49-2:禁秘
サタンがスクリーンを指差すと、俺の消された記憶だという映像が再び動き出した――
薄暗い室内のベッドの上では、六枚の純白の翼を広げた裸のルシフェルが、向き合う俺を見つめながら言う。
「わが心すべてを あなたに」
その途端、彼女の胸の辺りから、七色に煌めく宝石のような核が出てきた。
画面の中の俺が目を細めて言う。
「初めて見るな……」
「そうね……」
俺もルシフェルも、キラキラと輝く核をしばらく眺めていた。だが俺は何かに気づき、不安そうにルシフェルの顔を見る。
「平気……なのか?」
ルシフェルは俺を安心させるためか、微笑みながら小さく頷いた。
「大丈夫。平気よ。それよりミカエル、言って。次の言葉を」
「分かった」
俺は強張った体をほぐすように、空気を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
それはそうだろうと、画面の外にいる俺は、記憶にない当時の自分に思いをはせる。
婚姻の儀の書物には『儀式中、互いの核を割っても肉体が滅びることはない』と書かれていた。だがその書物は、画面の中には見当たらない。おそらく俺は、記憶を頼りに儀式を行っていたのだろう。
何らかの手違いがあれば、俺はルシフェルを滅ぼしかねない。未経験の危険な行為に、緊張するのは当然だった。
画面の外の俺は唇を噛む。
当時の俺は気づくべきだった。ルシフェルは無計画なことはしない。あらためて書物を読み、儀式の手順を頭に入れていたはずだ。
それに気がついていれば、ルシフェルにはぐらかされた婚姻の儀を行う理由を、俺はあらためて尋ねていただろう。
画面の中では、六枚の翼を広げた俺が、愛おしそうにルシフェルを見つめていた。
「永遠に 愛そう」
そして、ルシフェルの核へと手を伸ばす。指先がわずかに触れた途端、パリンと音を立て、七色に輝く核は中心から真っ二つに割れた。
「ルシフェル……」
心配そうに顔を上げた次の瞬間、今にも泣きだしそうな表情のルシフェルの手が、俺の額に触れる。
「リコルドエファンセ」
彼女の言葉を最後に、薄暗い室内の映像は、白と黒の無数の点がランダムに揺れ動く映像へと切り替わった。
突然の出来事に、俺は茫然と立ち尽く。
白黒のノイズで埋め尽くされたスクリーンの前で、ルシフェルが最後に言った言葉を繰り返した。
「記憶消去……」
天使や悪魔が、人間界でかかわりを持ったヒトに対し、自分の記憶を消すために使う魔法が『記憶消去』だ。それはヒトだけではなく、天使にも悪魔にも有効な魔法だった。
まさかあの夜、ルシフェルが俺の記憶の一部を消していたなんて……。
状況から察するに、婚姻の儀は、俺にルシフェルの核を割らせるための口実だったのだろう。
だがなぜだ? 俺の記憶を消してまで自分の核を割り、あいつは何をしようとしていた?
俺はふと、人間界でルシフェルが別れる際、ハルに託したしずく型のロケットペンダントを思い出す。
深い森の前に建てられた古いサイロの中で、ペンダントに触れながら栗色の髪をしたハルが話していた。
「大事な『心』が入っているって言っていたよ」
心……。それはつまり、あのロケットペンダントの中に、熾天使ルシフェルの核の片割れが入っていたということか?
あれこれと考えを巡らせていると、サタンの声が聞こえてきた。
「婚姻の儀の最中に記憶を消すなんて、あの子は本当にすごいことを考える」
そこにはなぜか、切なさが混じっているような気がした。
俺は正面に立つサタンを見る。
「天使の核を地獄へ持っていくために、俺に割らせたのか……。でも、なぜ?」
「分からない?」
サタンの問いに、俺は少し考えてから答える。
「天界に……天使に未練があった……?」
サタンは苦笑いをすると、頭を左右に振った。
「いや、君にでしょ? 天界でも天使でもない。君に未練があったから」
「俺?」
サタンは肩をすくめて、両方の手のひらを上へ向ける。
「それしか考えられないでしょ? だから天使の核を割り、ペンダントに保管した。いつか君のもとへ帰れるのではないか、そんな淡い期待を抱いて。だけど、望みが叶う日は訪れない。頭では理解していても、あの子は自分を止められなかった……」
「……」
言葉が出ない。
世界の均衡を守るために、地獄の統治者になる覚悟を決めながらも、ルシフェルは諦めきれなかった。最後まで足掻いていたのだ……。
そう思うと、胸が締め付けられる。
サタンはさらに続けた。
「あの子が地獄の統治者になることを承諾したとき、一つの条件を提示してきた。ミカエル、君が必ずあの子の止めを刺すこと。あの子はね、君が自分のことを忘れないよう、君の抜けないトゲになりたかったんだよ。そして望み通り、君はあの子を永遠に忘れられないほど、深く傷ついた」
そこまで言い終えると、サタンが深いため息をつく。
「それにしても……核が半分しかない状態で君と戦うなんて。まさに執念……だね」
あぁ……だから……だからルシフェルは、『あの時』微笑んでいたのか……。
目の錯覚ではなかった。
俺の剣に体を貫かれ、地獄の業火へ堕ちていったルシフェルは、やはり笑っていたのだ。自分の望みが一つ叶い、満足したから。
馬鹿だな……。どんなことがあろうとも、俺がルシフェルを忘れることなんてあり得ないのに……。
俺は知っていた。地獄へ堕ちれば、神の恩恵を受ける天使には戻れないと。
だが『奇跡』というやつを信じたかった。そこに縋りつかなければ、目の前にある残酷な現実の先へは進めなかったのだ。
それは俺だけではなく、堕天を決めたルシフェルも同じだったということか……。
「俺は……それほどまでに……」
言葉を詰まらせた俺に代わって、サタンが続ける。
「そう。あの子はそれほどまでに、君を深く愛していた」
俺たちの心は、いつもずっと深くつながっていた……。
それが分かった途端、抑えきれない感情が溢れ出た。再びその場にしゃがみ込み、俺は嗚咽する。
自分の体を抱きしめるように交差した腕を、爪が食い込むほどに両手で掴んだ。頭を垂れると、白の地面にぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。必死に抑えていた声は、感情の高ぶりとともに漏れ始め、堰を切るように止まらなくなった。
俺はありったけの声を出して叫ぶと、子供みたいにしゃくり上げて泣いていた。
たまった膿を出し切るように泣き続けていると、黒い影が俺を覆う。白の異空間にいるもう一つの存在。サタンだった。
膝を地面につけたサタンの白いローブの裾が見える。サタンはかすかにため息をつくと、子どもを慰めるように俺の銀色の髪を撫で始めた。
悪魔たちも恐れおののく地獄の畏怖。それにもかかわらず、サタンの手の温もりは、俺の心を不思議と落ち着かせた。
ゴツゴツとした大きな手は、神のそれを彷彿させる。
冷静さを取り戻しつつある頭の中で、もとは同じだったからそう思うのだろうか? などと場違いなことを考えていた。
すっかり落ち着きを取り戻した俺は、ある疑問が浮かび、涙を手の甲で拭いながら顔を上げる。
「ルシフェルの天使の核は、今はどうなっている?」
核が納められたロケットペンダントは、ルシフェルに失望したハルが彼女へ突き返していた。
あのペンダントの中にある天使の核を使えば、真の魔王となり自我を失ったルシフェルを、元に戻せるかもしれない。そんなかすかな希望を俺は抱いた。
サタンはゆっくり立ちあがると、ローブのしわを直しながら言う。
「核なら、もうないよ」
「ない?」
眉間にしわを寄せた俺を見て、サタンは少し困った表情になった。
「うん、もうないんだ。あの子の核は、ヒトの子に使われてしまったから」
その言葉に、俺は目を見開く。
「ヒトの子って……まさか……」
サタンはコクリと頷いた。
「そう。君たちが『ハル』と呼んでいた、あのヒトの子に」
「!?」
俺は驚きのあまり片手で口を覆うと、その場に凍りついたままサタンを見つめた……。




