08-3:凍える森のサイロ
ハルの所在を天界の奥へ移動させれば、地獄の軍を率いて天界へ攻め込むと言うルファに、俺は驚く。
「ちょっと待て。それはあまりにも……」
やり過ぎだろうと思った。そもそも、俺たち天使はヒトの命を奪えない。だからこそ、天界へハルが来たとしても、彼女の身は安全なのだ。
だが、ルファは険しい顔で俺を見る。
「脅しじゃないわよ? 天界の奥へ連れて行けば、ガブリエルがハルを『神の子』にしようと必ず企てるわ」
ルファの口から『ガブリエル』の名が出て、俺は眉をひそめる。
「俺がそうはさせない」
強い口調で言い切る俺に、ルファは躊躇い気味に頷く。
「……分かっているわ。だけど……ガブリエルが抜け目ないことは、あなたが一番よく理解しているでしょう?」
「……」
薄紫色の軽くうねる長髪と相手を切り裂くように見つめる切れ長の目。己の腹の内は絶対に見せず、常に天界全域に目を光らせ、あらゆる情報を把握し、一癖も二癖もある熾天使ガブリエル。
ルファが警戒する気持ちは、分かりすぎるほどによく分かった。
俺にガブリエルを再認識させたルファは、念を押すように続ける。
「だからこそ、狭間でサキュバスの目が届くところにハルは居て欲しいの」
「おまえの懸念は分かった。だが、それでは、ハルとガブリエルの接触は避けられないぞ」
「それは……」
眉をひそめたルファは、ハルの今後について思い巡らすように俯いた。その視線が、不安げに見上げるハルの視線とぶつかる。ルファは彼女にぎこちなく微笑んだ。
ルファが懸念する通り、ハルを天界へ連れて行けば、ガブリエルは『無垢の子』である彼女との接触を必ず図るだろう。しかし、それを拒むことは、天界の保護を受けるハルの立場を悪くする。
それならば、ガブリエルの望むように動くほうが賢明ではないだろうか? 要は、ガブリエルがハルに手出しができない状況を作ればよいのだ。
俺は目を閉じ思案する。
ハルの命が天使と悪魔のどちらに奪われるかで、天界と地獄の勢力は天と地の差になる。だからこそ、ハルがヒトのまま生きることを望むルファに、俺もハルを見守ると言ったのだ。
しかし、いつの間にか俺の中で、ハルは『無垢の子』ではなく、一人の女の子として己を犠牲にしてでも守らなければと思うようになっていた。
どんなに考えてみても、俺の頭には一つの結論しか浮かんでは来ない。
できることなら避けたいと心が拒否していた。だが、ハルの命をあらゆる者から守るには、それしか方法がなかった。
俺は目を開き、覚悟を決めてルファを見る。
「ルファ……いや……ルシファー」
このとき俺は、初めて地獄の支配者の名を口にした。
絶対に口にするまいと心に決めていた名だった。もし、俺がその名を言ってしまえば、『ルシフェル』がこの世界から消えてなくなる気がしていた。
ルファは驚愕した表情で俺を見る。
俺は、その視線から逃げることなく見返した。そして手のひらをそっと握りしめ、大きく深呼吸する。
「天界の総司令官として、地獄の支配者であるルシファーに一時休戦の協定を要請する」
「みっミー君!? 突然どうしちゃったの?」
サキュバスが目を丸くし、困惑したように言う。
ルファは俺の考えを推し量るように、黙ったまま俺を見つめていた。
俺は二人の視線を受け止めながら話を続ける。
「一時休戦の協定条件は、『無垢の子』のヒトとしての生存保障だ」
俺の意図に気づいたルファは、まるで自嘲するように口角をわずかに歪めた。
「そう……そういうこと……」
ルファも何かを決意するかのように、いったん瞳を閉じる。次に開いたときのルファは、地獄の支配者の顔となっていた。
「天界の総司令官ミカエルの要請を、地獄の支配者として受け入れよう。ハルが……『無垢の子』がヒトとしての生涯を終えるまで、地獄は彼女に手を出さない」
ルファはそう言うと、右腕を俺の前に出してきた。ルファの言葉に頷いた俺は、自分の右腕をそこに重ね合わせる。
「地獄がこの協定条件を守るのならば、『無垢の子』のヒトとしての生存を天界が保障しよう。もし、この協定条件が破られることがあれば……」
俺の言葉をルファが引き継ぐ。
「地獄と天界の大戦の幕開けとなる」
このときばかりは、独断専行が許される最高位天使という立場でよかったと俺は思った。
天界と地獄の間で交わされた休戦協定という取り決めを、よほどの理由がない限りガブリエルは単身では破棄できない。
そして、地獄も天界との大戦を考えれば、迂闊にハルには手を出せなくなるだろう。
俺はルファの腕に自分の腕を重ねたまま、サキュバスを見た。
「本当は、立会は天界と地獄双方に必要なんだが……。サキュバス、頼む」
「えぇ!? はぁ……ホント、二人ともさぁ……」
ガックリとうなだれるサキュバスに、ルファが冷たく言う。
「サキュバス、早くなさい……」
「はいはい。分かりましたよ、わが主」
ため息をつきながら、サキュバスは俺とルファが重ねる右腕の中央に自分の手をかざした。
「コントラクトゥス・マーギア」
サキュバスが唱えるのと同時に、彼の背中から飛膜の翼が現れた。そして、サキュバスの足元から金色の光が立ち上がったかと思うと、その光は輪となりサキュバスの体を囲いながら彼の手首に移動する。光の輪は金色の鎖へと変化し、サキュバスの手の甲を巻き込む形で俺とルファの腕が光の鎖でつながれた。だが、次の瞬間にはその光の鎖は消え、辺りは元の暗闇へと戻っていた。
その様子を見ていたハルは、目を丸くして尋ねる。
「今のは何?」
サキュバスは右手をひらひらさせながら、ハルの問いに答えた。
「契約魔法。偉い人が約束なんかをするときに第三者を巻き込んで使う魔法だよぉ」
ざっくりな説明……まぁ、間違っちゃいないけど。
天界や地獄では、協定や契約を結ぶ際、ヒトのように紙の文書を交わすことはほぼない。その代わりに契約魔法を使い、当事者同士または立会人の第三者を交えて、互いの記憶に協定や契約の内容を刻むのだ。
この魔法の便利なところは、当事者の一方が契約を違えた場合、もう一方の当事者や立会人にすぐ知られるという点だ。だからといって、もし契約を一方的に破棄したとしても、罰として破棄した当事者が滅びるとか、そういった物騒な類の魔法ではない。
心配そうにこちらを見るハルに、俺は微笑む。
「誰かが傷つくような魔法じゃないよ」
「そうなんだ……。よかった」
ハルは安心するようにふーっと短く息を吐き出した。
俺はハルに微笑んでいたが、ふと引っかかりを感じて自分の腕を見た。先ほどの光の鎖はすでに消えていて、その痕跡すら見当たらない。
俺は、昔、何か大事な契約をした気がするんだが……。
契約魔法は記憶そのものに刻み込む魔法である。そのため、契約そのものを忘れることなど通常あり得ない。それにもかかわらず、俺はなぜそんなことを思うのだろう?
不老不死に近い俺たち天使の記憶力は、ヒトの比ではない。
俺は、膨大な記憶の中から『何か』を思い出そうと試みた。しかし、俺の記憶の一部には霧がかかるように不鮮明な部分があることに今更ながら気がつき、俺は訝しがる。
俺は一体何を忘れている?