02-0:赤銅色の夜(本編外)
ハルとルファがパストラル郊外の放牧地で、天使のミカエルとラジエルに初めて会ったその夜。
悪魔であるルファの身を案じていたハルがやっと眠りについた頃、男の姿になったサキュバス……いや、インキュバスは赤い屋根の家の裏手にあるウッドデッキにいた――
家の裏手にあるウッドデッキに置かれたカウチに、男の姿になった僕は、背もたれに体を預け、座面に足を投げ出して横たわっていた。
地獄の支配者の一人、魔王ルシファー。天界から堕天したのち、当時、地獄を支配していたサタンをその力でねじ伏せ、彼の王座を奪い取ったとされている。
悪魔だけではなく天使でさえも、ルシファーの名を聞いただけで恐れおののき震え上がる。恐怖の源泉であり、悪の頂点である存在。
そんな誰もが恐れる魔王様が、今、僕の胸にその身を預け、この腕の中にすっぽりと収まり、夜空を見上げているなんて、本当に滑稽な話だと僕は思う。
「ね? 今夜の満月は、素晴らしいでしょ?」
僕は、ルファの耳元で吐息のようにささやいた。少し肌寒い夜風が、僕の亜麻色の短い髪をサラサラと揺らす。
「本当ね……」
夜空を見上げながら、つぶやくように答えるルファ。
僕らの頭上には、赤銅色に輝いた巨大な満月があった。この特殊な色の月の名を『ブラッドムーン』と呼ぶらしい。
僕はルファを抱きしめながら、彼女の首元に自分の顔を埋める。金木犀のほのかな香りが僕の鼻腔をくすぐり、僕の中によからぬ思いを芽吹かせた。
「久しぶり見た『彼』は、どうだった?」
「……」
僕の質問にルファは何も答えない。
ただ黙って夜空を見上げるルファの表情は、僕からは見えなかった。
時折吹く夜風に紛れて、ルファの髪の毛がまるで彼女の指先のように、僕の顔を優しく撫でる。僕は意地悪な質問を口にしたことを、すぐさま後悔した。
「ごめん……。意地悪だった」
「大丈夫。分かっている」
ルファは、抱きしめていた僕の腕を取り、自分の唇を押し当てる。
ルファの唇が触れたところから、僕の体全体にしびれが広がり、砕けてしまいそうなほどの恍惚感が僕を襲った。
世界がまだ地獄と天界しかなかった頃、僕は、この世のすべてにうんざりしていた。
夢魔である僕は、地獄の悪魔たちの夢を喰らっても、何ら楽しみも快楽も生まれない。
時折、天界との狭間で見かけた下級天使を襲い、一瞬の快楽に身悶えるその姿を見て、僕は嘲笑っていたが、それもすぐに飽きてしまった。
僕はどこにでもいるただの下級悪魔で、地獄や天界の情勢になんて、まったく興味がなかった。
このときの僕は、僕自身が『存在する意義』を見いだせていなかった……。
しばらくして、『あの時』を境に地獄の様子が一変した。
太陽が昇ることのない暗闇の空が、まるで炎でただれたような赤銅色に染まった。そう、今見ている『ブラッドムーン』のような空だった。
その赤銅色の空を切り裂くように、一つ、また一つと光芒が流星群のように降り注ぎ、地獄の荒涼とした大地に突き刺さる。
その様を見て、僕は『美しい』という感情を初めて知った。
堕ちてくる光芒のなかで、僕は、ひと際強く輝く一筋の光に目を奪われる。僕の中の誰かが、あの光の下へ行くようにとささやいた。
導かれるように、その光が落ちたところへ辿り着くと、そこには一人の天使が倒れていた。いや、正確にいえば『天使だった者』だ。
美しかったであろう六枚の翼は、羽が見るも無残に焼け焦げており、骨が剥き出しのところもあった。そして、胸から背中にかけて刺し傷があり、そこからどす黒い血がゴボゴボと垂れ流されている。顔も体も目に見えるところすべてが焼けただれて斑な色をしており、肉が焦げるひどい悪臭を放っていた。
僕が知っている、あの威厳に満ち溢れ、見目麗しい天使様の姿だとは想像もできないほど、目の前にいるのは、醜い肉の塊のような堕天使だった。
赤銅色の空から堕ちてきた美しい光芒の正体が、今、目の前にいるこの醜い堕天使だったとは、なんとも皮肉なものだと僕は思う。
堕天使からはヒューヒューと息遣いが聞こえ、まだ滅びていないことだけは辛うじて分かった。だがその息遣いも徐々に弱まり、やがて完全に聞こえなくなる。
天使が滅びる場に出くわすなど、初めてのことだった。
僕は、夢から醒めたようにひどくグッタリした気分になり、滅びた堕天使のそばを離れようとした。
そのとき、堕天使の斑色の体が乾ききった大地のように赤黒く固まった。次の瞬間、パリパリと音を立てながら、まるで鱗が剥がれ落ちるかのように崩れ始める。
その光景を呆然と見る僕の目の前で、堕天使に張り付いていた赤黒い肉の鱗は、すべて崩れ落ちてしまう。そして、そこには、張りのある滑らかな肌をした、六枚の飛膜の翼が生えた女の裸体が横たわっていた。
僕は、まるで引き寄せられるように、その女を抱き上げる。艶やかな漆黒の髪、透き通る白い肌に筋の通った鼻、淡い赤の唇――僕は一瞬にして、その女に心を奪われた。
* * *
庭のカウチに重なり合うようにして横たわる僕とルファを、ブラッドムーンが妖しく照らしている。
僕はルファの首元に埋めていた顔を少し起こし、彼女のうなじにキスをするように唇を押し当てた。
「僕は、あなたが誰を愛そうと構わないよ。僕は夢魔だから……。あなたが愛する誰かの代わりをすることが、僕の存在意義なんだ」
その言葉を聞いたルファは僕のほうを振り向き、潤んだ瞳で僕の顔を見上げた。
「あなたはあなた。誰の代わりでもないわ」
そう答えると、今度はルファが僕のうなじに手を添え、自分のほうへとゆっくり引き寄せた。
僕はその手に導かれるように、ルファと唇を重ねたあと、彼女の体を月から隠すようにそっと覆いかぶさった……。