11-2:旅立ち
俺と地獄の支配者ルシファーであるルファは、単なる口約束ではなく、形式にのっとり、契約魔法を使って一時休戦の協定を結んだ。
それを知ったウリエルは、右手で顔を覆い左右に頭を振りながら盛大なため息をつく。
「はぁぁぁ……ご丁寧に契約魔法で……。で、一体どんな内容なわけ?」
半ば呆れ気味のウリエルとは対照的に、俺は努めて淡々と話す。
「協定条件は『無垢の子』のヒトとしての生存保障だ。『無垢の子』がヒトとして生きることを天界が保障する限り、地獄は、その生涯が終わるまで『無垢の子』に手を出すことは一切ない」
俺が話す内容を聞き、ウリエルは訝しい表情をしながら自分の赤い髪をかき上げた。
「それってさ……天界には好条件だけど、地獄には何の得もないよね?」
ご名答……。
俺は心の中でつぶやいた。
そう、誰が聞いたって、この協定は地獄にとって何の利点もない。あるのは、ヒトとしての一生をハルに送ってほしいという、ルファの個人的な望みだけだ。
ルファとハルの関係は、いずれは公になる。だが、今ここで……ハルの目の前で、俺の口からウリエルに説明することは避けたかった。そのため、俺は最初からシラを切り通す、と決めていた。
ウリエルの問いに俺は首を傾げる。
「さぁな、『無垢の子』を天界へ引き渡すための相手の条件が、この内容だっただけで、俺には相手の都合なんて分からない」
かなり苦しい俺の言い訳に、訝しい表情を崩さないウリエルは「ふぅーん」とだけ言う。
これ以上ウリエルに追及されないように、俺は早々と話を続けた。
「あと二つ、約束させられたことがあるんだが……」
「ん? まだあるの?」
「一つ目は、そこのサキュバスを『無垢の子』のそばに付けること。二つ目は、『無垢の子』を天界の奥には連れて行かず、狭間に留めること」
ウリエルは俺の話を聞きながら、思考を巡らせるように空を見つめた。やがて、すべて合点がいったような顔つきとなり、肩を上下に動かしため息をつく。
「へぇ……なるほどね」
勘のいいウリエルのことだ。おそらく俺の意図が読めたのだろう。俺はウリエルに「これ以上は詮索するな」と視線を送った。
ウリエルは俺の視線に答えるように肩をすくめる。
「で、天界の狭間に留めるって、どうする気なの? あぁ、聞くのも野暮だった。どうせ、僕の城を当てにしているんでしょ?」
「……その通り」
安易な考えを見透かされて、俺はなんとも気まずくなった。
ウリエルは「やっぱり」と再び呆れた顔になる。
「ホントさぁ、ミー君って自由だよねぇ」
俺ってそんなに自由だろうか? 認識の違いじゃないのか?
眉間にしわを寄せた俺の表情を見て、ウリエルは苦笑をする。しかしそれ以上は言及せず、横に控えていたラジエルに声をかけた。
「それじゃ、さっさと天界へ戻ろうか。ラジエル?」
そう声をかけられたラジエルは「かしこまりました」と左手を自分の胸に当てて頷く。
次にウリエルは、サイロの引き戸の前に立つハルの元へと歩き出した。
サキュバスの影に隠れるように立っていたハルは、歩み寄ってきたウリエルを不安そうに見つめる。
ハルの前まで来たウリエルはその場で片膝をつき、胸に手を当てて彼女を見上げる。
「私は熾天使ウリエル。これより先、あなた様のおそばに仕えることをお許しください。そして、できますならば、あなた様のお名前をこのウリエルにお教えいただけますでしょうか?」
そう言い終えたウリエルは、ハルに向かって頭を垂れた。
やけに慇懃なウリエルの態度に、ハルは戸惑いの色を見せる。だが、意を決したかのように、ハルはサキュバスよりも少し前へと進み出た。そして、スカートの両端を軽く広げ、深々と身を屈める。
「ハル・エヴァットと申します。よろしくお願いいたします」
か細くもはっきりとした口調で言うハルに、顔を上げたウリエルはニコリと笑う。
「よろしくね、ハル」
そう言って立ち上がったウリエルは、ハルの後ろにいるサキュバスに目をやった。
サキュバスは夢魔特有の妖艶な笑みを浮かべながら、ハルに倣うように軽く身を屈める。
「お世話になりまぁす」
間延びしたサキュバスの物言いに、ウリエルは一瞬眉をひそめた。だが、すぐに冷めた表情に戻る。
「協定条件であるとはいえ、天界で騒ぎを起こせば、それ相応の処分は下す。心するように」
冷淡なウリエルの言葉を気に留める様子もなく、サキュバスは「はぁい」と、やはり間延びした返事をする。
そこへ、二人のやり取りを聞いていたハルが、割って入るように口を開いた。
「サキュバスさんは、私のために行きたくもない天界へ一緒に来てくれるんです。ですから、騒ぎを起こすようなことはしませんし、私がさせません」
たった十歳の少女が、まるで挑むかのような面持ちで熾天使ウリエルを見ていた。
ウリエルもサキュバスも、思ってもみなかったハルの言葉に驚いたように目を見開く。だが、すぐに二人は彼女に笑顔を向けた。
「君は素晴らしい主になるね」
「ありがとう、ハルちゃん。期待に添えるように、私、頑張るわぁ」
事の成り行きを見守っていた俺は、放牧地で「私を殺すの?」と尋ねてきたときのハルの強い表情を思い出す。
ハルはルファに似ている……かも。
長く一緒に暮らしていると、本当の親子でなくとも似てくるものなのだろうか? 俺はふとそんなことを思った。
* * *
山賊に襲撃されたパストラルの街から離れ、随分長い時間、この古びたサイロに囚われている気がする。
俺たちの頭上に浮かんでいた巨大な満月は、いつの間にかアルゲオネムスの森にその身を隠し始めていた。
天界へのゲートを準備していたラジエルが、ウリエルに向かって声をかける。
「ウリエル様、ゲートの用意が整いました」
そう報告するラジエルの背後には、大人ひとりが通れる楕円形の光のゲートが出現していた。
そのゲートを見たウリエルはラジエルに向かって頷き、再びハルのほうへ体を向けた。
「じゃぁ、行こうか?」
「はい……」
ハルは胸の辺りで両手をぎゅっと握りしめていた。小刻みに震えるその手を見たウリエルが、ハルの背中にそっと手を添え微笑む。
「大丈夫。天界は君たちを歓迎するよ」
ウリエルはハルの背に手を添えたまま、彼女を導くように光のゲートへと歩き出した。
二人が俺の前を通り過ぎるとき、心配げな顔をしたハルと目が合う。俺は彼女の不安を和らげようとニコリと笑った。
「俺もすぐに行くから、天界で待っていてくれ」
その言葉で安心できたのか、ハルの強張った表情が少し緩む。
「うん、待っているね」
ウリエルのエスコートで光のゲートまで来たハルに、今度はラジエルが左手を差し出す。
「ハル、手を」
ハルは無言で頷くと、ラジエルの手に自分の右手をそっと重ねた。その小さな手を軽く握ったラジエルは、ハルに向かって優しく頷き返す。
「それでは参りますよ」
ラジエルはハルの手を引き、光のゲートへ吸い込まれるように入って行った。それに続くように、サキュバスが大きく深呼吸をしてからゲートへと足を踏み入れる。
そして、天界へ続く光のゲートの前には、俺とウリエルの二人だけが残った。