06-1:朱の闇夜
赤い屋根の家でルファたちと別れたあと、ハルを見守るために、俺とラジエルはひとまずパストラルの宿に長期滞在することを決めた。
パストラルを訪れたときから宿泊している宿には、俺は片田舎に領地を所有する伯爵家の三男『ハミル・エクノール』、ラジエルはハミルの従者『ジルクール・オデリオ』という名で届けてある。
この『エクノール』という名は、熾天使ウリエルが人間界でヒトとして生活するための隠れ蓑のようなもので、実在する伯爵家の名だ。
上位天使が人間界へ降り立つときは、便宜上このエクノール伯爵の関係者を装う――というのがラジエルの話だった。
俺たちが実在する伯爵家を名乗っているためか、上客の長期利用に宿の主はニコニコしながら二つ返事で了承した。
ルファとガゼボで話し合って以来、俺はハルの今後について頭を悩ませていた。
彼女に宣言した通り、俺はハルのことを見守るつもりではある。ただ、この穏やかな状況が長続きするとは、どうしても思えないのだ。
人間界には途方もない数のヒトが存在している。その中でたった一人の『無垢の子』であるハルを見つけ出すことは、広大な砂漠の中で一粒の砂を探し当てるのと同じくらい難しいだろう。
だが、ヒトの存在するところには、天使や悪魔の『眼』が必ずある。
俺たちは『千里眼』という、人間界での出来事やヒトの心などを直感的に感知する能力で、天界や地獄から常に人間界を見張っているのだ。
ヒトがもし悪しき道へと揺らげば、天使の千里眼がすぐさまそれを感知する。すると、ヒトそれぞれに専属して付く『守護天使』が彼らのもとへ降り立ち、ほかの道へと導こうとする。
そして大抵の場合、悪しき道へと揺らぐヒトのそばには悪魔が潜み、彼らの心を惑わしているのだ。
ヒトの心の揺らぎは、大なり小なり日常的にあることだ。
しかしそれがハルのそばで起きれば、人間界へ降りてきた天使や悪魔は、『座位』を持たないハルの存在にすぐさま気がつくだろう。
それほどまでに、『座位』という魂の戻る場所を持たない『無垢の子』は、この世界では異質なのだ。
やはり、ハルを天界で保護したほうが、その身は安全なのだが……。
人間界ができる前、ヒトの祖であるアダムとイブが一時的に天界に住んでいた。このことから、ハルがヒトのままで天界で生活することに何ら問題はないはずだ。
ハルがヒトとしての生涯を終えたあと、彼女が望むのなら、天使への転生も不可能ではない。これに関しては、難題はあるものの、神である父上なら聞き入れてくれるに違いないと俺は確信していた。
それよりも、一番の問題はルファだった。
わが子を手放したくない母親のように、ルファはハルとの別離をひどく拒絶している。
俺は状況が許す限り、ハルを彼女の手元に留める努力をするつもりだ。だが、手遅れになる前に、次の手は打っておかねばならない。
しかし、ガゼボでの話し合いで少しは縮まったと感じた俺とルファとの距離は、そこからまったく動いてはいなかった。なぜなら、ルファは意識的に俺との接触を必要最低限に留め、それ以上は踏み込まないようにしているらしいのだ。
こんな状態で、ハルの今後を話し合うことなどできるはずもなく、俺たちにはまだまだ時間が必要だった。
* * *
パストラルは帝都へ向かう途中にある町の一つで、行商人など多くの旅人が通過する。
さまざまな事情を抱えた者が出入りする町、それがパストラルだった。
だからこそ、あちこちを流浪したルファたちをすんなりと受け入れ、外部から来た俺たちの長期滞在に不審を抱くこともない。
不特定多数のヒトが出入りする町を、ハルは意識的に避けているようだった。おそらく、自分が天使や悪魔に見つかってはならないと認識しているのだろう。
そのため、俺たちとハルはパストラルから少し離れた放牧地か、丘陵地にある赤い屋根の家で会うことが多かった。
放牧地では薬草の原料となる野草を採りながら、俺とハルは互いにいろいろなことを話した。
ハルは、ルファやサキュバスと過ごした日々のことを。俺は、幼い日のルシフェルとの思い出話を。ラジエルは、『秘密の領域と至高の神秘の天使』というだけあって、天界の裏事情を時折面白おかしく話すので、ハルはコロコロと笑いながら、その話に聞き入っていた。
穏やかで何気ない日々は、まるで流れる川のように、サラサラと過ぎ去っていく。パストラルに滞在して、ひと月が経とうとする頃だった――
いつものように、放牧地で日がな一日を過ごした俺たちは、日暮れ前にはハルを家へ送り届け、パストラルの宿へと戻った。
部屋の窓辺に腰掛けた俺は、暮れ行くパストラルの町並みをぼんやりと眺めていた。相変わらず、夜の帳に向かうパストラルの町は、どこかソワソワしている。
ラジエルは、部屋に備え付けられている小さな書斎机で一通の書簡を読んでいた。宿に戻った際に、女主人から封書を渡されたのだ。
「ミカエル様、封書はエクノールからでした」
椅子から立ち上がったラジエルは、俺に書簡を手渡す。
エクノール……人間界でのウリエルの仮の名。つまりは、天界からか。
俺は眉根をひそめて、ラジエルから受け取った書簡に視線を落とした。
それを見ながらラジエルが言う。
「詳細は分かりませんが、ウリエル様から『至急、屋敷へ戻るように』とのことです」
彼の言う通り、書簡には『至急、屋敷へ帰還せよ』と短い文章だけが書かれていた。ちなみに『屋敷』とは、人間界で使う天使の隠語で『天界』を意味している。
俺は訝しい顔をしてラジエルを見た。
「どういうことだ? それに、なんでこんな遠回しなことを……」
俺の言葉に、ラジエルも眉間にしわを寄せて首を傾げる。
ラジエルには大反対されたのだが、ルファとのこともあり、ハルの存在は天界には伏せてある。もちろん、ウリエルにもだ。ただし、俺が人間界のどこにいるのかだけは、ラジエルを通してウリエルには知らせていた。
四大天使の一人である熾天使ウリエルは、基本的に他人の行動に干渉するような性格ではない。それに、もし天界が緊急事態ならば、こんなのんきに書簡を送るようなまねはしない。にもかかわらず、天界への帰還を促す書簡を寄こすだなんて、一体どういうことなのだろう?
俺は手にしていた書簡をもう一度見た。
「ルファに話してから、今夜のうちに人間界を発とう」
ラジエルが頷く。
「かしこまりました。私は宿の支払いなど後処理を済ませてから、あちらの家へ伺います」
「分かった。じゃぁ、またあとでな」
こうして俺は、夕闇に飲み込まれ始めたパストラルの町を尻目に、赤い屋根の家へと向かった。




