情を引くだろうな」
言葉とは裏腹に、ガブリエルの表情はますます冷ややかになる。
しかし、それでよかった。俺が考えるシナリオには、ガブリエルの協力が必要不可欠なのだから。それは――
『あの子』に関して後悔の念を持つ俺が、ハルを天使に転生させるべく独断で動く。神の了承を得て、一度口火を切ってしまえば、あとは転がるだけ。天界は、約束を反故にすることを酷く嫌う。非難はあっても神の了承さえあれば、最悪、彼女の転生は必ず果たされる。
問題は、非難の矛先をどこにするかで、これは俺が引き受けなければならない。そして、この矛先をガブリエルが誘導してくれれば、ハルを非難から守れるのだ。
誰よりも勘が鋭いガブリエルは、俺の考えにすぐさま気づいたようだった。先ほどの熱量とは明らかに違う、いつものガブリエルが「だが……」と続ける。
「だが、問題はルシファーだ。結びつきが強すぎる。娘は人間界へ戻ることを希望しているが、このままだと生涯、別棟から移すことは叶わない。ましてや、天使への転生など、神が許すはずもない夢物語だ。無理に強行すれば、地獄からスパイを送り込まれたと、皆に思われかねんぞ」
「それは、俺も憂慮している……」
天使に転生させようと俺が本格的に動き出せば、途端に、ハルの存在が天界全域に知られることとなる。そうなれば、悪魔となったルシフェルとの関係も、当然、知られてしまうだろう。地獄の支配者の愛し子。それを払拭しない限り、ガブリエルの言う通り、転生は夢物語で終る。なぜなら、天界の混乱を招くようなことを神が許すはずもないからだ。
「断ち切らせろ」
俺が躊躇っていることを見透かすように、ガブリエルが言い放つ。
「それが条件だ。今後のこともあるが、娘とルシファーとの関係を切らなければ、転生そのものを私は認めない」
分かっていたことだった。ハルが天使へ転生するということは、ルシフェルとの関係を断ち切らなければならない。いや、天界の保護下にいること自体、遅かれ早かれ、こうなることは目に見えていた。
口元を手で覆った俺は、ガブリエルとの間にあるローテーブルのガラスの天板を見つめる。
断ち切らせろと言われても、悪魔に命を狙われているハルを地獄へ連れて行くわけにはいかない。それに、サキュバスの話によれば、ルシフェルは、今、サタンの居城に幽閉されているはずだ。そんな彼女が動けるはずもなかった。
思案する俺にガブリエルが言う。
「すぐにとは言わんが、今、人間界で地獄が介入しているであろう不穏は動きがある。その動きにより人間界全域で戦争が起こりそうなのだ。いずれ我らも本腰でそれに対応しなければならなくなる。事が始まれば、娘とルシファーとの対面は難しくなるだろう。急いだほうがよいぞ?」
人間界での不穏な動き? そういえば、ここ最近、人間界で領土の奪い合いが増加傾向にあった。それに地獄が介入しているというのか?
考えが纏まらない俺は、戸惑いながらガブリエルを見た。
「今は……難しい……な」
「なぜだ?」
ガブリエルが不思議そうに首を傾げた。俺は躊躇いがちに言う。
「サキュバスの話によれば、今……あいつはサタンの居城に幽閉されている……らしい」
その言葉に、ガブリエルは「ほぉ」と声を漏らしたあと、納得するように首を僅かに縦に振った。
「おおかた、無垢の子を隠していたことに対する糾弾を受けた、といったところか」
「……」
「ならば、ルシファーの滅びを待つ、というのも手だが……」
独り言のように言うガブリエルを、俺は反射的に睨みつけた。それに気づいた彼が苦笑いをする。
「そう怖い顔をするな。まぁ、私がベルゼブブなら、ルシファーを滅ぼすような真似はしない。サタンと一緒だ。『畏怖』がそこにあるからこそ、悪魔たちを操りやすくなるからな」
ルシフェルたちがサタンと対峙した時、奴から王座を奪い取るだけに止まったのは、滅ぼせなかったのではなく、敢えて滅ぼさなかった、とでもいうのか? そんな余裕があったとは思えないが……。
黙ったままの俺に向かって、ガブリエルは話を続ける。
「地獄が慌ただしい今、逆に、隠密行動もしやすかろう? 例えば、誰かの手引きでルシファーが牢獄を抜け出す……とか」
「な……」
俺は驚きで言葉を失った。悪魔を蔑み嫌うガブリエルが、俺にルシフェルを脱獄させろと促すとは……。
ガブリエルが鋭い目つきに変わる。
「人間界での地獄の動きが新たな支配者の暴走だとして、ルシファーがそれを止めるのであれば、我らにとっても有益だと思うがな」
つまり、ハルを取引の材料にするつもりなのか……。
俺は渋い顔をする。
「少し……考えさえてくれ」
鋭い目つきを緩めたガブリエルが肩をすくめた。
「それは構わん。お前が動かねば、天界は通常通りに動くだけだ。あの娘のことを抜きにしてな」
そう言うとガブリエルは立ち上がり、部屋の扉へと向かう。ノブに手をかけた彼は、思い出したように俺のほうを振り返った。
「そうそう。明日の接見はお前に任せる。後は、無垢の子の今後についてのみだからな」
「……」
それだけ言うと、俺の返事を待つことなくガブリエルは部屋の外へと出て行った。
ガブリエルという天使はこういう奴だ。
俺がハルを天使に転生させようと画策していると知りながら、素知らぬ振りをし、ハルとの接見に俺の同席を認めた。だが、直前で俺を排除することで、俺を煽り、さらに、怒りで冷静さを欠いた俺を焚きつけるように、俺の考えと対立した姿勢を見せつけ、俺の本音を引き出した。
だが、これらの行動は俺に考えを改めさせることが目的だったわけではない。
端からあいつは、俺にハルとルシフェルとの関係を切らせる役割をさせるつもりだったのだろう。いや、それが本当の目的かも怪しい。人間界で不穏な動きをする地獄を止めるための道具として、ハルやルシフェルを使おうとしているのかもしれない。もしそうだとしても、俺にそれを拒めるだけのほかの妙案があるわけでもなかった。
「あいつ、本当に気に喰わねぇ……」
ガブリエルが消えた扉を、俺はギリギリと睨み続けていた。