01-2:出会いと再会
俺は、目の前にいる少女の『特異さ』に動揺する。それに加えて、俺を見て驚いた彼女の態度。
まさか、天使だと気づかれた? いや、そんなわけはない……よな?
俺たち天使がヒトの前に降り立つとき、通常、翼がヒトにも見える状態で現れる。
だが、俺やラジエルのようにヒトに紛れて行動するときは、ヒトから翼を見えなくし、天使たる力を隠してしまう。
このような能力は、高位天使や高位悪魔のみが使える特殊なものだ。故に、ただのヒトの子に、俺たちの真の姿を簡単に見抜けるはずがない。
だけど、この子は……。
お互いの間に沈黙が流れる。しかし、そのつかの間を破るように、われに返った少女は、俺から麻布をむしり取った。
「あっ…ありがとうございます。それでは失礼します」
この場から早く立ち去りたいと言わんばかりに、少女は小さくお辞儀をすると、俺の横を走り抜けようとした。
「あっ! 待って!」
俺は座っていた体勢から腰を浮かし、思わず少女の腕を掴んでしまう。
「きゃっ」
突然腕を掴まれた少女は驚き、体をビクリと跳ね上げた。
その拍子に、籐のかごは大きく揺さぶられ、積んであった野草の山の一部が、バラバラと草原へと崩れ落ちてしまう。
「あっ……ごっごめん」
反射的とはいえ女の子の腕を掴む非礼に俺自身も驚き、すぐさま少女の腕を解放した。
俺の横にいたラジエルが非難の声を上げる。
「何をやっているんですか、あなたは……。主が驚かせてしまい、申し訳ございません」
ラジエルはすぐさま少女のそばへ行き、片膝をついて、右手を自分の胸に当てて頭を垂れた。それに倣うように、俺も彼女に頭を下げる。
「本当にごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」
「いえ……大丈夫です」
少女は顔を強張らせながら、ぎこちない笑顔を俺に向けた。
咄嗟の行動とはいえ、女の子の腕を掴むなんて……俺、最低……。
軽く頭を左右に振った俺は、少女が持っていたかごからこぼれ落ちた野草を拾おうと、地面に両膝をついた。
「あ……私が……」
「いやいや、せめてものお詫びに……」
戸惑いながらも一緒に拾おうとする少女を制して、俺は落ちた野草をかごに戻し始めた。それにラジエルも加わる。
俺たちが落ちた野草をあらかた拾い終えたときだった。坂の上のほうから女の声が降ってきた。
「ハル? 何をしているの?」
ハルと呼ばれた少女は、驚き顔を上げる。
「あっ! ルファ」
栗色の髪の少女ハルの視線は、坂の上にある街道に注がれていた。
俺とラジエルは、ハルの視線を追うように街道を見上げる。
そこには、鈍色のローブを身に纏い、フードを目深に被った女が一人佇んでいた。
女の姿を見た瞬間、俺の鼓動はなぜかドキンと跳ねた。まるで金縛りにあったかのように、その女から目が離せなくなる。
次の瞬間、俺たちの間を強い風が通り過ぎていく。
強風にあおられた女のフードはバサリと脱げ、暮れ行く太陽の下にその顔が露わになった。
目を見開いた俺は息をするのも忘れ、食い入るように女の顔を見つめる。
見間違えるはずがなかった。俺のすべてを投げうち、途方もない歳月をかけてずっと探し求めてきたのだ。それが今、目の前に立っている。だが、俺は、一言も言葉を発せず、一歩も動けなかった。一瞬にして、最愛の人を貫いた『あの時』に引きずり込まれる。
「もし……娘が無礼を働いたのなら、お許しください。そろそろ日が暮れてまいりましたので、失礼いたします」
ハルにルファと呼ばれた女は、無表情のまま、ハルに向って手を差し伸べた。
「あっ、待って」
ハルは慌てたように俺の横をすり抜けて、ルファの手を取る。
ルファは、右手でハルの手を握り、左手でハルが持っていた大きな籐のかごを受け取ると「それでは……」と軽く会釈をして歩き出した。
ハルも彼女に倣うようにペコリと頭を下げると、ルファのあとを小走りで追いかける。
記憶と現実が混濁した感覚の中にいた俺の前で、ルファたちは徐々に遠ざかっていく。
一陣の風が俺をなぶる。その瞬間、まるで呪縛が解けたかのように、俺は街道まで一気に駆け上がった。
「ルシフェル!」
俺の言葉を背中で受けたルファの歩みが、ピタリと止まった。隣にいるハルは、不思議そうにルファを見上げてから、俺のほうをチラリと見た。
その場に立ち止まったルファは、ハルの手を離す。そして、腰ごとゆっくり回転すると、俺のほうに向き直った。
ゆるく一つに束ねた漆黒の髪、切れ長の赤い瞳、そして、透き通る白い肌は、淡い赤の唇をより一層引き立てている。
昔と……『あの時』と何一つ変わらない美しい顔立ち、凛とした声に優雅なしぐさ。ルファと呼ばれた女は、俺が愛し求め続けていた『ルシフェル』その人だった。
俺に遅れて街道に出てきたラジエルは、腰に下げている剣の柄に手を添え、俺の斜め前で半身に構える。俺とは違う緊迫した空気をラジエルは纏っていた。
それを見たルファの目の色が変わる。
「私を滅ぼしに来たの?」
「……いや……」
俺は首を振りながら、絞り出すようになんとか答える。しかし、射るようにこちらを見るルファに耐えられず、俺の視線は地面へと落ちた。
感情のない彼女の声が再び聞こえる。
「では、ここに何をしに来たの?」
「……」
言いたいことは山ほどあった。聞きたいことも山ほどあった。
この瞬間を、永劫の時間の中でずっと待ちわびていた。それなのに、雑多な感情が俺の中で渦を巻き、俺の口からは何一つ言葉として出てこない。
俺は……俺は……。
俺とルファの間に流れた静寂は、一瞬のことだったのかもしれない。その間に、俺の喉はカラカラに乾き、吹き出た汗が顔の輪郭を這うように、地面へと流れ落ちた。
何も言えない俺にしびれを切らしたルファはため息をつく。
「あなたの帰るべき場所に戻りなさい」
冷たさを帯びるその言葉に、半ば反射的に俺は顔を上げた。
ルファの顔は『あの時』と同じ無表情だった。俺を射抜くように見つめる冷たい赤い瞳までもが。
彼女の表情で気後れしそうになる自分を振り切り、俺は首を振る。
「ルシフェルとともに戻る。俺は、ずっとおまえを探していたんだ」
俺の言葉を聞いたルファは、このときに初めて感情を表した。
わずかに目を見開くと、すぐさま地面に視線を落とす。一瞬、口角が歪んだように見えた。再び、顔を上げた彼女は蔑むような視線を俺にぶつける。
「今さら何を言っているの? あなたが私にしたことを、忘れたわけではないでしょう?」
「それは……」
俺の手は、ルシフェルを貫いたときの感触を思い出していた。ルシフェルの胸にズブズブと剣が食い込んでいく、あの感覚。
暗闇に侵食され、俺はその場で崩れ落ちそうになる。そんな俺に向かって、ルファは冷ややかに言い放った。
「あなたの知っているルシフェルは、もういない。わが名はルシファー。戻りなさい、ミカエル。そして、あなたの果たすべき役割を果たしなさい」
凛としたルファの言葉は、俺の体をギリギリと刺し込む錐のようだった。俺はたまらず膝を突く。
くるりと踵を返したルファは、ハルの手を引き再び歩き始めた。
次第に遠ざかるルファの背を俺は黙って見つめていた。俺はまた、見ているだけしかできなかった……。