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48-2:教唆

 背後にいるサタンの声が、この世界で最も聞き慣れた心地よい低重音へと変化した。

 だが俺の体は強張り、小刻みに震え始める。声の主を確かめるために、ゆっくりと振り向いた。『やはり』という言葉が頭に浮かぶ。


「父……上……」


 白から黒へと変わった空間に立っていたのは、淡い白の輝きを全身から放ち、切なそうに微笑(ほほえ)む白髪の神だった。


 これはサタンが作り出した幻想だ。

 分かっている。分かっているのに、体が動かない。噴き出た汗が顔の輪郭を伝って、地面にポタポタと落ちていく。



『なぜ、そなたたちでなければならない?』



 偽の神の言葉が、頭の中で何度も再生される。それは決して表に出してはならない、俺の秘めた闇。

 神の姿を模したサタンが、巨大な飛膜の翼で俺を囲った。


「迷うことはない。もう楽になってよいのだ、ミカエル」



 楽に……。



 耳元から聞こえる穏やかで低重音の声が、俺の脳内をしびれさせる。


 ルシフェルを失ってからの俺は、ずいぶん長い間、絶望の底を歩いてきた。

 その終焉(しゅうえん)は、最悪な形で迎える。

 兄弟同士で傷つけ合い、友を無残な形で失い、腹心の部下の心と体に深い傷を負わせた。そして闇へ進む者を止められず、大切に育むはずの小さな命が消え、再び最愛な者と斬り合った。


 もしサタンの力で過去を変えたら、俺は神を敬愛すること以外の感情を知らず、己に課せられた任務を淡々と遂行するだけの天使になるだろう。しかしそれと引き換えに、苦悩は一切消えてなくなる。



 本当に……それでよいのだろうか?



 不意に、ハルの姿が俺の脳裏に鮮やかに(よみがえ)った。

 ゆるいカールのかかった(クリ)色のツインテールを風になびかせ、彼女はニコリと笑う。


「ルファがいなければ、私はこの世界で生きていけなかったの」


 ハルは足元に生えた牧草地の草を蹴りながら、照れくさそうに言った。


「だからね、ルファの姿は悪魔だけれど、私には神様に見えたの。いつも私のそばにいてくれて、私に世界を教えてくれた。ルファは私の神様よ」



 あぁ……なんだって、いまさら……。



 どんなに足掻(あが)いても、二度と取り戻せない。その幼い命が、消えてもなお俺の心の闇を優しく包み込んでくれる。


 ハルと出会えたから、過去と向き合い、前へ進む覚悟が持てた。

 ハルがいたから、種族の垣根を越え、悪魔の友を得た。

 ハルがいなければ、こんなにもヒトを愛おしく思うことはなかっただろう。


 そしてそのすべての発端は、ルシフェルが地獄(ゲヘナ)へ堕ちなければ、起こり得なかった……。



 俺は、黒一色の天を仰ぎ見る。

 次々と涙が(あふ)れては、とめどなく流れ落ちていくのが分かった。


「……無理だ……」


「無理?」


 神の声をしたサタンが怪訝(けげん)そうに繰り返す。

 俺は、喉奥から何とか声を絞り出した。


「俺は……ハルに救われたんだ……」


 喜怒哀楽がないまぜになり、湧き上がる感情の抑制ができない。

 自分を落ち着かせようと、肩を何度か上下させて呼吸を整えた。最後は大きく息を吐き出し、どこまでも続く暗闇を見つめながら言う。


「おそらく……ルシフェルもそうだろう。ハルに出会えたから、俺たちは変われた。あの子は……ハルは、ヒトであるにもかかわらず、俺たち天使よりも慈愛に満ちていた……。そんなハルを過去から取り除いてしまったら……。あの子が俺たちに与えてくれた、かけがえのないものまで消えてしまう……。そんなの……嫌だ……。なかったことになんて、したくない。だって俺は……俺たちは、ハルに出会ってしまったから……」


「……」


 飛膜の翼で俺を囲ったまま後ろに立つサタンは、一言も発しなかった。

 俺は、己の闇と対峙(たいじ)するように前を(にら)みつけ、拳を固く握りしめる。


「だから……俺たちじゃなければならなかった……。代わりを選んでも意味がない。俺とルシフェルが……天界(ヘブン)地獄(ゲヘナ)に別れなければ、ハルは生まれてこないのだから……」


 一度は止まったはずの涙が、再び溢れ出す。それを拭うこともできず、暴れ出そうとする感情を抑えつけるように、俺は歯を食いしばった。

 目を閉じて深呼吸を何度も繰り返す。邪魔な思考を振り払い、必要なものだけを残すように。

 しばらくして、俺は徐々に落ち着きを取り戻した。ゆっくりと目を開ける。



 ハル、もう大丈夫だ。



 頭の中にいる笑顔の少女に、そう告げた。俺は後ろに立つサタンのほうを向き、キッパリと言う。


「俺たちの苦痛は、あの尊い命を生み出した。創生神にしかできない生命の誕生を、俺たちはやってのけた。あの苦痛は価値のあるものだった。今の俺は、そう考える」


 ヒトの命はいつか尽きる。

 だが、そのヒトの歩んだ人生は、天界(ヘブン)に保管された魂の系譜に記録されて終わりではない。

 周囲に何かしらの影響を与え、残された者の心にそれが生き続ける。そして次の世代へ、脈々と受け継がれていくのだ。

 不死である俺たち天使には決してまねできない、ヒトのみが使える力。


 神は、天使に守らせるためだけに、ヒトという種族を創り出したわけではない。俺は、なんとなくそう感じた。

 有限である命のはかなさと尊さ。そして、先人の想いを継承しながら変化していく未来。

 俺たち天使は、ヒトを通して学ぶべきことがきっとある。あるはずなのだ。



 背後にいたはずのサタンは、いつの間にか正面に立っていた。神の姿のまま、俺の顔を(のぞ)き込む。


「それが、君の結論かい?」


「あぁ、そうだ」


 俺は断言した。もう迷いはない。


 神が敷いた、世界の均衡というレール。それを壊すことも変えることもできないだろう。だが、俺たちの内面に変化をもたらすことはできる。

 ハルがすでに証明してくれたこの変化を俺が引き継ぎ、世界へと広めるのだ。そうすれば、彼女は俺の中で生き続ける。深い慈愛の心とともに。



 サタンは小さく息を吐き出した。同時に、黒く染まった空間が白一色へと戻る。

 神を模したサタンも、腰まである漆黒の髪に、渦を巻いた太い角を生やした元の姿に戻っていた。

 赤色の瞳を細め、なぜか嬉しそうに俺を見る。


「物事にはね、必ず意味があるんだよ。その意味に気づけないことのほうが多いけれど、気づけた君は幸いだと、僕は思う」


 俺は涙で()れた顔を手の甲で拭いながら、素直に(うなず)いた。


「うん……。そう思う」


 それを聞いたサタンが片手で自分の額を押さえ、苦笑いしながら「あぁもう……」とつぶやく。


「だから、悪魔の言葉を鵜呑(うの)みに……」


 俺はサタンの言葉を遮った。


「分かっている。鵜呑みにしてはならないんだろ? それでも俺は、俺が抱えていた闇と向き合わせてくれたことに感謝している」


「……」


 目を丸くしたサタンは、少し間を置いてから、周囲に響き渡るほどの大声で笑いだした。


「あっはっはっはっは! 悪魔に感謝だって? 君ってやつは……本当に参るな。それじゃ、あと少しだけ、君に秘密を教えてあげる」


「秘密?」


「そう。たぶん、君が知りたかった秘密」


 そう言ったサタンは、淡黄色のスクリーンを白の空間に再び浮かび上がらせた。

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