13-1:地下の謀議
暗がりの階段を、ウリエルは一人迷うことなく降りて行く。
夜目が利く天使は、暗闇を照らす灯りは必要ない。
階段を降りる途中、踊り場の窓から差し込む月明かりに誘われて、ウリエルは外に目をやった。
半分に欠けた月が、天界を覗き込むように淡く光り輝いている。
その月明かりを見ていると、ウリエルの脳裏に幼い日のことが思い出された。
天界の最上層にある神が住まう神殿、その中庭にか細い幹の若木が一本立っていた。その若木の根元に腰掛ける神は、幼い兄弟たちが遊ぶさまをうれしそうに眺めている。
ウリエルは兄弟たちの輪から抜け出し、神にそっと近づいた。
「ねぇ、父さま。地獄は闇しかないのに、天界にはなぜ光と闇の両方があるの?」
唐突な問いに神は驚き、わずかに目を見開く。だがすぐに、まぶしそうに目を細めウリエルを見た。
「闇があるからこそ、光のまぶしさを知れるだろう?」
そう言うとゴツゴツした大きな手で、ウリエルの赤い髪をクシャリと撫でた――
そうなのだろうか?
幼かったウリエルは、神が何を言いたいのか分からなかった。だがそれは、時間の経過とともに解決する問題でもなかった。成熟した天使になった今も、ウリエルは幼い頃に聞いた神の言葉が理解できないでいる。
闇がなくとも、光のまぶしさは変わらない。闇があるせいで、長兄ミカエルは背負う必要のない重荷を背負わされている。そう思うと、ウリエルはなんともいたたまれない気持ちになった。
闇なんて……地獄なんて、なくなればいい。単純な話だ。
ヒトの心は脆い。簡単に闇の誘惑に飲まれてしまう。だが、世界を光で満たせばヒトの心は安定する。『幸福』は光の中でのみ存在するのだ。闇が消えれば、天界を悩ますような諍いはすべて消える。地獄が消えれば、ミカエルが己を苛むこともなくなる――ウリエルはそう信じて疑わなかった。
月明りから逃げるように、ウリエルは階段をさらに降りていく。
一番下まで到達すると、そこは外からの明かりも届かない仄暗い白亜の廊下が続いていた。
誰もいない暗がりの廊下を、ウリエルはヒタヒタと歩く。
今この瞬間も、上層の守護を司る智天使ケルビムが、神と天界に仇なす不忠の臣がいないかと常に上層を見張っている。
ウリエルは、それを疎ましいと感じたことはない。やましいことがなければ、ケルビムの目はあってないようなものだから。
しかし、ケルビムが上層を見張ること自体に引っかかるものがある。だが、それを考えてはならないと、ウリエルは自分に言い聞かせていた。
父上は、なぜ僕たちを創ったのだろう……?
何かがポロリと剥がれ落ちるように、突如疑問が沸き起こる。
ウリエルは思わず服の胸ぐらを掴んだ。
今更なぜそんなことを思うのかと、自分自身に当惑する。
小さな波を打ち消すように、頭を左右に振ったウリエルは、歩調を速めた。
白い大理石の壁が続く廊下をしばらく行くと、その場に不釣り合いな鉛色の鉄扉が現れた。
大理石とは違う冷たさを帯びたその扉の前で、ウリエルの足はピタリと止まる。
周囲に動く者の気配がないことは分かっているが、それでも彼は慎重に周りを見回した。
辺りが静まり返っていることを確かめると、ウリエルは取っ手のない鉄扉に右手を当て意識を集中させる。その手からほんのりと光があふれ漏れると、冷たい鉄の扉は音もなく消え去った。
鉄扉が消えたその先は、人ひとりがやっと通れる階段が下へと続いていた。
ウリエルはゴツゴツとした岩の壁に挟まれた階段を、躊躇いもなく降り始める。
冷やりとした空気が彼の頬を撫でた。
ミー君を閉じ込めた部屋もこんな感じだったっけ……。
ウリエルは暗闇が続く階段を下りながら、ルシフェルの謀反が終息してからのミカエルを思い出していた。
ルシフェルを地獄へ堕としたあと、ミカエルの心は一度壊れた。
天界の天使たちは、皆一様にミカエルを褒めたたえた。だが、周りが称賛すればするほど、彼は苦しんだ。なぜなら、ミカエルにとってルシフェルは、父である神とは異なる『最愛』の存在だったから。
その最愛の天使を自らの手に掛けただけでなく、周囲はそれを英雄ともてはやす。気が狂れないほうがおかしいのだ。
やがてミカエルはウリエルに向かって懇願し始める。「彼女の核を砕いた俺を滅ぼしてくれ」と。神を裏切ったルシフェルが同胞を手に掛け堕天したのなら、愛しているルシフェルを手に掛けた自分もまた同罪だと言うのだ。
自裁を選びかねない危うさを持ったミカエルは、しばらくの間、上層にある一室に隔離された。そこは、こんな闇の深淵を降りた先にある地下室だった。
ウリエルは、ルシフェルを憎んだ。
ルシフェルもミカエルを愛していたはずだった。いや、本当に愛していたのだろうか? もしそうなら、あのような裏切りはしなかったはずだ。結局、ルシフェルがもっとも愛していたのは己だったのだ。そして、己の欲望のためにミカエルの心を砕いたに違いなかった。
ウリエルの心を投影するような暗闇の階段を、コツコツと足音を響かせながら下っていく。
ウリエルは握りしめていた手に力を込めた。
それはほんの些細な出来事だった。人間界にあるエクノール家の領地で耳にしたうわさ。
『六枚の飛膜の翼を持つ悪魔が、人間界に時折現れては、ヒトの魂を闇へ引きずり込んでいる』
根も葉もない、ただそれだけのうわさ話。だがウリエルは、迂闊にもその話をミカエルにしてしまう。
ウリエルはミカエルの背を押したかっただけだった。
堕天したルシフェルはすでに悪魔となり、自分たちとは違う世界の生き物になっている。だからいつまでも立ち止まらず、おまえも彼女を忘れて、己の進むべき道を歩め――そう伝えたかったのだ。
だが、ウリエルの望みは半分しか叶わなかった。
ミカエルは確かに立ち直った。しかしその代わりに、己の職務を半ば放棄し、人間界でルシフェルを探し始めたのだ。
ウリエルは今でも、自分の浅はかさとふがいなさに怒りを覚える。
では、どうすればよかった?
結局のところ、ミカエルの心を取り戻すには『ルシフェル』の力を借りるしか、ほかに手がなかったのだ……。
今夜はやけに昔を思い出すな……。
冷たい空気を切り裂くように、暗がりの階段を降りるウリエルは苦い顔をする。
心を乱す原因は、分かり過ぎるほどに分かっていた。
「休戦協定……ね」
ウリエルはポツリとつぶやく。
ミカエルがルシファーと結んだという休戦協定。
闇に飲まれた深緑の原生林の前で、ミカエルが努めて淡々と話していた内容を、ウリエルは思い返す。
「『無垢の子』がヒトとして生きることを天界が保障する限り、地獄は、その生涯が終わるまで『無垢の子』に手を出すことは一切ない」
ミカエルの声がウリエルの中でよみがえる。
この休戦協定のほかに、ルシファー付きの夢魔の同行と『無垢の子』の行動範囲の制限。地獄に利点がない協定内容を踏まえても、考えるまでもなく『無垢の子』はルシファーにとって特別なのだろう。
また『ルシフェル』か……。
階段の奥に広がる闇を見つめながら、ウリエルは無意識に唇を噛みしめていた。