09-3:別離
俺たちの気配を隠すように、ルファの闇の力がサイロ周辺を包み込む。
サイロの内部にいる俺は、地面に膝を屈したまま動けなかった。身体的に俺を追い込む闇の力が、俺の精神も徐々にむしばみ始める。
光の中に生きる俺たち天使の感情は、ヒトとなんら変わりない。恐れや悲しみ、嫌悪に怒りといった負の感情を、天使も当然持っている。それは『生きる』ためには必要不可欠で、神がこの世に生きるすべての者に与えた贈り物なのだ。
天使はヒトの迷いや躊躇いを増幅させて、悪しき道へ進むことを思い止まらせる。逆に、悪魔は負の感情を増大させ、ヒトを感情の渦に溺れさせてしまう。
通常、天使も悪魔も翼の力で己を守るため、互いの力が感情に影響をおよぼすことはない。
だが、翼の力を解放していない俺は、嵐の中を丸裸で立っているようなものだった。
ルファが作り出す闇の力で、俺の心の内側にある黒い塊が脈打つように大きく膨らむ。油断すると、俺はその塊に飲み込まれそうになっていた。
ルファは俺を地獄に取り込もうとしているわけではない。ただ単に、悪魔の力を解放しているに過ぎなかった。しかし、これがルファの……悪魔の本質だということを、俺はまざまざと思い知らされる。
自分でも知らぬ間に、俺は服の胸ぐらを掴んでいた。
異変に気づいたハルが、俺に向かってささやく。
「ミカエル、大丈夫?」
しかし、俺は返事ができなかった。
何も答えない俺の背中に、ハルは心配そうにそっと手を添えた。
ハルが触れた部分から俺の体全体に温かさが広がる。すると、重くのしかかっていた重力が消え、体が軽くなっていった。そして、まるで霧が晴れるように、俺を取り巻く闇が薄らぐ。俺の視界は徐々に光を取り戻し、それと同時に俺の内側に巣くう黒い塊も急速にしぼんでいった。
俺は一つ大きく息を吐き、ハルを見る。
「ハル……」
「うん?」
俺を気遣うように覗き込むハルに、それ以上は何も言えなくなった。
「あ、いや……俺は大丈夫。ハルは?」
「私は平気」
「そうか……」
これは『無垢の子』の力なのか?
ハルはこの力を自覚して使っているのだろうか? 隣にいる彼女からはそういった印象は受けない。しかし、この力は高位天使の加護そのものだった。
そういえばハルは、ヒトに紛れていた俺が天使であることも見抜けた。『無垢の子』とは一体何者なのか? あらためてそんなことを思う。
こうして俺は、背中から伝わるハルの幼い手の温もりに守られながら、再び外の世界に目を向けた。
* * *
飛膜の翼の力を解放し、自ら創り出した漆黒の世界に一人佇むルファ。
やがて、その闇に誘われるように、ルファの足元にいくつかの黒い煙の塊が、どこからともなく湧き出した。その黒い煙が地面に吸い込まれるように消え去ると、ルファの前に跪く悪魔たちが姿を現す。
ルファに最も近い位置に跪く短髪の男がその場で立ち上がった。そして、取ってつけたような笑顔をルファに向ける。
「お久しぶりですね、母上」
俺よりも背が少し高く、ルファと同じ漆黒の髪色をしている男は、明らかにヒト型とは異なる体形をしていた。
深紫のローブから見える脚は黒の羽毛に覆われ、鳥のような鱗状の趾が見える。腕や手はヒトと同様の形をしているのだが、肩から首にかけて脚と同じく黒の羽毛に覆われていた。
男はいわゆる半人半鳥の姿で、彼の背から生えている翼は、悪魔特有の飛膜の翼とは異なり、まるで鴉のような漆黒の翼であった。
「呼びもしないのに、わざわざ私の前に現れるとは何ごとだ? マモン」
ルファの口調はいつもの穏やかなそれとは打って変わり、低く冷たい声色になっていた。
マモンと呼ばれた男は、笑顔のまま首をすくめる。
「これはなんともつれないお言葉。息子が母に会うことに、何か理由が必要だというのでしょうか?」
ルファは不快そうな顔でマモンを見た。
「おまえは私に会うついでに、悪魔たちにヒトの街を襲わせるのか?」
マモンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐさま声を立てて笑う。
「あれは余興ですよ。憂さをためたヒトの心と地獄に閉じ込められ憤りもだえる悪魔を、私は結び付けただけです。お気に召しませんでしたか?」
パストラルの襲撃が余興だと!?
俺はサイロの引き戸越しにマモンを睨みつけた。
戦術的には、パストラル襲撃は天界の目をそらすための囮なのだろう。だが、宿の主ハンネスのように、悪魔に操られた山賊に命を奪われた者や、戦火により町を追われた者などパストラルの町の人々を思うと、『余興』という言葉にひどい嫌悪を感じた。
マモンと対峙するルファも、ますます顔をしかめる。
「無用な争いを起こしたせいで、天界が騒ぎ出した。こちらはいい迷惑だ。おまえは先ほど、私に会うことに何か理由が必要かと聞いたな。おまえが私に会うことに、理由がなかったことなど、これまで一度でもあったか?」
ルファの問いに、マモンは笑顔のまま目を細める。
「まぁ……確かにそうでしたね。実はね、母上。私は、母上がお隠しになっている『無垢の子』に会うため、こうしてわざわざ 地獄から参ったのですよ」
「……何のことだ?」
ルファは眉をひそめた。
マモンは、貼り付けた笑顔を崩さない。
「これはこれは……お戯れが過ぎますよ。それとも、わが子にすら会わせられない理由でもあるのでしょうか?」
「……」
「お答えいただけないのですか?」
「……」
何も答えないルファを見て、マモンはニヤリと口角を歪ませた。
「母上、私はね、聞いてしまったのですよ。あなたの隠れ家での熾天使との秘密の会話を」
穏やかな口調で言うマモンの言葉に、俺は危うく声を出しそうになり、慌てて自分の口をふさいだ。
ガゼボでの俺たちの会話を聞かれていた!?
サイロの暗がりの中で、ハルとサキュバスが俺のほうを見ているのが分かる。
俺は手で口をふさいだまま、二人に向かってフルフルと頭を振った。
赤い屋根の家のガゼボでは、俺は周囲に細心の注意を払っていた。なぜなら、ハルが天界と地獄の勢力を左右する『無垢の子』であると確信していたからだ。おそらく、ルファも同じだろう。
つまり、ルファの前に立つあの男は、天界の最高位天使と地獄の支配者が張っていた感知の網を掻い潜ったということになる。
薄い笑みを浮かべる七つの罪源のひとつ『貪欲』のマモン。この悪魔の不気味さに、俺の背筋はゾクリとした……。