05-2:ガゼボ
ルファは、サキュバスが運んできた紅茶をゆっくりと口に含む。
ただそれだけなのに、相変わらずきれいだな……と、俺は見惚れてしまう。そのなんとも場違いな感情に、俺は内心苦笑した。
「それで、何を話に来たの?」
ティーカップをソーサーの上に静かに置いたルファが、俺をじっと見つめる。その視線は冷ややかなものではなく、不安と訝しさが混ざったようなものだった。
そうだ。今日ですべてが解決するわけではない。これは始まりに過ぎないんだ。
逸る気持ちを抑えるように、俺は大きく深呼吸をする。そして、ルファの顔を正面から見据えた。
「確かめたいことがある。『あの時』よりも随分前のことだ。おまえ、メタトロンに呼び出されただろ? 何があった?」
神の玉座がある大広間に、吸い込まれるように入っていく彼女の姿を、俺は思い出していた。
「そんなことを聞いてどうするの?」
ルファは眉をひそめる。
「メタトロンに呼び出されたあと、おまえの様子がおかしくなった。俺が気づかないとでも思っていたのか? 何があったんだ?」
俺は同じ質問を繰り返してルファを見た。だが彼女は俺から顔を背ける。
「……言いたくないわ」
言いたくない……か。
玉座がある大広間の奥には、続き部屋となっているメタトロンの執務室がある。
メタトロンは『神の代理人』と呼ばれ、その行動は常に神の代弁者としてのものだ。そんな彼に呼び出されたということは、神がルファに……いや、ルシフェルに何かを伝えたはずなのだ。
その内容は、ルシフェルの謀反の発端となった、ヒトの祖であるアダムとイブの話だろう。
神からアダムとイブに仕えよと命じられたルシフェルは、それに不満を抱き、神に反旗を翻した――果たして、本当にそうなのだろうか?
俺は、顔を背けているルファの横顔を見つめる。
「じゃぁ、なぜ、あんなことを……賊軍を率いて、神に刃を向けるようなまねをしたんだ?」
俺の言葉を聞いたルファは、俺をギロリと睨んだ。
「なぜですって? あなたも知っているでしょ? 『アレ』は、私たちよりも脆くて愚かな『ヒト』を、あとからわざわざ創り出したのよ? それだけじゃないわ。私欲もなく、忠義に正直に仕える私たちの存在を無視して、あの土人形に仕えよですって? 『アレ』が先に裏切ったんじゃないっ」
ルファの目は怒りに満ち、いままでたまっていたものを吐き出すかのように捲し立てる。
父である神を、天使であったルシフェルは誰よりも尊敬し慕っていた。だが、今の彼女の中では、その名すら口にしたくないほどに、神を嫌悪しているようだった。
だが、俺はルファの言葉にやはり違和感を持ってしまう。
俺は、頭を左右に振る。
「おまえの言っていることは、おかしい。そんなにヒトを蔑むおまえが、なぜ、ハルを手元に置いておく?」
「それは……」
俺の口から『ハル』という名が出た途端、ルファの目から怒りが消え、急にうろたえ始めた。
俺は畳みかけるように、ルファを問いただす。
「ハルには座位が見えない。彼女は『無垢の子』なんだろ? それなら、なぜ、彼女の命を奪わない? 神が憎いのなら、ハルを『悪魔の子』に転生させ、人間界に混沌をもたらせば片が付くじゃないか。おまえは、なぜ、それをしない?」
「……」
ルファは何も答えない。それでも、彼女の視線は俺から切れることはなかった。
少し開いたルファの口から、今にも言葉がこぼれ落ちるのではないかと、俺は彼女の口元をじっと見つめる。だが、ルファの口からは短い息遣いしか漏れてはこなかった。
「ルシフェル……」
「その名は……呼ばないで……」
今にも消え入りそうな声で言うルファの視線は俺を離れ、目の前のティーカップへと落ちてしまう。
俺はテーブルの上に置いた手を握りしめた。
「おまえは、一体何を背負っているんだ?」
うなだれるルファを目の前にして、俺は、席を立ちあがって彼女を抱きしめたいという衝動を必死で抑える。「おまえの背負う荷を俺にも背負わせてくれ」そう言えれば、彼女は少しでも楽になれるのだろうか? そんなことを考えていた。
二人の間に長い沈黙が流れる。ルファの中で何か考えを巡らせていることは、俺にも見て取れた。
俺はルファの言葉を待ち続ける。
やがて、俯いていたルファが顔を上げた。すがるような彼女の表情の変化に、俺は動揺する。
「ハルを『悪魔の子』にするつもりはないわ。ただ……私は……あの子を……ハルを、ヒトとしての生涯が終わるときまで、静かに見守っていたいだけなのよ」
「そんなこと……」
無理に決まっているじゃないか、という言葉を俺は飲み込んだ。
ルファは頷きながら、俺の言葉を引き受けるように言う。
「無理なことだって分かっているわ。それでも、できる限りの時間をあの子と一緒に、ただ平穏に過ごしたいの」
地獄の繁栄よりも、ヒトの子との穏やかな暮らしを望む――俺の目の前にいるのは、本当に『悪魔』なのだろうか?
俺は深いため息をついた。
「俺たち天使はヒトに危害を加えない。でも、悪魔はヒトを惑わし簡単に命を奪う。今、おまえがいる世界は、そういうところだろ?」
「そうね、そういうところだわ」
力のない声でルファが答える。
俺は、さらに酷な言葉を彼女に投げなければならないことに、胸が苦しくなっていた。
「おまえがそばにいる限り、彼女はずっと逃げ回らなければならないんだぞ?」
「違う! 私がいてもいなくても、あの子は常に狙われてしまうわ!」
ガゼボに置かれた小さな丸テーブルを、ルファは両手でバンと叩き、その勢いで立ち上がる。ガーデンチェアが派手な音を立てながらひっくり返った。
感情的なルファに驚いた俺は、彼女をまじまじと見る。天界にいたときの冷静で穏やかな彼女からは想像もつかない姿だった。
二人の間に再び沈黙が訪れた。
ため息をついた俺は、ルファが冷静さを取り戻せるよう、わざとゆっくり立ち上る。そして、彼女が倒したガーデンチェアを拾い起した。そのガーデンチェアに手をかけたまま、俺はルファを見る。
「ルファ……ハルのことを思うのなら、彼女を天界へ引き渡せ。俺たちは、彼女を『神の子』にはできない。彼女の身を案じるなら……」
「イヤよっ!!」
淡いターコイズのドレスを両手でぎゅっと握りしめ、ルファは悲鳴のように叫んだ。
感情に支配され、聞く耳を持とうとしないルファ。これは、まるで……。
「母親……みたいだな」
「え?」
ぽつりとつぶやいた俺の言葉に反応して、ルファは顔を上げる。そのとき、彼女の瞳にたまっていた涙が一筋、頬に沿うようにこぼれ落ちた。
俺は、もう一度繰り返す。
「今のおまえは、わが子を手放したくない母親そのものだ」
「……」
今、俺と話をしているルファは、理性で物事を判断する天使でもなく、残忍で欲望のままに動く悪魔でもない。それはまさに、ヒトの子の母親そのものだった。
俺は腰に両手を当て、はぁーっと大きく息を吐く。
「ルファの気持ちはよく分かったよ。ただ……天使を束ねる者として、俺もこの事態を見過ごすわけにはいかない」
「それなら、どうするつもりなの?」
ルファは頬にこぼれ落ちた涙を自分の指で拭いながら、警戒するように聞く。
そんなルファに、俺はニヤリと笑った。
「俺も、ハルを見守らせてくれ」
「え?」
俺の言葉に、ルファは目を丸くしてキョトンとする。
俺の突拍子もない行動に驚くルシフェルの顔、俺、結構好きなんだよな。
そんなことをひそかに思いながら、俺は話を続けた。
「ヒトを導き、悪魔の誘惑から守ることは、天使本来の務めだ。それに、俺もハルを『悪魔の子』にさせるわけにはいかないからさ」
「ミカエル……」
戸惑うようなルファの顔を、俺は覗き込む。
「それに……俺は、ルファともっと話がしたいんだ」
その言葉を聞いたルファは一瞬目を見開いた。そして、困ったような、それでいて今にも泣き出しそうな表情を俺に見せる。
その表情を見て、俺は思わず微笑んだ。
少しだけ、ほんの少しだけ、俺と彼女の距離が縮まった気がした。
だがそのとき、俺たちは気がつかなかった。
ガゼボの奥に乱立する森の木々に紛れた黒い影が、息を潜めながらこちらの様子をうかがっていたことに……。




