12-2:過去の片鱗
座天使が悲鳴のように叫ぶ『ルシフェル』という単語に、ミカエルの体がビクリと跳ねた。
ウリエルはチラリとそちらを見たが、すぐに視線を元に戻す。
下層の指揮官である主天使ザドギエルからの最後の報告は、こうだった。
『熾天使ルシフェルが謀反。反乱軍を率いて、下層の砦二カ所を襲撃。残存する砦と連絡塔を死守するため、指揮官の権限により絶対魔法障壁を発動。至急援軍を求める』
通常、砦が構築する魔法障壁は対悪魔用だ。つまり、その障壁は、天使であれば何の障害にもならない。それにもかかわらず、魔法障壁を構築している砦が、反乱軍の最初の攻撃対象となった。
各層の指揮官と上位三隊の一部しか知らない事実。それは、連絡塔にある装置によって発動し、砦を使って構築するもう一つの魔法障壁の存在。
あらゆる者を寄せ付けず、あらゆる力を排除する『絶対魔法障壁』
この障壁が発動すると砦より外側からは、悪魔はもとより天使でさえも物理的侵入が不可能となる。それだけでなく、砦の内側でもすべての魔力が無力化される。
ウリエルは、何度目かのため息をつく。
本来ならば、天使軍全体を指揮するのは彼の役目ではない。
しかし、この反乱の首謀者にルシフェルの名が挙がった途端、天使軍総司令官のミカエルは茫然自失となり機能停止となった。さらに、軍師の役割を担うガブリエルも、今は席を外している。
そのため、残った熾天使の中で最も高位であるウリエルが、各所から上がって来る情報の集積と精査、指示を行っていた。
「で、君の名前は?」
ウリエルは、仲間の座天使に支えられている傷だらけの座天使に目をやる。藍色の長髪の座天使、ラジエルだった。
「中層の指揮官ザフキエルの直下、座天使ラジエルと申します」
中層の指揮官である座天使ザフキエルは、下層の指揮官ザドギエルの兄であり、座天使の長を務める天使だ。ラジエルは、そのザフキエル直属の部下であり、次期座天使長の候補でもあった。
「何を見た?」
ウリエルの問いに、ラジエルは苦悶の表情を滲ませる。
「私が見たのは……『火種』を持ったベルゼブブ様が、それを下層へ放り込むところを……。私とザフキエル様とで止めに入ったのですが、ザフキエル様がベルゼブブ様に刺され、さらには加勢した我が妹も……。私だけがおめおめと……」
ギリギリと唇を噛むラジエルに、ウリエルが右手を挙げ、それ以上は言わなくてよいと彼を制止させる。
「君までベルゼブブの手にかかっていたら、誰にも気づかれずに奴は事を成していただろう。ご苦労だった。あとは別室で傷の手当てを」
そう言ったウリエルは、傷だらけのラジエルを支える座天使に、退出を促す目配せをした。しかし、ラジエルは自分を支える座天使の腕を振り払い、ウリエルに食い下がる。
「いえ、ザフキエル様がいらっしゃらない今、私が中層の指揮官代行です。ですから、軍の方針が決まるまでは、どうか、このままここに!」
ラジエルの必死な形相に、ウリエルは彼を見つめたまま思案する。少しの間が開いたのち、ため息をついたウリエルは、後方を指し示すように首を傾げ、ラジエルに向かって言った。
「そこのソファーに座って、傷の手当てをしたまえ。それが終わったら、君もこちらに加わるように」
「ありがとうございます……」
下層の指揮官ザドギエルの報告と中層の座天使ラジエルの報告。そして、上位三隊の招集命令が下っているにもかかわらず、理由もなく姿を現さない二名の天使。
「つまり、この反乱の首謀者はルシフェルとベルゼブブで間違いないわけだ」
腕組みをしながら独り言のように言うウリエルに、大テーブルから少し離れ、革張りのダイニングチェアの上でうなだれていたミカエルが、顔を上げて反論する。
「まだ決まったわけじゃない!」
ミカエルの言葉に反応したウリエルは、苛立ちを隠すことなく彼を睨みつけた。
「事実を言っている。ベルゼブブが下層に火種を放り込み、今や下層は火の海だ。そして、下層の砦を防衛していた守備隊の前に反乱軍を率いてルシフェルが現れた。彼ら以上の首謀者がどこにいる? ミー君、今は議論している暇はないって分かっているだろ?」
「……」
いったんは腰を浮かしたミカエルが、再びダイニングチェアに脱力する。その様子を見たウリエルは内心舌打ちをした。
「下層の絶対魔法障壁は長くは持たないだろう……。中層はどうなっている?」
下層の報告をした座天使のほうをウリエルは見た。
「中層はウリエル様のご指示通り、上層の軍を降ろし、すでに絶対魔法障壁を発動させております。今は、下層に繋がる中層ゲートの攻防で反乱軍と混戦状態です」
「奴らも障壁の消失待ち……というところか」
絶対魔法障壁の維持には膨大な魔力を消費するため、通常、複数の上位天使で発動させる。
しかし、現状の下層では、中位三隊の最上位である主天使ザドギエルが、たったひとりで絶対魔法障壁を発動させているはずだ。
障壁の発動時間は術者の魔力に比例する。つまり、術者の補充が無いまま障壁を維持し続ければ、最終的にザドギエルの核の力まで使い切ることになる。そして、それは、そのまま彼の滅びに繋がることを意味していた。
「下層の障壁が消失すれば、塔の機能が復活する。そうなれば、ルシフェルが中層のベルゼブブと合流し、敵の勢いはさらに増すな……」
ウリエルが独り言のようにつぶやく。
上層が有する大地はさほど広くない。下層の反乱軍が中層のそれと加わり、さらに中層の連絡塔を突破すれば、上層の大神殿まで、津波のようにあっという間に攻め込んでくるだろう。
「……最悪、塔の破壊も視野に入れないといけないか……」
ウリエルの言葉を聞いた部下の座天使が「そんな……」と絶句する。
連絡塔の破壊は、敵の上層への侵入経路を遮断すると同時に、下層から中層に避難した天使も含め、中層にいるすべての天使を見捨てることを意味する。そして、今、己の『核』を賭して下層の連絡塔を守り、援軍を待つザドギエルをも見捨てる発言だった。
「随分と苦慮しているようだな、ウリエル」
突然、ウリエルの背後からバリトンの低い声が聞こえてきた。その声を聞き、一瞬ホッとした表情を見せたウリエルが振り返る。
謁見の間と隣接する執務室側から姿を見せたのは、数名の座天使たちを引き連れた薄紫色の軽くうねる長髪と192cmと大柄な体格のガブリエルだった。