19-2:接見
石造りの別棟は、周囲から隠されるように森の中に建てられている。その景観を活かすため、普段ハルたちが過ごすリビングルームは二階にあった。
しかし、ハルを連れ立って歩く熾天使ガブリエルは、迷うことなく建物の一階奥にあるサロンへと向かう。
客間の意味合いを持つサロンは、リビングの落ち着いた内装とは異なっていた。
天井からクリスタルが鏤められたシャンデリアが垂れ下がり、部屋の片隅にはウォールナットの木目が美しいグランドピアノと、その横に寄り添うようにハープが置かれてある。
部屋のカーテンとソファーの生地が、金の刺繍入りの桃紅色に統一されているためか、サロンはまるで春のように華やいでいた。
ガブリエルは、部屋の奥にある一人掛けソファーに、館の主のように座る。
ハルとサキュバスは、必然的にその斜め前にある三人掛けのソファーへと腰を下ろした。
少し遅れて入室したアテンドの能天使が、各自の前にお茶とお茶菓子をセットし、静かに立ち去る。その間、ハルはガブリエルのほうを向けず、目の前に置かれた紅茶のカップを穴が開くほどに見つめていた。
「天界の生活で、何か困っていることはありませんか?」
バリトンの落ち着いた声が横から聞こえ、チラリとそちらを見た。ソファーにゆったりと座り、優しい笑みを浮かべるガブリエルと目が合い、ハルは慌てて視線を逸らす。
「いえ……。皆さん、とてもよくしてくださるので、困ることはありません」
「それはよかった。少しでも不便を感じることがあれば、すぐにおっしゃってください。直ちに対応いたします」
「ありがとうございます。そうします……」
ぎこちなく微笑むハルに、ガブリエルは満足そうに頷いた。彼がさらに何かを言う前に、ハルは話を続ける。
「あのっ……お会いするのは二日後と伺っていました。それに……ミカエルも同席すると……。なぜ、今日……なのでしょうか?」
ハルからすれば当然の疑問であった。さらに言及すれば、ミカエルを外すためにわざと接見の日をずらしたと疑っても仕方がない。
ガブリエルはハルの疑いを見透かすように、少しだけ困った顔になる。
「確かに、接見は二日後でした。この日程は、ミカエルの仕事の都合で組まれたものです。しかし、今回の接見は、人間界の統治者である私の管轄領域。本来ならば、彼の出る幕ではないのです。ただ、何を心配しているのやら、ミカエルが同席させろと執拗に要求してきたので認めました。が……下層での視察がたまたま入ったため、急遽この日に前倒しすることにしたのです」
ハルの横で黙って聞いていたサキュバスがポツリと言う。
「たまたま……ね」
ガブリエルがサキュバスのほうを見て、微かに笑った。
「まぁ……今言ったことは表向きの理由です。ですが、本当の理由は少し違います」
「本当の理由?」
ハルは不安げにガブリエルを見る。その不安を払拭するように、穏やかな表情で彼は頷いた。
「そう。彼が……ミカエルがいる場では、あなたも話しづらいことがあるのではと思いまして。例えば、ルシファー……のこととか」
ウリエルを始めとし、ハルの周りにいる天使たちは『ルシファー』の名を口にすることがない。ハルは、天使たちが意図的にこの名を避けているのではないかと思っていた。そのため、ガブリエルの口から容易く『ルシファー』の名が出ると、逆に違和感を覚えた。
この天使は、私から何を聞き出したいのだろう……。
波打つように不安が広がる。ハルは無意識に、胸にぶら下がるロケットペンダントに触れた。その様子に、ガブリエルが小さくため息をつく。
「安心してください。何もあなたを責めようと思っているわけではありません。ただ、天界とルシファーとの関係は、とても複雑なのです。そこへ、突如としてあなたがやって来た。今、あなたの周りにいる天使たちは、あなたとルシファーの関係をなんとなく理解しています。この『なんとなく』という中途半端な状態はとても危険なものです。事実に憶測が加わり、いつしかそれが真実へとすり替わってしまう。天界は『ルシファー』に過剰に反応してしまうため、一度誤った情報が広がれば、取り返しがつかなくなるでしょう。そうなる前に、私は、あなたとルシファーのありのままの関係を把握し、天界に混乱が起こらないように対処したいのです」
ガブリエルがそう言い終わると、ローテーブルに置かれた紅茶を一口飲む。
ルファと私の関係……。
今まで誰もこの核心に触れることはなかった。ハルは、心の片隅で避けたいと思っていた現実を、ガブリエルによって突きつけられる。
ガブリエルは手にしたティーカップを静かに置き戻した。カップの中で、オレンジ色の波がゆらりと揺れる。
ハルは、自分の心を投影しているようなオレンジの小さな波を見つめながら口を開いた。
「何を……お聞きになりたいのですか?」
ガブリエルの口元は微笑んでいたが、探るような目つきでハルを見る。
「あなたはこれまで、ルシファーとどのように過ごしていたのですか?」
ガブリエルの口から発せられる『ルシファー』という言葉に違和感を持ちながら、ハルは人間界での日々を思い起こした。
「普通です。ヒトが送る普通の生活。特別なことは何もありませんでした。ルファは、薬師として働いていて、私はその手伝いをしていました」
ソファーの背にもたれていたガブリエルが、少し前傾の姿勢を取る。
「薬師……ですか」
ガブリエルは何かを思案するように視線を彷徨わせた。ハルは、話を続ける。
「ルファの背には、悪魔の黒い翼が確かにありました。ですが、薬師として、彼女は困っているヒトを昼夜問わずに助けていました」
「……」
「高額な治療費がかかる医者は、貧しいヒトを診てはくれません。でも、ルファは、そんなヒトたちからお金を受け取らずに薬を分け与えていたんです」
「……」
「私は幼い頃からそんなルファの姿をずっと見てきたし、誇りに思っていました」
「ハルちゃん……」
ポツリと名を呼ぶサキュバスが、ハルの手にそっと触れる。それに応えるように、ハルは彼女の手を握った。
ルファは紛れもなく悪魔だ。だが、ハルの前で、ルファは一度も悪魔である素振りを見せることはなかった。
ハルの話を黙って聞いていたガブリエルが軽く頷く。
「なるほど。あなたとルファは人間界で、そのような暮らしをしていたのですね。では、ルシファーのことを、あなたはどこまで知っているのですか?」
ガブリエルは、ルファではなく『ルシファー』の名を強調して尋ねてきた。
ハルは彼の意図が分からず戸惑う。
「え? どこまでって……もともと天界にいたけれど、神様の意に反してしまったために、堕天して地獄の支配者になった……ですよね?」
困惑しながら答えると、ガブリエルが頷く。
「その通りです。では、神の意に反した理由はご存じですか?」
その言葉に、サキュバスが身を乗り出した。
「ちょっと! それを聞く必要があるの?」
すると、ガブリエルは、その切れ長の目を細めてサキュバスを見る。
「天界が彼女を保護するうえで、彼女がルシファーをどこまで知っているのか、われわれは理解する必要があるし、彼女もルシファーのすべてを知る必要があると思うのだが?」
「それは……」
穏やかではあるが威圧的な口調のガブリエルに、サキュバスは言い淀む。前のめりになった体を渋々ソファーの背に沈めた。
ルシファーのすべて……。
目の前にいるこの熾天使は一体何を語ろうとしているのか、言い知れぬ不安にハルは身を固くした。