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44-1:地獄(ゲヘナ)緩衝地帯

 まるで一本の線が引かれているように見える『狭間(はざま)』という名の渓谷の先に、天界(ヘブン)の大地があった。

 緑と茶色が入り混じる平原は、波打つように乱立する深緑の森へとつながっている。『狭間』を沿うように広がる森は、その先の景色を地獄(ゲヘナ)から隠す壁のようだった。



 草一つ生えていない荒廃した地獄(ゲヘナ)の丘に立つ幼顔のアジダハーカが、隣にいるベルゼブブを不安そうに見上げた。

 背中まである青みを帯びた黒色の髪をしたベルゼブブは、前を見据えたまま小声で言う。


「そのような表情は、兵の士気を下げます。お気持ちは、決して表に出さぬように」


「だけど……」


 アジダハーカはそれきり言葉を飲み込み、再び対岸へと顔を向けた。


 天界(ヘブン)の森からさらに奥、ちょうど北東の方角に、薄紫色の円の頂点がわずかに見える場所がある。

 遠く離れたこの地からでも、それが、地獄(ゲヘナ)の支配者ルシファーの作り出した結界だと分かった。



 あそこに母上がいる……。



 しかし、ここで見ていることしかできない現状に、アジダハーカは焦りを感じていた。


 ルシファーが天界(ヘブン)に捕らえられたと一報を受けたベルゼブブは、驚くほどに迅速だった。

 独断でアジダハーカを軍の総司令官に据え、七十二柱序列一位のバアルを使い、地獄(ゲヘナ)中に散らばる悪魔たちをあっという間に招集させた。この事態を、あらかじめ予見していたかのように。

 そして、天界(ヘブン)との境にある『狭間』の緩衝地帯のすぐ手前に軍を配備したところで、悪魔の凄まじい魔力が天界(ヘブン)から放出された。だがそれもつかの間、瞬時に薄紫色の結界が形成され、今に至る。


 天界(ヘブン)の青々と透き通った空が、地獄(ゲヘナ)にいるアジダハーカを一層不安にさせた。

 ルシファーの尋常ではない強さは、周知の事実だ。なにせ、魔力を暴走させた自分を止められるのは、地獄(ゲヘナ)で唯一、彼女しかいないのだから。さらには、()()サタンから玉座を奪い取ったのだ。そのルシファーならば、天界(ヘブン)を念じ伏せることなど造作もないと確信している。

 だがアジダハーカは、それとはまったく別の危惧の念を抱いていた。



 サタン……。



 あのねっとりとした視線と気配を思い出す。しかし、すぐに小さく首を振った。そうではないと否定したかった。杞憂(きゆう)であると思いたかった。

 しかしルシファーから以前言われた言葉が、アジダハーカの漠然とした不安をさらに()き立てる。


「ベルゼブブ……」


 アジダハーカの小さな声をかき消すように、背後から伝令の兵士の声が大きく響いた。


「ご報告いたします! アスタロト様率いる部隊が人間界へ到着。侵攻を開始いたしました!」


 アジダハーカの隣に立つ長身のベルゼブブが軽く(うなず)く。


「分かった。手筈(てはず)通り、天界(ヘブン)から天使どもが降りてきたことを確認した後、アガレスに指揮を任せ、アスタロトは直ちに離脱するよう、再度伝えよ」


「かしこまりました!」


 伝令の悪魔は一礼し、姿を消した。

 アジダハーカは、チラリとベルゼブブを見上げる。

 

 ベルゼブブの命で人間界へ降りた部隊の大半は、反ルシファー派で構成されていた。

 ヒトの魂が喰えるとあって、ほとんどの悪魔が目の前の餌に飛びつくように、われ先にと人間界へ降りていった。

 しかし実際は、その『餌』が自分たちであることに、七十二柱序列二位のアガレスを含めた一部の上級悪魔しか気づいてはいないだろう。

 アスタロトとともに人間界へ降りるよう、ベルゼブブから言い渡されたアガレスの引きつった顔を、アジダハーカは思い出す。



 権力に執着するアジダハーカの弟マモンを(そそのか)していたアガレスは、マモンを新たな支配者に据えた後、裏で操ろうとしていたらしい。

 隙あらば支配者の座を狙うこと自体、地獄(ゲヘナ)では珍しくはない。

 そしてベルゼブブは、アガレスの策略にいち早く気付いていただろう。しかし素知らぬふりをしてアガレスを泳がせ、マモンをルシファーの息子として、最大限の敬意を払っていた。表向きは。


地獄(ゲヘナ)を掌握せよ」


 これが、アジダハーカがベルゼブブに伝えたルシファーの言葉だった。


 それを聞いた途端、ベルゼブブはマモンをあっさりと切り捨てた。

 権力欲のないアジダハーカのほうが、ルシファーの代任として扱いやすいと判断したのだろう。

 つまり、ルシファーにとって邪魔だと判断すれば、ベルゼブブは躊躇(ためら)うことなく自分もつぶすはずだ。アジダハーカはそう考えていた。


 サタンの居城に長らく幽閉されていたアジダハーカは、ベルゼブブを深く知っているわけではない。

 しかしこの短期間で彼と行動をともにし、その言動から分かったことがある。

 それは、ルシファーの存在だけが、ベルゼブブのすべてであるということだ。そしてそれ以外の存在は、彼にとってただの『道具』にしかすぎないのだ。



 そんなことを考えていると、突然、アジダハーカの背中がゾクリとし、空気がピンと張りつめた妙な緊張感が体を突き抜けた。

 時を同じくして、周囲から不安が入り混じった騒めきが起こる。



 なん……だ?



 慌てて顔を上げると、天界(ヘブン)の空にわずかに見えていたルシファーの結界がいつの間にか消えていた。


「おのれ、天使ども! ルシファー様の結界を破壊するとは、こざかしいっ」


 騒めきに混じり、後ろに控えるアガリアレプトの吐き捨てる声が聞こえる。



 誰も……分からないのか? この変化に。



 周囲はルシファーの結界が消えた動揺と怒りばかりで、アジダハーカが感じる異変に声を上げる者はいなかった。



 ベルゼブブは、気づいているのだろうか?



 もはや疑いようもないこの事実を確認すべく、アジダハーカは、彼にだけ聞こえる声でボソリと言う。


「これ……サタンの魔力と似ている……」


 天界(ヘブン)から放たれるルシファーの魔力は、今までとは明らかに異なっているのだ。どちらかといえば、サタンの魔力に近い。

 この場で最初に感じ取ったルシファーの魔力も、一瞬だったがアジダハーカは同じことを思った。

 サタンの居城に長く幽閉されたからこそ、今は確信をもってそう言える。


 ベルゼブブに(たしな)められたばかりだが、それでも、抑えきれない不安をアジダハーカは吐露した。


「母上はおっしゃっていた……。『もう先へと進まなければ』と。あの言葉は、これを意味していたのだろうか?」


「……わが君は……そのようなことをお話しされていたのですか?」


 やや間があって発せられたベルゼブブの声が、微かに震えている気がした。

 アジダハーカはそれに内心驚きつつも、前を見据えたままわずかに頷く。


「サタンの居城にご滞在のときと最下層へご一緒したときの二度、母上はそうおっしゃった。もしかしたら、こうなることを予期していらっしゃったのかもしれない……」


「……」


 互いの間に、長い沈黙が流れた。

 アジダハーカは、隣に立つベルゼブブをゆっくりと見上げる。思わず、息をのんだ。

 感情を表に出さないよう窘めた彼の顔が、明らかに強張っていた。


 アジダハーカが知る限り、ベルゼブブは、悪魔たちの前で動揺する姿を見せることなど()()()ない。

 そのベルゼブブが大勢の兵士を前にして、震える手を口元へと押し当てた。


「だから……だから……あの方は……」


 ベルゼブブの視線はせわしなく動き、まるでうわ言のようにブツブツとつぶやき始める。

 彼がこれほどまでに狼狽(ろうばい)するとは思っていなかったアジダハーカは、どうすればよいか分からず困惑した。


「ベルゼブブ?」


「……」


 声を掛けられたベルゼブブは、隣に立つ幼い総司令官を鋭い目つきで見下ろす。

 目が合った瞬間、アジダハーカは殺されると思った。後退りしたい気持ちをなんと抑え、その場で彼を見つめ返す。

 ハッとわれに返ったベルゼブブは、口元から手を離し、気まずそうに視線を足元へと下ろした。


「わが君は……覚悟のうえで、天界(ヘブン)へ向かわれた。そして、アジダハーカ様を私に託された……」


「?」


 敵地(ヘブン)へ向かうと決めた母ルシファーは、当然、何らかの覚悟はしていただろう。加えて、弟マモンを失脚させるために、ベルゼブブを頼るよう指示したのも彼女だ。

 今さら何を言っているのかという表情で、アジダハーカはベルゼブブを見つめる。

 その疑問がベルゼブブへ伝わったのか、彼は苦々しそうな表情で顔を上げた。


「この戦い、わが君は、われらには『手出しをするな』とご命令されているのです」


「え……?」


 思いもしなかったベルゼブブの発言に、アジダハーカは驚きのあまり言葉を失った。

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