17-3:夢の隙間
俺は、この機を逃すまいと思っていた。
誰にも聞かれることなく、ルシフェルが地獄へ堕ちてからの様子を聞けるのは、今この時しかない。これを逃せば、二度とチャンスはないと俺は感じていた。
そして何よりも、サキュバスの答えは、俺が抱えている疑問の一端を解決するかもしれないという期待があった。
いまだに、自分が知っていることを答えるべきか迷っているサキュバスに、俺はひとつの事実を伝える。
「ハルは、このままヒトとして生涯を終えれば、その魂は生まれ変わることなく消滅してしまうだろう」
その言葉に、サキュバスの彷徨っていた視線が俺にピタリと貼り付いた。
「それは……無垢の子……だから?」
事実を確かめるように聞いてくるサキュバスに、俺は無言で頷く。
彼自身、ハルに座位が無いことは分かっていたはずだ。
魂の所有場所を示す座位が無ければ、ハルの死後、天界にも地獄にも行き場のない魂は、ただ消え果てるだけの運命しかない。
ヒトとは違う生き方をしている俺たちは、歳月という区切りでその身が滅びることがない。そのため、ヒトの命が限られた時間の中にあることを、サキュバスがつい蔑ろにしてしまうのは仕方がなかった。
「サキュバス、俺はハルの魂をどうにかして救いたい。俺にできることと言えば、ハルを天使に転生させることくらいだ。そのためには、ハルとルファの関係をはっきりさせなければならない」
俺の考えを聞いたサキュバスは、驚きで目を丸くする。
「ハルちゃんが天使に? そんなことができるの?」
「あぁ、方法はある。だが、無策でそれを行えば、ハルが天使に転生したとしても、天界では生きづらいだろうな」
「……地獄の支配者と一緒にいた子供……だもんね……」
サキュバスの脳裏に、天使になったハルの置かれる状況が浮かんだのだろう。どこか申し訳なさそうに俺から目を逸らす。
悪魔といえども、サキュバスにとってもハルは特別なんだな……。
俺は、亜麻色の短髪で美丈夫な夢魔を見つめながら、そんなことを思う。
だがこれは、サキュバスにだけ起こっている特別な事情なのだろうか?
悪魔はヒトの命を簡単に奪い、地獄は嫉妬と裏切りの世界だと、俺たち天使は簡単に決めつけているのではないだろうか? 俺は……俺たちは、彼らに対して根本的な『何か』を見落としている気がする……。
目の前で狼狽えるサキュバスを見ていて、俺の中でそんな考えが浮かんできた。しかし、俺は今知るべきことに集中しようと、その考えを振り払い、サキュバスに当初の質問を投げかける。
「だから、ハルのためにも教えて欲しいんだ。地獄でのルファのことを」
「……」
ハルの置かれている状況を理解したサキュバスだったが、それでもなお、ルファが知られたくないことを勝手に話す行為に躊躇っているようだった。
そこで俺は別の角度から話を聞くことにした。
「お前は後追いで人間界へ行ったんだよな? そのときのルファは、地獄にいたときと同じだったか?」
確か、サキュバスが人間界へ降り立ったのは、ハルの父親グレイが亡くなった後のはずだ。
サキュバスは回想するように目の前の空間を見つめる。
「……いや……違った……かな」
「人間界での彼女を見て、お前はどう感じた?」
その問いに、ぼんやりと空を見ていたサキュバスの視線が俺へと向く。彼の目は、いまだに迷いがあるように見えた。
サキュバスが躊躇い気味に答える。
「驚いた……。すごく……穏やかだった……から」
裏を返せば、地獄にいたときのルファは穏やかではなかったということだ。
俺はそれを確かめるようにサキュバスに尋ねた。
「地獄にいるときのルファは違った?」
すると、サキュバスの表情が物悲し気なものへと変わっていく。しばらく俺を見つめていた彼の視線が下へと落ちた。
「いつも……何かに飢えているように見えた。満たされない何かを、違うもので埋めようと必死で……。でも、どうしても埋められなくて……。ルファは、ずっと……ずっともがいているように見えた……」
そう言ってから、サキュバスは深呼吸をした。そして、意を決したかのように俺を見る。
「僕は、その『何か』はミー君のことだとずっと思っていたし、今でもそう思っている」
「えっ?」
突然の告白に驚いた俺は、サキュバスと視線を合わせたまま言葉を失った。
ルファが……ルシフェルが俺に飢えていた?
それなら、なぜ、あいつは謀反なんて起こした? あんなことさえしなければ、あいつは今でも天界に……俺のそばにいたはずだ。だが、現実は、俺ではなく神に逆らうことを選び、そしてあいつは実行した。『あの時』、地獄へ飲み込まれる瞬間のルシフェルの微笑み……、あれは俺を蔑んだものではなかったのか?
サキュバスの言葉がにわかには信じられない俺は、自嘲気味に言う。
「まさか……あり得ない」
「そんなことないよ!」
俺の言葉を、サキュバスが強い口調で否定する。それは、さっきまでの迷いや不安といったものではなく、何かを訴えるような口調だった。
「そうじゃなきゃ、ルファが……ルシファーが、あんなことをするなんてっ」
言葉を詰まらせたサキュバスに、俺は眉をひそめて尋ねる。
「あんなこと?」
今にも泣きそうなサキュバスは何かを堪えるように、口元を手で覆い、目をきつく閉じた。そして、今まで聞いたことのない低い声音で絞り出すように言う。
「子供だよ……。ルシファーの血で創られたんだ。きっと……ミー君の代わりが欲しかったんだよ」
「……」
俺は、言葉が見つからなかった。
ふいに、人間界で見た半人半鳥の悪魔マモンを思い出す。サキュバスが、以前にルシファーの子供のひとりだと言っていた、あの悪魔のことを。
俺の代わりが欲しいが故に、あいつは、神の聖域である生命の創造に手を出したというのか? そんな馬鹿な……。
サキュバスの言葉が信じられない気持ちと信じなければならない気持ち、そして、信じたくない気持ちが複雑に絡み合う。
人間界のあの古びたサイロの前で、ルファとの別れ際、俺は横を通り過ぎる彼女の腕を掴み抱き寄せた。色白で華奢な体の感触と金木犀の香りがする漆黒の髪を思い出し、俺は右手で反対側の腕を握り締める。
元熾天使であるならば、生命を創造する行為がどれほど狂気の沙汰か、あいつも分かっていたはずだ。いや……狂っていたからこそ、その行為ができたのか? だとしたら、アレもその狂気の延長……なのか?
俺は、少し離れたところにあるダイニングテーブルの巻物に目をやる。
口にすることすら悍ましい内容を聞かねばならない俺は、握った拳に力を込めた。
「サキュバス。ルファは……いや、ルシファーは、ヒトの魂を喰っていたのか?」
俺の言葉に、サキュバスの体がビクリと跳ねた。そして、これでもかと言わんばかりに目を見開き俺を見つめる。しかし、口を堅く閉ざしたまま、彼は何も語ろうとはしなかった。
眉間にしわを寄せた俺はサキュバスを見据えたまま、確信をもって口を開く。
「喰って……いたんだな?」
「……」
無言のままのサキュバスが俺から視線を外す。だが、それで十分だった。
俺は、地獄の深淵を覗いた気持ちになり、深くため息をついてから天井を仰ぎ見た。