10-3:後顧の憂い
「サキュバス、近い……」
俺はサキュバスから顔を背けた。手が触れるほどの距離にまで詰め寄る彼女に、圧迫感を受ける。
しかし、そんなことはお構いなしにサキュバスは体を少し屈めて、背けた俺の顔を覗き込んだ。
「ミー君、しーっ」
立てた人差し指を自分の唇に押し当て、サキュバスは俺に静かにするようと促す。そのあまりの近さに、俺は彼女から離れるように体を後ろに引いた。
だから、なんだよ……。
サキュバスの意図が読めず、俺の中で嫌な予感だけが波紋のように広がっていく。
警戒心を全面に押し出した俺の姿を楽しむように、サキュバスはニコニコと笑っていた。
俺とサキュバスが立つサイロの入口から反対側の壁までは、六メートルほどの距離がある。その壁際に、ハルは両耳をふさいだまま、こちらに背を向けて立っていた。
剥き出しの土とガランとした空間があるだけのサイロは、隔てるものが何もない。それにもかかわらず、俺とハルはサキュバスという壁を境に、事態がガラリと変わっていた。
俺はサキュバスを避けるように、ハルの背中を覗き見る。
しかしそれを遮るように、妖艶な笑みを浮かべたサキュバスが俺の視界を占領する。俺は露骨に嫌な顔をした。
俺の脳裏に、なぜかサキュバスと初めて会ったときのことが思い浮かぶ。
サキュバスが言葉を発した途端、周囲の空気がぐらりと揺れた。その瞬間、まるで夢の中にいるような感覚に陥る。
周囲の景色も雑音も消え、サキュバスの声だけが俺を支配した。何も考えられなくなった俺の前にはサキュバスの姿はなく、代わりにルシフェルが立っていた――
これが、夢魔が対象者の精気を吸い取るときに使う『魅了』の力だ。
対象者が潜在的に抱いている好みの容姿に自分を見せかけ、その対象者の意識が混濁しているうちに事におよぶ……というのが夢魔の常套手段だった。
いや、今は状況が違うし……。というか、いくらオープンなサキュバスだって、まさかハルの前でそんなことをするわけがない。それならこれは一体何なんだ?
訝る俺に向かって、ハルの耳に届かないほどの小さな声でサキュバスがささやいた。
「ミー君とのね、連絡手段を確保したいの」
「連絡手段?」
釣られて俺も小声で返す。俺と目が合ったサキュバスはニヤリと笑った。
「そぉ。離れていても、いつでも会いに行けるようにぃ……」
サキュバスがそう言い終わらないうちに、俺はサイロの壁際に体ごと押さえつけられる。そして、気づいたときには、サキュバスの唇が強引に俺の唇をふさいでいた。
「さっサキュ……」
俺は身をよじってサキュバスから離れようとする。だが、却ってそれがよくなかったらしい。俺の両肩に手をかけて抑え込んでいたサキュバスの力に負けて、そのまま地面へと尻もちをついた。
逃げ場をなくした俺に、サキュバスは唇を重ねたまま小声で言う。
「ミー君、逃げないの。ほらぁ、もっと舌絡めてぇ」
「ばっ馬鹿や……め……」
サキュバスの舌が、強引に俺の口の中に押し入ってきた。
俺はサキュバスの体を押し返そうと試みる。だが、大女の彼女の体重が俺にのしかかり、びくともしない。
石の壁に押さえつけられている俺は、サキュバスから逃れようと、今度は体を横に移動させた。だが、バランスを崩した俺の体は、サキュバスに唇をふさがれたまま、地面へ押し倒される形となる。
時折漏れるサキュバスの声と唇が重なる音がハルに聞こえるのではないかと、俺は気が気ではなかった。この姿を幼い彼女に見せたくはない。彼女の人生のトラウマになる……絶対に。
俺の顔に垂れ下がって来るサキュバスの亜麻色の髪越しに、横目でハルの姿を確かめる。
ハルは言われた通りに後ろを向いたままだった。おそらく、サイロに吹き込む風の音で、この怪しげな音は彼女の耳には届かないのだろう。
俺は心底ほっとする。だが……。
クソっ……いい加減にしろ!
サキュバスの体を突き放そうと、俺は両腕に満身の力を込めた。
しかしその前に、目の前からサキュバスの体が消え去り、俺の体が軽くなる。開けた視界に、蜘蛛の巣状のサイロの天井が飛び込んできた。
サキュバスから解放された俺はよろよろと立ち上がり、自分の口元を服の袖で拭った。そして、荒くなった息を整えながら、目の前に立つサキュバスを睨みつける。
「これは……どういう……こと……なんだよっ」
サキュバスも、唇の端についたどちらのものとも分からない唾液を、親指の腹で拭いながら満足そうに言う。
「これでミー君の『匂い』は覚えたから、夢の中で会いに行ける」
「ゆ……め?」
思考が追いつかず、俺は一瞬ポカンとする。だがそれでも、サキュバスの言葉を理解しようと必死に頭を働かせた。
そうか……、サキュバスが言う『連絡手段』っていうのは夢の中で会うことで、夢で会うためには俺の『匂い』を覚える必要があったわけだ。それで、そのために、あんなことする必要があったわけで……。ん? だからって舌を絡める必要があったのか?
舌は絶対に必要ない……と結論付けた俺は、再びサキュバスを睨んだ。
「だからっておまえ……」
俺の抗議に被せるように、サキュバスは口を尖らせながら訴える。
「大変なのよぉ、唾液だけで探すのぉ。本当は交わったほうが確実なのにぃ」
交わ……。
俺は反射的に即答する。
「それは断固として断る」
これに夢魔としてのプライドが傷ついたのか、サキュバスはショックな顔をして俺を見た。
「えぇ!? ひどぉい!」
ひどいって……。なんでおまえとしなきゃいけないんだよ……。
手で両耳をふさいでいたハルは、サキュバスの大声が聞こえたらしく、壁に顔を向けたまま尋ねる。
「何がひどいの? サキュバスさん、私、まだこのまま?」
「あ、ごめんねぇ。もう大丈夫よぉ」
ハルの言葉で気を取り直したサキュバスが、慌てて彼女の元へと駆け寄った。
二人の姿を見ながら、俺は頭を左右に振ってため息をつく。そのとき、石造りのサイロの外で、バサリバサリと上から地面へ降り立つ翼の羽ばたきが聞こえてきた。
羽音がするほうへ、俺たちは顔を向ける。
一瞬にして、サイロの内部がピンと張りつめた空気に包まれた……。