08-2:凍える森のサイロ
古の言葉で『凍える森』を意味するアルゲオネムスは、地面はおろか、そこに乱立している木々や朽ちた古木など、森のあらゆるものが苔に覆われる濃い緑が支配する世界だった。
この原生林に一度足を踏み入れると、同じような景色が続くため方向感覚を失い、下手をすると二度と出てこられなくなる。それが『アルゲオネムスには迷い人を喰い殺す魔物が潜む』といううわさになり、パストラルの住人は恐れをなして近づこうとはしない場所となった。
夜のアルゲオネムスは濃い緑が闇を飲み込み、月の光も遮る漆黒の世界へとその姿を変えていた。その闇深い原生林から吐き出される風が、俺たちの目の前にそびえ立つサイロのぽっかりと開いた戸口を通り抜け、ゴォゴォと不気味な音を立てている。
俺の肩に顔を埋めるハルは、風の音が鳴る度にビクリと体を震わせた。
ルファが大きなため息をついて、ゆっくりと俺に近づく。いや、正確に言うと、俺が抱きしめているハルに――だ。
「ハル……」
ルファの声に反応し、ハルの体が強張るのが分かった。だが、ハルは顔を上げることなく喉奥から絞り出すような低い声で言う。
「……イヤよ」
「ハル……」
「イヤだってばっ! 言ったじゃない! ずっと一緒だって、ルファは言ったわ!!」
ハルは顔を上げて捲し立てるように叫ぶと、再び俺の肩に顔を埋めてしまう。
俺が初めて聞くハルの怒鳴り声だった。
本当に賢い子なんだな……。
賢いが故に、自分たちがこの先どうなるのかを察してしまう悲しさもあった。
俺は黙ったまま、ハルをそっと抱きしめ続ける。
ルファは地面に両膝をつき、ハルの背中に優しく手を添えた。その体温を感じてハルの体がビクっと跳ねる。
彼女の小さな背中を辛そうに見つめながら、ルファは口を開いた。
「そうよ、ハル。ずっと一緒よ。でも……」
「うそはつかないって約束でしょ!?」
ルファの言葉を遮るように、ハルが叫ぶ。
「……」
ルファはハルの背中に手を添えたまま、珍しく途方に暮れたような顔をした。
見兼ねた俺は顔を埋めるハルの体を優しく起こし、彼女の顔を覗き込む。
「ハル、ルファの顔をしっかり見て。そして、きちんと話を聞いてあげて」
「……」
ハルは少し視線を彷徨わせるが俺の言葉に応じるように、ゆっくりとルファのほうを向いた。
ハルと同じ目線になっていたルファは、自分の両手で彼女の両手を大事そうに包み込む。
「私にとって、ハルはとても大切なの。あなたを失うことは、自分を失うことと同じだわ」
「私も……私もルファはとっても大切よ。だから私、ルファと離れたくない」
ハルの絞り出すような言葉に、ルファは頷きながら彼女をそっと抱き寄せる。
「私もあなたと離れたくない。ずっと一緒よ」
「本当?」
「えぇ、本当。たとえ体が離れてしまったとしても、ここはいつも一緒よ」
ルファはハルから体を少し離し、ハルの胸の中央を人差し指でトンと優しく突いた。
「ここ?」
ハルは、ルファが指さす自分の胸を覗き込む。
「そう、ここ。ハルの魂と私の核は、あなたの中でいつも一緒よ。だから、ハルは私の気持ちを感じ取れるのでしょ?」
「うん……」
ハルはルファを見て頷いた。
ルファは優しく微笑むと、自分の額を彼女の額にそっとつける。
俺は息をのんだ。
二人の姿が、俺とルシフェルの幼かった頃の姿と重なる。天界の大樹のもとで『永遠』を願ったことを思い出し、なんともほろ苦い気持ちになった。
「必ずまた会えるから」
自分の額とハルの額をつけたまま、ルファが言う。
「本当に?」
「えぇ、本当に」
「絶対?」
「絶対に」
「……分かった。私、待っているね」
そんな二人のやり取りを、俺とサキュバスはただ黙って見守るしかできなかった……。
* * *
名残惜しそうにその場から立ち上がったルファは、ハルの体を自分に引き寄せながら俺を見る。
「ミカエル……」
「分かっている」
俺は力強く頷く。ルファの言いたいことは分かっていた。
ハルがマモンという悪魔に狙われている以上、ルファが取れる行動はただ一つ。それは、ハルを天界へ引き渡すことだ。
あれほど拒絶した選択肢を選ばざるを得ないルファの心境は、まさに身を引き裂く思いだろう。
ルファは何か思案するように左手で右肘を抱え、折り曲げた右手の中指を唇に押し当てた。少し間を開けてから口を開く。
「ミカエル、二つほど取り計らって欲しいことがあるの」
「ん? なんだ?」
「一つは、ハルとともに、サキュバスを連れて行って欲しいの」
「え……」
「えぇ!?」
思ってもみないルファの要望に、俺とサキュバスが同時に声を上げる。
「いや、でも……」
反論しようとする俺の言葉を遮るようにルファが続けた。
「私の次にハルと長い時間を過ごしているのは、サキュバスよ。ハルの気持ちの負担が、少しは軽くなるわ」
「……」
何も言えなくなった俺は、ルファに寄りかかるように立つハルを見た。ハルは不安そうに俺を見返す。
サキュバスは困ったように亜麻色の髪をガシガシと掻きむしった。
「いやぁ……そうかもしれないけど……。僕、一応、悪魔なんだけどな……」
ルファはチラリとサキュバスを見るが、そのまま次の要求を口にする。
「それともう一つ。これが一番重要なのだけれど……ハルを天界の奥へは連れて行かないで。ハルが『狭間』に留まれば、サキュバスも平気なはずよね?」
なるほど……。
俺たち天使は、翼の力を解放し続けなければ地獄の瘴気には耐えられない。それと同じように、悪魔も力を解放し続けなければ天界の光には耐えられない。だが力を使い続ければ、ヒトの命と同義である俺たちの『核』までもが削り取られ、肉体が滅んでしまう。
ルファが言う『狭間』とは、天界と地獄の世界を分かつ境界線のことで、人間界以外で俺たちが接触する唯一の場所だった。
確かにあそこなら、サキュバスも天界の光に耐えられるだろう。
ハルの不安を少しでも取り除きたい気持ちと、ルファの要望になるべく沿ってやりたいという気持ちから、俺は二つ返事で頷く。
「分かった。サキュバスの件も含めて最善を尽くすよ」
「えぇ!? ちょっと……二人とも、僕のこと無視しすぎじゃない?」
自分の身の振り方が勝手に決まる状況に、さすがのサキュバスもあぜんとした顔をする。
まぁ、サキュバスには同情するが……。
だが今、最も憂慮すべきはハルの処遇だった。たった十歳の女の子を見知らぬ世界へと連れて行こうとしているのだ。その中でサキュバスの意向が二の次になるのは仕方ないことだった。
動揺するサキュバスをよそに、ルファは硬い表情のまま俺を見つめる。
「ミカエル、確約して。ハルを天界の奥へは絶対に連れて行かないと」
「やけにこだわるな……」
俺は首を捻るが、ルファは強い口調で言い放つ。
「もし、ハルが狭間から奥へ動くようなことがあれば、地獄の軍を率いて、天界へ攻め込むわ」




