48-1:教唆
天界を裏切り、数多の弟妹たちを陥れたルシフェルは、地獄の地でも周囲を欺き続けていく。神の計画に従い、己の本心を永遠に隠したまま……。
すべては、この世界の均衡を守るため。そして、俺たち天使を守るため。
赤銅色の空を見上げながら、地獄の大地に突き刺さる生命の樹を見ながら、ルシフェルが何を考えていたのか、今なら分かる気がした。
『それでも、天界へ帰りたい』
不可能だと理解していても、そう願わずにはいられなかっただろう。
それはいつしか、この世界を創った創造主に対する激しい怒りと憎しみにすり替わっていく。こうしてルシフェルの心は、壊れていったのだろう。
俺は今すぐにでも、ルシフェルを強く抱きしめたいと思った。同時に、嫌な考えがふと頭をよぎる。
座り込んでいた俺はよろよろと立ち上がり、サタンと向き合った。
「俺が……俺とルシフェルが愛し合うことも、父上の……神の計画だったのか?」
俺たちが互いを強く想い合わなければ、神の計画は確たるものにはならない。
本音を言えば、その真実は知りたくなかった。操作された気持ちだったなんて、受け入れられるわけがない。
それでも、俺たちの想いが偽りではないことを、確かめずにはいられなかった。
サタンはわずかに首を傾げると、考え込むように空を見つめる。この妙な間が、俺の気持ちをざわつかせた。
再びこちらを見ると、サタンは冷ややかな口調で言う。
「君たちが強く惹かれあったほうが、彼にとっては都合が良いだろうね。だって、愛し合う君たちが天界と地獄に別れたら、なおさら互いの世界をつぶせなくなる。そうでしょ?」
「……」
槍で胸を一突きされたかのように、言葉が出てこなかった。
その場で固まる俺を見て、サタンは困ったように笑う。
「だからさ……、僕の言葉を鵜呑みにしちゃダメだって」
またそれかよっ
俺は、キッとサタンを睨んだ。
悪魔は、良くも悪くも相手が欲する言葉を与える。その隙に心の中へと入り込み、徐々に相手を支配する。これは、サタン自身が言ったことだ。
俺はサタンの言葉を振り払うように、力強く頭を左右に振った。
「俺たちは……、俺とルシフェルは、自分の意思で愛し合った。誰かの、ましてや神の作為なんかじゃない」
俺を見つめていたサタンが、ニコリと笑って頷く。
「君たちはサンダルフォンと同様に、彼に最も近い者として創られた。当然、彼を慕う気持ちは、ほかの天使よりも強い。そんな君たちが互いに惹かれ合うことは、ごく自然の流れだった。僕はそう思うよ」
「……」
これは虚偽か真実か、それとも慰めなのか……。サタンの言葉がどこまで信じられるのか、本当に判断がつかない。それでもつい考えてしまう。
俺とルシフェルが愛し合わなければ、これほどまでに苦しむことはなかったのではないか? と。
どこまでも続く白だけの空間に、俺とサタンだけがポツンと立っていた。
何もない無音の中にいると、次第に思考が歪んでいくような気がする。
いや、そうだろうか? 俺の根底にある醜い本性が、浮き彫りになっているだけかもしれない。
俯いて黙り込んでいると、サタンが唐突に言い出した。
「試してみる?」
「え?」
「だからさ、君たちが想い合わない世界がどうなるのか、試してみる?」
顔を上げると、サタンが挑発するような目つきでこちらを見ていた。
心を読まれたのだと悟り、俺の鼓動がドクンと跳ね上がる。
「過去を……変えられるとでも言うのか?」
尋ねた瞬間、目の前からサタンの姿が消えた。背後から両肩をガシリと掴まれ、俺の体がビクリ動く。
サタンが耳元でささやいた。
「僕は、全知全能であるあの神の半身だよ? 時間の操作なんて簡単さ」
「なっ……」
驚いた俺は体を捻り、サタンを凝視した。その表情に満足したのか、サタンは歪んだ笑みを浮かべる。
「まぁ、時間を操ることは彼にとって禁忌だけど、サタンの僕には関係ないしね」
「……」
もしやり直せるのなら、ルシフェルは地獄での苦しみから解放される。そして昔のように、天界の長として天使たちを導いていくだろう。
俺の……俺たちの気持ちさえ消えてしまえば……。
俺の中で小さくしぼんでいた黒い感情が、ゆっくりと膨らみ始めた。
悪魔の闇に捕らわれるなと、本能が警鐘を鳴らす。だが俺の心は、すでにサタンに捕らえられていた。
「ただし」
軽々しかったサタンの口調がガラリと変わり、重く太い声になる。
「ただし、君たちの代わりとなる『対』が必要だ。さぁ……ミカエル、君は誰を選ぶ? 裏切り者のウリエル? 守られてばかりのラファエル? いや……一番適任なのは、狡猾で傲慢なガブリエルか?」
サタンの声に呼応するように、まばゆい白の空間が黒一色の闇へと変わった。
澄んでいた空気は、纏わりつくような濁ったものとなり、息苦しさを感じる。
変化は、周囲だけにとどまらなかった。俺は、サタンの顔つきに愕然とする。
肩越しからこちらを覗き込むサタンの眼球は、白い強膜が黒く変色し、逆に漆黒だった角膜が深紅へと変わっていたのだ。ニヤリと笑った口からは、真っ白な鋭い犬歯も見える。
気がつくと、俺の体は小刻みに震えていた。
これは恐怖か? それとも迷い? 一体何の?
暗闇でもはっきりと分かるサタンの黒と赤の瞳が、俺を捕らえて離さない。
「前にも言った通り、地獄には悪魔を統治する者が必要だ。それも、彼の意を汲み、悪魔たちを操る統治者が。その務めを果たせるのは、天界で彼に最も近い力を持つ天使のみ。つまり君とあの子を除けば、三兄弟のうちの誰か、ということになる」
「それは……俺が選ぶ……のか?」
青白い顔のサタンが、不気味に微笑んだ。
「怖がらなくても大丈夫。時間が巻き戻れば、君がここで誰を選んだかなんて、きれいさっぱり忘れてしまうんだから」
「……」
サタンの提案を受け入れれば、俺もルシフェルも、これからも続くであろう苦しみから解放される。特別な愛情は消え、俺たちはただの姉弟となるのだ。
そして、この場で選ばれた弟妹の誰かが、ルシフェルの代わりに地獄へ堕ちる。そのとき俺は、自分が選んだ誰かの胸を、やはり剣で貫くのだろうか?
ドクンドクンと鳴る鼓動がやけにうるさくて、考えがうまくまとまらない。
俺は……本当にそれを望むのか?
不意に、俺の脳裏にハルの姿が浮かぶ。
栗色の緩いカールがかかった髪をゆらりとなびかせながら、陽だまりのような笑顔のハルがこちらを見ていた。
「ハルは……あの子はどうなる?」
俺の肩越しから顔を覗かせていたサタンが、不思議そうに首を捻る。
「どうって……。『ハル』という人格が生まれることはないよ。だって、あの子が地獄へ堕ちなければ、ハルの祖母と祖父の恋慕はすぐに破綻する。そうなれば、ハルの母親は生まれない。母親がいなければ、ハルというヒトの子も生まれることはない」
ハルが……生まれない……。
喉奥に異物が引っ掛かったような、なんとも言えない不快な気持ちになる。
サタンは、再び俺の耳元でささやいた。
「ヒトはいずれ死に、いずれ生まれ変わる。『ハル』という人格が生まれなくとも、ヒトの子の魂は、別の人格として生まれるさ。君が気にするようなことじゃない」
確かに、そう……なのだが……。
頭の中では、ハルのさまざまな表情やしぐさが次から次へと思い出される。
サタンは、俺の迷いを打ち消すようにさらに続けた。
「君たちはもう十分に苦しんだ。愛する者を自らの手で堕天させ、その身を抱くことすら永遠に叶わなくなった。そんなすべての苦痛から、君たちは解放されるんだよ?」
「……」
「ヒトの命ははかない。命が尽きれば、その者だった頃の記憶はすべて消える。君たちにとって、ヒトの命は些末なものだ。だが『死』のない天使や悪魔は、ヒトとは違う。忘れることも癒えることもない傷を抱え、終天まで存在し続ける」
俺も……俺も、ヒトのように尽きる命であったなら、どんなに救われるだろうか……。
サタンから発せられる闇の言葉は、俺の心をゆっくりと侵食していく。
背後から深いため息がした。
「なぜだ? なぜ、そなたたちでなければならない?」
俺は驚きのあまり息をのむ。
聞こえてきた声はサタンではなく、俺が幼いころからよく知っている声だった。