18-1:黒の波紋
寝返りを打った俺は薄眼を開ける。厚手のカーテンの隙間から陽の光が察し込んでいるのが見えた。瞼が重い俺は再び目を閉じ、窓辺を背にする。そのとき不意に、昨夜の記憶が俺の脳裏にありありとよみがえった。
「サキュバス。ルファは……いや、ルシファーは、ヒトの魂を喰っていたのか?」
「……」
「喰って……いたんだな?」
「……」
目を開けた俺は上半身を起こす。体が鉛のように酷く重い……。サキュバスが俺の夢に侵入した影響だろうか?
ベッドから這い出た俺は、立ち上がると大きく伸びをした。そして、ベッドの正面にあるダイニングテーブルを見る。そこには、就寝前と変わらずに、天板に広げられた巻物とその脇に寄せられている固く閉じられた巻物が置かれていた。
高位悪魔の行いのなかに『ヒトの魂を喰う』という所業がある。
人間界でパストラルの町を襲撃したカバンティアの山賊たちは、高位悪魔によって、その魂が喰われていた。
悪魔に魂を喰われたヒトは、その自我を失う。そして、彼らの肉体は悪魔の意のままとなってしまうのだ。
山賊たちの暴走を止めようとラジエルが『導き』を行っても、一切効果がなかったのは、彼らの魂がすでに悪魔に喰われていたからだった。
悪魔に喰われたヒトの魂は、無垢の子同様に、輪廻転生から外れてしまう。だが、無垢の子と決定的に違うのは、肉体の死を迎えても魂は消滅せず、地獄の最下層に未来永劫縛り付けられてしまうことだ。
この『ヒトの魂を喰う』という行為は、この世界で最も罪深いものだった。
ダイニングテーブルに近づいた俺は、片手で自分の口を覆い、広げられた巻物に視線を落とした。自然とため息が出る。
一体、どうすればいいんだよ……。
冥界で俺は、ハルの父親グレイから母親イリーナの真実の名が『ラナ・カーディフ』であると聞き出した。
その後、大天使サリエルに指示し、魂の歴史書でもあるラナの魂の系譜を取り寄せたのだが、彼女の過去はかなり酷いものだった。
ラナの生家、カーディフ家は王家の末席にある一族で、王家とは遠縁ながらもそれなりに広い領地を有していた。
そんな裕福な一族の中に生まれながらも、ラナは生まれた直後から自由のない軟禁生活を余儀なくされていたのだ。
ラナの魂の系譜には、出生直後からインクの滲みが点在していた。
状況から考えると、それはつまり、彼女の出生直後からルシフェルがそばにいたことになる。
そこで俺はサリエルに命じ、追加で二人分の魂の系譜を取り寄せた。
ひとつは、ラナの父親シリル・カーディフのもの、そしてもうひとつは、母親フェリシア・カーディフのものをだ。
二人の魂の系譜を確認すると、ラナがこのような過酷な環境に追いやられていた理由が見えてきた。
原因はラナの出生そのものにあった。
ラナは、シリルとフェリシアとの間にできた子供ではあったが、彼らは実の兄妹だったのだ。しかも、シリルはカーディフ家唯一の家督を継ぐ者。フェリシアとの間に子を儲けるなど、決してあってはならないことだった。
特権を備えた名誉や称号を持つ人間界の貴族社会において、悪しき噂は一族を滅ぼしかねない。それ故に、フェリシアの腹にいる子供の存在は外部に漏れてはならなかった。だが、そうかといって、彼女らの命を奪うことは、カーディフ家の家長であり、フェリシアの父でもあるレイモンド・カーディフにはできなかった。
そこで、身重のフェリシアを敷地内に密かに建てた離れへと幽閉。フェリシアはそこで、のちにイリーナと名乗るラナを産んだ――
俺は、天板の隅に置かれているもう一本の巻物を忌々しく見つめた。再びため息が漏れる。
「クソっ……」
俺は、ダイニングテーブルに両肘をつき、握りしめた拳を額に当てる。
俺たち天使が天使たる行為をすることが当然であるように、悪魔も当然に悪魔たる行為をする。たとえ、それが罪深いことだとしても。
それでもルファは……ルシフェルは別だと、俺はどこかで思い込んでいた。堕天したとしても、ルシフェルがそんな行いをするはずがないと。
フェリシア・カーディフは、二十九歳でその生涯を閉じた。十七歳でラナを産み、十二年に渡り、世の中から隠されるよう離れに閉じ込められていた。
もしかしたら、ある程度、不自由のない暮らしではあったのかもしれない。だが、世界から、愛した者から隔離された長年の拘禁生活に気がふれない者はいないだろう。
魂の系譜に記されていたフェリシアの終焉は、惨憺たるものだった。
現実と幻想の区別がつかず、最後は、娘ラナの首に手をかけていた。ラナの将来を悲観しての行いではない。ラナを心から憎み、母親であるフェリシアは自らの手で彼女を殺そうとしていたのだ。
だが、その行為は失敗に終わる。そして、それ以後、フェリシアの系譜の記載は欠落していた。
通常、魂の系譜に使われている紙はクリーム色だが、フェリシアのそれは欠落した部分から全面が黒塗りになっていた。
さらに、ハルの母親であるイリーナことラナの系譜も、ハルの出産直後の記載以後は全面が黒塗りになっていた。
悪魔がヒトの魂を喰うと、その魂は輪廻転生から外れる。加えて、その魂の系譜はそれ以後の記載ができないために全面が黒塗りになるのだ。
つまり……、魂の系譜の最後が黒塗りになっているフェリシアとラナの魂は、悪魔に喰われたということになる。
そして、彼女たちのそばにいた悪魔は、地獄の支配者ルシファーと呼ばれているルシフェルに違いなかった。
ここで、俺は分からなくなる。
無垢の子であるハルを奪うために、悪魔のルシフェルがハルの母親イリーナことラナの魂を喰う……というだけなら、話の筋はまだ通る。
だが、あいつは、ハルが産まれる前から、それこそラナの出生時からラナのそばにいた。それだけではなく、ハルの祖母にあたるフェリシアの魂の系譜には、フェリシアが十六歳くらいの頃からルシフェルの関与の跡が見つかっている。
ラナが将来、無垢の子を産むと予知できる者は、この世界で神以外存在しない。
そうであるなら、フェリシアとラナのそばにルシフェルがたまたま居て、ラナが産んだ子供のハルが、偶然にも無垢の子だったというのか? そんな出来過ぎた話があるのだろうか?
さらに、無垢の子であるハルが生まれた直後に、ルシフェルはハルの母親ラナの魂を喰っている。ハルを悪魔の子にすべく、母親から奪い取るための行動だったとしたら、それも納得がいく。だが実際は、ハルを無垢の子から悪魔の子に転生させることをルシフェルは拒み、ヒトであるハルと穏やかな生活を望んでいたのだ。
あいつは、なぜ、彼女たちの魂を喰った? なぜ、ヒトとしてのハルに執着する?
ダイニングチェアの背に体を預けた俺は、天井を仰ぎ見ながら目を瞑る。
「ルファがいなければ、私はこの世界で生きていけなかったの」
ゆるいカールのかかった栗色のツインテールを風になびかせ、ニコリと笑って話すハルを思い出す。
人間界にある町パストラル郊外の牧草地で、彼女は俺とラジエルに話してくれたのだ。
「お父さんが亡くなったとき、私は五歳だったの。家具職人の親方さんは、その半年前に亡くなっていたし、私のおじいちゃんおばあちゃんは、お父さんが幼い頃に戦争に巻き込まれて亡くなっちゃたんだって」
「そうか……」
俺もラジエルも、ハルの話に相づちしながら、静かに耳を傾けていた。
「だからね、ルファの姿は悪魔だけれど、私には神様に見えたの。いつも私のそばにいてくれて、私に世界を教えてくれた。ルファは私の神様よ」
照れくさそうに笑うハルの顔を思い出すと、俺は胸が苦しくなった。
俺は一体どうすればいい?
ハルは自分が生まれたことで母親が亡くなったと思っている。ヒトから見れば、それが事実だろう。だが、真実は……。
朝日が射し込む室内は光が満ち、白く輝いていた。
だが俺は、漆黒の深淵に立ち、見えない奥底を覗いているような気分だった。