46-1:白の世界
まばゆい光で目覚めた俺の視界いっぱいに、白一色の空が飛び込んできた。
なん……だ?
自分の状態も周囲の状況も、まったく見当がつかない。横たわる体は鉛のように固まり、指先すら動かせなかった。
俺の意識は霧がかかったように不明瞭で、遠近感もおぼろげな白の景色をただぼんやりと眺めていた。
俺……ここ……知っている……。
薄っすらと思い出した情景。
そこで俺は、子どものようにワンワンと泣きじゃくっていた。押し殺していた感情をすべて吐き出すように。
そんな俺の銀色の髪を、温かな手が優しく撫で続けていた気がする。
そうか……。俺は、また失ったのか……。
そう思った次の瞬間、喚き散らしたいほどの喪失感が襲ってきた。
一体何を失ったのか、今の俺には分からない。ただ『失った』という感情だけで、腸が千切れそうになった。
混沌とした感情の中、無音だった白の世界に、キーンという甲高い音が響き渡る。
いや、実際には音なんて鳴っておらず、単なる耳鳴りかもしれない。
どちらにせよ、この不快な音は、俺の思考を奪うのに十分な役割を果たした。
俺は唯一動く表情の筋肉を使い、固く目を閉じる。
いつしか、鼓膜を突き刺すような音に紛れ、ヒタヒタという音が聞こえてきた。
音の正体を確認するため、再び目を開けようとした。だが体の強張りと同様に、顔の筋肉が固まったように動かない。
ヒタヒタという音は、横たわる俺の頭のそばでピタリと止んだ。上から覗き込む気配がする。
いつの間にか耳鳴りは消え、何者かがすぐそこにいるという不安が一気に押し寄せた。
まさか……。
ドクンドクンと、早鐘のように鼓動が波打つ。そんな俺の額に何かが触れた。
これ……手か?
額から伝わる温もりが、ゆっくりと全身へと広がる。
朦朧としていた意識は次第にはっきりとし、鉛のような体は羽根のように軽くなった。
体を半分起こした俺は、慌てて仰ぎ見る。
「父上!?」
しかし、そこにいた者の姿が目に入ると、俺は言葉を失った。
「ざーんねん。彼だと思った?」
さも愉快そうに、そいつはクスクスと笑う。
白のローブを身に纏い、背丈ほどある漆黒の飛膜の翼を持った、地獄で最も恐れられる存在。俺の目の前には、悠然と立つサタンがいた――
考えるよりも先に、体が反応する。
地面を素早く蹴り上げると、俺は後ろへと移動した。
サタンとの間合いを取り、天使の力を解放すべく、いつものように背中に意識を集中させる。しかし、背から翼が現れる気配はなかった。
嫌な予感がしつつも、剣を召喚しようと手に力を込める。やはり翼と同様に、何もない空間は空虚なままで、変化することがなかった。
腰まである漆黒の髪に、渦を巻いた太い角を肩ほどまで生やしたサタンは、上機嫌な声で言う。
「あはっ! 君たちは、やっぱり素晴らしいなぁ! 大抵はね、僕を見ると恐怖で動けないんだよ? あのベルゼブブですら、そうだったんだから」
「……」
嬉しそうに笑うサタンの動向に注視しつつ、俺の中で怒涛のような疑問が湧いた。
なぜだ? なぜ力が出せない? そもそも、俺はなぜこんな場所にいる? 俺は、ルシフェルと……あの悪魔と戦っていたはずなのに……。
ルシフェルの姿をした悪魔の首をはねる途中、剣身が頚椎を砕いた。その感触が、俺の手に生々しく蘇る。俺の胴体も、あいつに深く斬られていた。
おそらく相打ちだったと思う。しかし今の俺の体には、傷一つなかった。
訝しい表情の俺が滑稽に映るのか、サタンは愉快そうに笑う。
「考えても無駄だよ。だってここ、君たちの世界じゃないんだから」
「……は?」
ますます理解ができなかった。『君たちの世界じゃない』とは、どういうことだ?
サタンは、高さも奥行きも認識できない真っ白な景色をぐるりと見回し、俺の無言の疑問に答えた。
「ここはね、隔絶された空間なんだよ。天界でも、地獄でも、人間界でもない。僕と彼だけが創り出せる世界」
サタンの言う『彼』とは、おそらく神を指すのだろう。それが分かった瞬間、俺の眉がピクリと動いた。
サタンはそれを見逃さなかったようで、笑顔のまま首を傾げる。
「あれぇ? 僕が彼を同等に扱うのは嫌?」
生理的な嫌悪なのだろう。今度は、サタンに明確に認識できるよう、俺は不快な表情を全面に押し出した。
「神は、この世で唯一無二の創造主だ。おまえは、その神の手によって創られた存在に過ぎない」
それを聞いたサタンは、ふぅーんと不服そうに口を尖らせる。
「そんな風に言うんだぁ……。でもさ、その唯一無二の創造主から離れて、僕のもとへ来ようとしていたんだよね? 君は」
「……」
俺は絶句した。
サタンの言葉で、今さらながら、地獄へ堕ちる意味を明確に理解する。
堕天とは、今目の前にいるサタンに従属することを意味するのだ。
そう認識した途端、吐き気がした。サタンに与することを、心底拒絶する自分がいる。それは、俺がまだ天使だから……なのだろうか?
まるですべてを見透かすように、サタンはいたずらっぽく笑う。
「あぁ……ごめん、ごめん。ちょっと意地悪だった。君は、門のふたを閉じちゃったんだもんね。あの先にある地獄の業火はね、彼と天使のつながりを完全に焼き切る所なのさ。でも……君はまだ、彼の呪縛から解き放たれていない。だから、僕に嫌悪を抱くのは、仕方のないことなんだよ」
「……」
この世界に生み出される前から刻まれた、神を崇拝する天使の性。
サタンの『呪縛』という言葉が、奥底に潜めた俺の闇を刺激する。
目の前に敵がいるにもかかわらず、俺は思わず目を背けた。向かい側から、ため息が聞こえてくる。
「困ったねぇ……。今の君は、とても中途半端だ。彼に対する失望は消えていない。だけど、天使であるが故に、彼への信奉も捨てきれない。それでも、天界には留まりたくないし、地獄に……僕のもとに来ることも本能が拒絶してしまう。そうかといって、ラジエルの望みを無視することも、できないんだよね?」
「……」
俺は無意識に、拳を握りしめていた。
サタンの言う通り、神に対する失望は、突き刺さった槍のように残ったままだ。
天界という神聖な領域で行われた、残酷非道な行為。
神は、天使の……わが子の過ちまでも享受した。いや違う。俺には、神があえて黙認したように思えたのだ。
今までのことを勘案し、この世界すべてが、神の望みを叶える駒であると俺は帰結した。
そして自らの意思で神を見限り、地獄へ堕ちることを望んだ。
しかしラジエルが、身を挺してそれを阻止する。そんな彼が懇願した。俺の創る未来が見たいと。
俺は、神に刻まれた『呪縛』に加え、弟妹たちを慈しんでいたルシフェルの記憶に捕らわれ続けている。今もこの先もずっと。
だからこそ、決めたのだ。
俺は、神の駒にはならない。そして……、ルシフェルのような裏切りもしない。
浅ましいと自覚しながらも、神に与えられた天使の力を使い、新たな未来を創り出す。だが……。
サタンが沈んだ声でボソリと言った。
「君も、つらい立場だね」
「……」
そう……本音を言えば、このどっちつかずの中途半端さが俺を苦しめている。それはまるで、光と闇の間で揺れ動くヒトのようにも思えた。
神の影響を最も強く受けているはずの最高位天使が、なぜ、こんな矛盾を抱えられるのだろう……。
そもそも神は、何のために『ミカエル』という存在を創った?




