09-2:別離
ルファを外に残し、凍える森アルゲオネムスの前に鎮座する緑色のとんがり屋根のサイロには、俺とハル、サキュバスが息を殺すように隠れていた。
石造りのサイロの中は、土の地面が剥き出しになっており、天井を見上げると、木枠で複雑に組まれた屋根の骨組みが蜘蛛の巣のように広がっている。
「ルファのペンダントさ……」
サイロの引き戸の隙間から外の様子をうかがう俺に、サキュバスがおもむろに話し始めた。
「うん?」
「あのペンダント、ルファが地獄に堕ちてきたときに、握りしめていたものなんだ」
「え……?」
思いもかけないサキュバスの言葉に、俺は絶句した。
ルシフェルは、『あの時』そんなものを握りしめていたのか?
俺は記憶の糸をたぐるが、彼女の手元がどんなだったのかを思い出せない。夢に見るほど鮮明に覚えていると思っていた記憶が、どこかぼんやりと歪む。
サキュバスは続ける。
「地獄の業火に焼かれないようにって、両手でしっかりと握りしめていて……。あのペンダントは、ルファが天界から持ってきた唯一のものなんだよ」
地獄の業火――それは、ルシフェルが神に反旗を翻した『あの時』に彼女の側近だったベルゼブブが、地獄のダマーヴァンド山にあるといわれている魔王サタンの居城から火種を持ち出し、天界の大地に放った炎を指す。
ベルゼブブがどのように、サタンの居城から火種を持ち出したのかは分からない。
とにかく、その炎はサタンの魔力により自然に鎮火することはなかった。そして、熾天使の力をもってしても消せず、『あの時』以降、天界の大地を燃やし続けた。
もしかしたら、神ならば地獄の業火を消せたのかもしれない。しかし、神はそれをすることなく、燃え続ける業火の上に、まるでふたをするかのように新たな天界の大地を創り上げた。
それ以降、天界と地獄は『狭間』と呼ばれる特定の場所を除いて、あらゆるものを焼き尽くす地獄の業火で分断されている。
そして、地獄へ堕ちる天使は、必ずその業火の中を通る。
意識があるままでその身を焼かれる天使は、どんなに力を持っていても業火の凄まじさに耐えきれず、正気を失う者がほとんどらしい。
そんな炎に身を焼かれながらも、ルシフェルが地獄へ持ち込んだペンダント。今はハルの首にかけられている白銀のペンダントを、俺は見つめた。
「僕は、てっきりミー君が贈ったものだと思っていたのだけれど……」
サキュバスの言葉に、俺は首を横に振る。
「俺は何も渡していない。そもそも、天界にいたときのルシフェルは、装飾品を身に着けることはほとんどなかったし」
「そうなんだ……。何だろうね? ルファの大事なペンダントって」
「……」
俺とサキュバスがハルの胸元のペンダントを見つめる。
ハルが俺たちに応えるように、そのしずく型のペンダントにそっと触れた。
「私、ルファから聞いたことがあるわ。このペンダントは『心』なんだって」
「心?」
俺は、ハルの言葉を繰り返すように尋ねる。
「うん、大事な『心』が入っているって言っていたよ。だから、開けちゃダメなの」
「それ、開けられるの?」
ペンダントを指さしながらサキュバスが聞くと、ハルがコクリと頷いた。
「うん、ロケットになっているんだって。中身は教えてくれなかったけれど……」
ルファの言う、大事な『心』とは何なのだろう? それはルファ本人のものなのか、それともほかの誰かの『心』なのか……。
ハルの胸で鈍い光を放つ白銀のロケットペンダントを見つめながら、出ることのない答えを俺は考えていた。すると、突然、俺たちの周囲がドンと重苦しい空気に切り替わる。
「!」
俺はあまりの不快さに思わず顔を歪めた。
このねっとりと鬱屈した空気感は、ラジエルとサキュバスが戦ったときに、ルファが作り出したものと同じだった。
何枚もの板をつなげて作られたサイロの引き戸の隙間から外を覗き込む。
アルゲオネムスに浮かぶ満月ではっきり見えていた周囲が仄暗くなり、ルファの背中から六枚の飛膜の翼が生えているのが見えた。
ルファがこちらに顔を向ける。
俺たちが隠れているサイロをしばらく見つめた彼女は、地面に視線を落とした。だがすぐに、モノクロに変わった夜空を見上げる。彼女の肩が大きく上下して深呼吸するのが分かった。次の瞬間、ルファの髪がふわりと浮く。それを合図に、満月の光は終焉を迎え、辺りは漆黒の闇に覆われた――
ルファの力で闇に包まれた途端に、夜目が利くはずの俺の視界は、わずかにあるはずの微光までもが奪われ、光が完全に閉ざされた世界へと放り込まれた。
纏わりつく闇の中、地面へ押し付けようとする上からの圧力と、地底へ引き付けようとする引力が、俺の体に同時に襲いかかる。
眼には見えないが、どこからともなく現れた無数の手が俺の体をガッチリと捕まえ、地獄へ引きずり込もうとしているのがはっきりと分かった。
あまりのことに、俺はたまらず膝をつく。
さっきまでの重苦しい空気が、いかに生易しいものだったかを俺は痛感した。
体を襲う重力だけではない。息すらまともにできないのだ。いっそまったく息ができずに意識が飛んでしまったほうがどんなに楽かと思えるほど、吸っても吸っても、生殺しのようにほんの少しの空気しか取り込めない。
天使の力を解放していない俺は、ヒトが受ければ発狂するような高位悪魔の力をまともに受けていた。
その力は、赤い屋根の家の前で見せたルファの力とは比べものにならない。
これがルシファーの力か……。