52-1:エピローグ
ミカエルは暗黒色のローブを脱ぐと、扉の正面に置かれた焦茶色の皮張りのソファーに放り投げた。中に着ていた白の軍服の詰襟を緩め、雑に置いたローブの隣にドカリと座る。天を仰ぎ見て、大きなため息を一つ吐いた。
「お疲れさまです。今日は随分と時間がかかりましたね」
座天使ラジエルは、ジャスミンの香りがふわりと漂うハーブティーをローテーブルに置き、ミカエルの横に置かれた暗黒色のローブを拾い上げた。
「伝染病……のよう……です……。日増しに……死者……が……」
薄墨色のショートボブの大天使サリエルが、ミカエルと同じローブをゆっくりと脱ぎながら言う。
「そうですか……」
ラジエルは難しい表情で、ミカエルのローブを洋服掛けへとかけた。
ハルが天使へ転生した『あの日』から、どのくらいの時間が経ったのだろう?
執務室の漆喰の天井を見ながら、ミカエルはぼんやりと思った。
地獄は相変わらず、ヒトを惑わし、闇へ引き込む所業を繰り返す。この伝染病も、もとを正せば悪魔へと行き着くはずだ。
ルシフェルが……いや、ルシファーが地獄へ戻って以来、さらに狡猾で戦略的となり、人間界の統治者である熾天使ガブリエルを悩ませている。
しかし着実に何かが変わってきたと、ミカエルは感じていた。
裏切り者の階級と呼ばれていた能天使たちは、『あの日』を境に自分たちの威厳を取り戻したように思えた。
おそらく、大軍勢を率いて人間界へ降りた七十二柱と呼ばれる高位悪魔を、能天使の長カマエルが討ち取ったことが大きな要因だろう。
目に見えて大きく変わったのは、ミカエルの長弟ガブリエルだ。威圧的で近寄りがたかった雰囲気が和らぎ、険の在る表情も穏やかになった。
そして何よりも周囲を驚かせたのは、ガブリエルがハルの教育係を申し出たことだった。
ハルの希望により、その滞在先は、下層にあるウリエル所有のサフィルス城に隣接する石造りの別棟となった。
ガブリエルは多忙な公務の合間を縫って、足繁くそこへと通う。
最初は償いのつもりだったのだろう。だがいつの間にか、彼自身がハルの成長に喜びを感じているようだと、四大天使の末妹ラファエルが嬉しそうに話していた。
「教えられたことを単に覚えるのではなく、自ら考え実践するところが良い。疑問や関心ごとがあれば、天界の階級などお構いなしにそこへ赴き、納得するまで物事を追求する。まだ正式な名も階級も決まっていないのに、あの子にかかわった者はすっかり心を許している。探求心の強さと何者をも魅了する力は、一体誰に似たのだろうな?」
苦笑いをしながらも、嬉しそうにハルのことを語るガブリエルを思い出すと、ミカエルの胸がじわりと温かくなる。
ハルは、ガブリエルを一切咎めなかった。それよりも、ミカエルとの確執が消えたことをとても喜んだという。
ハルとガブリエルの様子を報告するラファエルが、クスクスと笑いながらミカエルに言った。
「兄さまね、ハルにチェスを教えていらっしゃるの。それを見たら私、幼い頃に姉さまがガブリエル兄さまにチェスを教えていた姿を思い出してしまって」
「そんなこともあったな」
ミカエルも釣られて笑う。
ガブリエルのチェスの強さは、ルシフェルによるものだった。天界の軍師となるべく、戦略的思考、状況の分析、相手の心理を読み取る術など、ガブリエルはチェスを通して長姉ルシフェルから教え込まれた。
ガブリエルは、ハルに軍師の思考を教えているわけではないのだろう。おそらく、彼自身が培ってきたものすべてを、ハルに与えようとしている。ミカエルはそう感じていた。
* * *
ハルに孤独や不安を感じさせないよう配慮しながらの日々は過ぎ、ついに、神との謁見の日がやって来る。
神の玉座がある謁見の間に続く白亜の廊下を、ミカエルはハルの歩調に合わせゆっくりと歩いていた。
淡い青みを帯びた白のローブを纏ったハルが急に立ち止る。
彼女の姿が視界の端から消えたミカエルは、数歩先でくるりと振り返った。
廊下に差し込む柔らかな日差しとは正反対のハルの暗く硬い表情。察しはついたが、ミカエルはあえて穏やかな口調で尋ねる。
「ハル、どうした?」
「……神様は……私のことをどう思うかな?」
両手を祈るように固く握りしめたハルの体が、かすかに震えていた。
ミカエルは彼女の前まで戻ると、腰を少し屈めた。また少し背が伸びたな……。そんなことを思いながら、ミカエルは柔和な笑顔で答える。
「新たな天使の誕生を、喜んでいると思うよ」
「……」
彼の答えに納得がいかないのか、ハルは口をキュッと結んだまま下を向いた。胸のあたりまである黒髪が肩からスルリと落ちる。
天使に転生したハルの成長速度は、ヒトの比ではなくなった。彼女の身長は、今やミカエルの末妹ラファエルとさほど変わらない高さになっている。幼かった顔つきも日を追うごとに大人び、今は面影を残す程度だ。
目に見える成長に比べ、精神的な成長がまだ追い付いていないハルに向かって、ミカエルは優しい口調で尋ねる。
「ハルは、何が不安なの?」
「ルファのこと……言わなくていいのかな……」
ハルは俯いたまま、自分の胸に両手をそっと添えた。
表向きは、ミカエルの核の一部を切り取り、それを基にして彼女は天使へ転生した、ということになっている。
だがハルの核の大部分は、熾天使ルシフェルの片割れだ。ミカエルの核は、力が弱まっていたルシフェルの核を補う分しか切り取られていない。
その事実を黙っていることに、ハルは後ろめたさを感じているのだ。
ミカエルは、なるほど、そういうことかと心の中で笑った。屈めた体を起こすと、ハルの両肩にそっと手を置く。そして彼女の体を、廊下から見える庭園のほうへ向けた。
庭園は、溢れる緑の中に鮮やかな紅色のバラが咲き乱れている。その中央には三メートルほどの白亜の噴水があり、少し離れた場所に生命の若木が一本立っていた。若木の傍には、木製のベンチが寄り添うように置かれているのが見える。
「なに?」
ハルが不思議そうな顔で、後ろに立つミカエルを見上げた。
目が合ったミカエルはニコリと笑うと、右腕を前に突き出し、手のひらを広げる。すると、廊下の天井を支える支柱と支柱の間に、巨大な鏡が出現した。
ハルが再び前を向くと、ミカエルと並んで映る自分の姿が視界に入った。
透き通る白い肌に胸元まである黒髪、淡い赤の唇。彼女はわずかに目を見開く。
ミカエルが静かに口を開いた。
「ルファのことを黙っている必要はない。でも言う必要もない。ハルを見れば察しはつくよ」
「……」
「だけど、ハルはハルだ。出自は関係ない。それに……」
いったん言葉を区切ったミカエルを、ハルは鏡越しに見上げた。
「それに?」
ミカエルは何かを思い出すような顔で微笑む。
「それに、ハルのおかげで天界が少しずつ変わり始めている気がするんだ」
「そう……なの?」
ハルは訝し気な表情で首を傾げた。
そんな彼女に向かって、ミカエルは笑顔でコクリと頷く。
「ああ、これからもっと変わっていくと思う」
「そっか。そうなんだ……」
ハルは、照れながらも嬉しそうに笑った。
ガブリエルも話していたが、今やハルは、天界の誰もが気にかける存在となりつつある。
特に、ハルが滞在する下層の下位三隊の天使たちは、彼女の階級が上位になると、めったに会えなくなるのではと杞憂するほどだった。
だが、どんな階級になろうとも、ハルは決して変わらない。
この世界のあらゆる場所を自由に行き来し、何者に対しても分け隔てなく愛を与える。あいつとの約束通り。
ミカエルはそう確信していた。
上げていた腕を、ミカエルはゆっくりと下ろす。それと同時に、彼らの前にあった鏡が消え、色鮮やかな庭園の景色が戻ってきた。
「さあ、行こう。皆が待っている」
差し出したミカエルの手にハルの手が重なる。その手をしっかり握ったミカエルは、再び彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩き始めた。




