13-2:地下の謀議
冷やりとした岩の壁が続く階段の終着点は、少し広い空間となっていた。
ウリエルは、そこにある無機質な鉄扉をコンコンコンとノックする。
中からの返事を待つことなく、彼は扉の取っ手を引いた。ギギギギーと金属の擦れる耳障りな音が、静寂の闇に響く。
半分ほど開いた扉を潜ると、階段と同じように岩の壁に囲まれた部屋があった。暖色系の仄かな明かりが広がり、温かい空気が満ちている。
部屋の中央には、焦茶色の書斎机が置かれていた。そこに、この部屋の主ガブリエルの姿があった。
軽くうねる薄紫色の長髪を後ろに束ねたガブリエルは、机の天板に広げた巻物に視線を落としたまま口を開く。
「娘の様子はどうだ?」
「んー、まぁ……順調?」
一体何が順調なのだろうか? と、ウリエルは自分のあいまいな返事に内心苦笑した。
「そうか」
ガブリエルは、ウリエルの中途半端な返答を気にすることなく相槌を打つ。彼の視線は相変わらず、手元の巻物に注がれていた。
ガブリエルとの妙な間に居心地の悪さを感じたウリエルは、壁際にある書棚の前へと歩き出す。
ズラリと並べられた書籍の中から、手近なものを一冊取り出した。それをパラパラと捲りながら、ガブリエルに尋ねる。
「で、あの子をどうするつもりなの?」
ウリエルの問いで、ガブリエルはやっと巻物から頭を上げた。
ガブリエルの視線を感じたウリエルは、読んでもいない本をパタリと閉じて書棚へと戻すと、彼をゆっくり見返した。
ウリエルと目が合ったガブリエルは、満足そうに笑みを浮かべる。
「私が天界へ招いたわけではないよ」
「でも、招くように仕向けたのは、ガブ君だよね?」
ウリエルは、非難めいた視線をガブリエルにぶつける。
ミカエルが地獄の支配者となったルシファーと接触したことを、ウリエルとガブリエルは早い段階で把握していた。
過去のこともあり、ミカエルの身を案じたウリエルは、強引にでも彼を天界へ連れ戻そうとした。だが、地獄との間で事を荒立てるなと、ガブリエルがウリエルを引き留めたのだ。そうしている間に、パストラルでの襲撃が起きてしまう。
「……」
唇の端を歪めたガブリエルは、無言のままわずかに首を傾げる。
それを見た瞬間、ウリエルの中で怒りがこみ上げた。
翼を広げ、一気にガブリエルの元へと詰め寄る。気づいたときには、ウリエルの手から召喚された紅蓮の剣が、ガブリエルの首元にピタリとつけられていた。
「僕を手駒にするつもり?」
深紅に爛れた剣身がその首元にあてがわれても、ガブリエルは眉一つ動かすことなくウリエルを見続ける。その表情からは、彼の思考は読み取れない。
いつもそうだ。結果だけを見れば、なるほどガブリエルらしいと思うことも、その過程を彼は絶対に表に出さなかった。
お互いの視線がぶつかり合うなか、ガブリエルが唐突に口を開く。
「おまえは己の信念のためならば、禁を犯す覚悟はあるか?」
「は?」
突然の問いに、ウリエルは紅蓮の剣の柄を握りしめたまま訝しい顔をした。
ガブリエルは少し語気を強め、同じ質問を繰り返す。
「おまえは己の信念のためならば、禁を犯す覚悟はあるのか?」
「……」
四大天使の中でもっとも規律を重んじるウリエルにとって、禁を犯すことなどあってはならないことだった。
何も答えられないまま固まるウリエルに向かって、ガブリエルは微笑む。
「剣を収めろ、ウリエル。私はおまえを手駒にする気はない」
ガブリエルをしばらく見つめたウリエルは、剣をゆっくりと下ろした。握りしめていた柄から手を離すと、紅蓮の剣は時空のかなたへと消え去る。
それを見届けたガブリエルは、小さく頷いた。
「『無垢の子』を『神の子』にするためには、禁を犯さない限り不可能だ。しかし禁を犯せば、その天使は堕天してしまう。神は、なぜこのような理を創ったのだろうか?」
「……」
ウリエルは言葉が出なかった。
神が創った理に対し疑問を抱くべきではない。それは、自分の存在に疑問を持つことと同義だからだ。
天界で生きる天使は、神が創ったこの世界のすべてを当然に受け入れるべきで、神に対して一切の疑問を抱いてはならない。ウリエルは、常にそう自分に言い聞かせてきた。
戸惑うウリエルを置き去りにし、ガブリエルは話を続ける。
「私は思うのだ。この相反する理は、神が我らを試しているのではないのかと」
「試す?」
「そうだ。我らがどちらを選ぶのか。神の絶対的理か天界の持続的安寧か……」
「……」
ウリエルは息をのんだ。
選ぶ? 僕たちが?
神によって創られた天使は、ある程度の自由な意思が許されている。しかしそれは、神が定めし理を逸脱してはならない。
天界のためとはいえ、理を破るという選択が許されるのか? 神がそれを望んでおられるというのだろうか?
ウリエルはガブリエルを見つめたまま困惑する。
仄かな明かりが包み込む部屋で、ガブリエルは組んだ両手に顎を乗せた。彼の視線はウリエルから外れ、目の前の空間を見つめる。
「そして、この相反する理は、己の信念を貫く覚悟さえあれば、いとも簡単に乗り越えられる……」
独り言のようにつぶやくガブリエルを諌めるように、ウリエルが口を開く。
「それは……『神の子』を創り出すために、堕天するのも厭わないってこと?」
物思いにふけっていたガブリエルは、ウリエルの険しい視線に気づきフッと笑った。
「そう怖い顔をして睨むな。私は禁を犯すつもりはない。考えてもみろ。私が堕天してしまったら、天界の舵取りはどうなる? ミカエルは小さな世界でしか物事が見えていない。メタトロンは神殿の外には興味がない。おまえが私の代わりをするか? ウリエル」
「僕は……」
内側を見透かすようなガブリエルの視線。それに耐えかねたウリエルは顔を背けた。
自分の器くらい、自覚しているさ……。
ガブリエルの言う通り、ミカエルは目前の出来事に左右されやすい。だが、そんな彼を周りはなぜか放っておけない。
ミカエルには、人を惹きつける天賦のカリスマ性があった。
ガブリエルもまた、ミカエルとは違ったカリスマ性を持っている。
ガブリエルの統治能力は四大天使の誰よりも優れていた。そして、彼の言葉は相手を慴伏してしまう強さがある。
こうした強いカリスマ性を持つ二人は、時として歯止めが利かなくなる危うさがあった。そんな彼らの暴走を制御する役目がウリエルなのだ。
それ故に、ウリエルは己に対しても周囲に対しても厳格さを重んじてきた。結果、『破壊天使』『懺悔の天使』と呼ばれるようになる。こう呼ばれる裏に潜むのは『畏怖』であり、天使たちを魅了するようなカリスマ性ではない。
そしていつの間にか、この『畏怖』を少しでも和らげるような態度を、ウリエルは無意識にとるようになっていた。
言葉が続かず俯くウリエルを、ガブリエルは微笑みながら覗き込む。
「安心しろ。娘に危害を加えるつもりはない。だが……ミカエルが何をしでかすか分からない。引き続き、報告を頼む」
その言葉に、ウリエルは眉をひそめた。
「僕にスパイをしろって言うの?」
ガブリエルはすぐには答えず、組んでいた両手を離すとデスクチェアの背もたれに体を預けた。その拍子に、彼の背後で背もたれがギィィと鳴く。
「それはおまえの取り方次第だ。おまえは昔のミカエルを取り戻し、あいつを天界に留めたい。私は天界の安寧を望んでいる。だが、『無垢の子』が誕生した今、双方の望みは危ういものとなっているとは思わないか? その原因は何か? 『無垢の子』か? いや、我らが最大の汚点、ルシファーがいまだに健在していることだとは思わないか?」
「……ガブ君は……一体何をしようとしているの?」
ガブリエルはデスクチェアに体を預けたまま、戸惑うウリエルを見上げてニヤリと笑った。
「天界の汚点の清算……さ」