43-2:決意
ぽっかりと口を開けた闘技場の出入り口の先には平原が広がり、その上を雲がゆったりと流れていく。
だが内側から見ると、天界の風景は地獄の薄紫色に汚染されているようだった。
ガブリエルはボロボロになった祭服の袖を引き千切ると、一歩一歩、踏みしめるように歩き出す。そして出入り口の前まで来ると、再び純白の翼を広げて薄紫色の結界へ指を掛けた。
先ほどと同じく黒い閃光がバチバチと光り、ガブリエリの侵入を拒む。
ガブリエルはさらに魔力を高めた。再度、嵐のように荒れ狂う黒の稲光。
私が……やらねば……。いや、違う……。私ではなければならない……。私にしかできないのだ。このガブリエルが、必ず結界を破壊するっ!!
己を鼓舞するガブリエルの脳裏に、満足そうに笑うミカエルの顔がチラついた。
黒の光の輪が、ガブリエルの手元へと再び集まってくる。それに合わせ、ガブリエルがさらに大きく翼を広げ、魔力を指先へと集める。
「兄様! それ以上はダメっ!!」
ラファエルの悲鳴のような叫び声が聞こえた。
しかしそれに構わず、ガブリエルは己の魔力で作り出した金の閃光を黒の閃光に絡める。
雷鳴のような音が轟き、辺りの空気をビリビリと震わせた。
魔力が足りなければ、己の核を使えばよいだけのことだっ!
天使の慈悲を捨てたガブリエルにとって、自己という概念が希薄になっていた。
天界と天使たちのために、この身を捧げる。そこに、微塵の躊躇いもなかった。むしろ今のガブリエルにとって、天界のために滅ぶことこそが、己の救いのように思えていた。
薄紫色の結界が、ガブリエルの指に合わせてわずかに窪む。
ガブリエルは満身の力を込めて、さらに指を押し込んだ。
彼の色白の腕は筋肉が盛り上がり、顔には青白い血管が浮き出る。そして、ガブリエルの頭上に、黄金に輝く光の輪が現れた。
最大限に魔力を高めたガブリエルの指先が、膜のような薄紫の結界の中にめり込み始める。
彼の周囲では、黒と金の閃光が互いを逃すまいと激しくぶつかり合い、辺りの空気を巻き込んで小さな嵐を生み出していた。
その風圧で後ろへ下がりそうになるガブリエルは、両足を前後にして耐え忍ぶ。
彼の核は、耳障りなほど早鐘のようにバクバクと脈打ち、それに合わせて胸に刺すような痛みが走った。
まだだ……。あと、もう少し……。
「おまえなぁ……、それじゃダメだろ」
突然、幼い頃の兄の声が聞こえてくる。
驚いたガブリエルが顔を上げると、銀髪の幼い長兄が、呆れた表情でこちらを見下ろしていた。
昔の……記憶?
いつの間にか幼少の姿に戻ったガブリエルが、眉間にしわを寄せて尋ねる。
「どうして? だって、自分が犠牲になれば、みんなが助かるんだよ?」
兄は微笑みながら、幼いガブリエルの頭の上にポンと手を置いた。
「それは、ただの自己満足ってやつだよ。天界には、おまえの滅びを望む者なんて、誰もいない。むしろ、おまえが犠牲になったことで、皆は消えない悲しみをずっと背負うことになるんだぞ?」
「でも、生誕の間でまた復活するんでしょ?」
天使には『死』という概念がない。
自分が滅びたとしても、それは一時的なことで、新たな肉体を得て必ず復活する。それなのに、兄はなぜ、皆が悲しむと言うのだろうか?
納得のいかない幼いガブリエルは、自分の頭に手を置いたままの兄を怪訝そうに見る。
兄は目が合うと、当然のように笑った。
「だって、おまえのことが大切だから」
「え……」
思ってもみない兄の言葉に、ガブリエルはあぜんとする。その表情を見た兄は、満足げにニヤリと笑った。
「大切な者の傷つく姿なんて、誰も見たくない。たとえ、復活すると分かっていても、だ」
「じゃぁ、どうすればいよいの?」
「俺たちがいるだろ? 俺とルシフェル、ウリエルにラファエル。おまえに手を差し伸べる者は、ほかにも大勢いる。俺たちを頼れよ。まぁ……俺とルシフェルが、おまえたちを絶対に守るけどな」
兄はそう言うと、ガブリエルの薄紫色の髪をクシャクシャにしながら相好を崩した――
このタイミングで、幼い頃の記憶がなぜ蘇るのか、ガブリエルには分からなかった。
これが滅びる直前の現象なのだろうか? そう考えても答えは出ない。
魔力を搾り取られている核の痛みで、ガブリエルの思考が鈍くなっていく。
あの頃が……一番幸せだったのかもしれないな……。
黒と金の閃光がバチバチと音を立てながらぶつかり合っている最中、ガブリエルはそんなことをぼんやりと思っていた。
やがてガブリエルの手は、ルシファーが作り出した結界にズブズブと飲み込まれていく。
それに伴い、ガブリエルの胸部の痛みが一層激しくなった。脈打つごとに激痛が走り、油断すると意識が飛びそうになる。
手の甲を内側に向けたガブリエルの両手は、ついに結界をわし掴んだ。その途端、視界が歪み、体が後ろへとふらつく。
しま……った……。
地獄の結界を掴んだ手の力が、徐々に緩んでいく。
朦朧とする意識の中、ガブリエルは必死に腕を前へ伸ばそうとした。そのとき、背中にふわりとしたぬくもりを感じ、それが彼を前へと押しやる。
「私がサポートいたします」
「ラファ……エル?」
背後から聞こえたラファエルの声とともに、彼女が触れている背から魔力が流れ込むのが分かった。
「私は癒しの天使です。その私の目の前で、簡単に滅べるとでもお思いですか?」
普段の柔らかな口調とは異なり、怒りを含んだ棘のある言葉。
ガブリエルは、思わず苦笑する。
「すまない……。おまえの力を貸してくれ」
息を漏らすような微笑が後ろから聞こえ、バサリと翼が広がる音がした。
「もちろんです」
ラファエルが触れている背中から、大量の魔力が流れ込んでくる。
再び結界を力強くわし掴んだガブリエルは、それを一気に押し広げた。
ルシファーが作り出した薄紫色の結界は、ガブリエルを中心にバギバギと音を立てながら、光の亀裂が縦に走る。そして亀裂から漏れ出る光が、徐々にその強さを増した。
パァン!!
ガラスが粉々になるような音とともに、薄紫の結界が砕け散り、外界の光が闘技場内を照らす。
その瞬間、ガブリエルの背後から天使たちの歓喜の声が沸き上がった。
ガブリエルの目に、緑と土色が混ざった大地と、澄みわたる青空をゆっくりと流れていく小さな白い綿雲が見えた。
いつもの天界の風景に安堵したガブリエルは、その場にへたり込む。すぐ後ろにいたラファエルが、彼の大きな体を優しく抱き留めた。
「お兄様……ご無事でよかった……」
ガブリエルの体を包み込む彼女の腕が、小刻みに震えているのが分かる。
震えるラファエルの腕に、ガブリエルは自分の手を重ねた。
「もう……大丈夫だ」
「腰を抜かしているくせに、どこが大丈夫なんだよ」
いつの間にか二人の脇に立つウリエルが笑いながら膝を折り、ガブリエルの腕を自分の肩に回す。
「腰など抜かしてはおらん。少し疲れただけだ」
ガブリエルはムスっとした顔で答えながら、ウリエルの肩を借りて壁際に腰を下ろした。
「あーはいはい。そうですねぇ。あのガブリエル様が、腰なんて抜かすわけがないですよねぇ」
子どもをなだめるような言い草のウリエルを、ガブリエルは軽く睨んだ。だが、すぐ真顔に戻る。
「ウリエル。皆を連れて、早く行け」
その言葉で、ウリエルの表情もすぐに引き締まった。
「分かった」
「それと……」
さらに指示を出そうとするガブリエルに対し、ウリエルは両手を上げて制する。
「分かっている。前線の兵は動かさない。地獄に悟られないよう、下層の下位天使を中層へ移動させ、下層の連絡塔周辺に中層と上層の軍を配備する。下層を二度も失うわけにはいかない」
ガブリエルは頷くと、肩の力を抜くように息を吐き出し、壁に背をつけた。
「あとは任せた」
立ち上がったウリエルは、壁に寄りかかるガブリエルを不満そうに見下ろす。
「あのさ、ガブ君は軍師なんだから、ずっと不在も困るんだけど?」
それを聞いたガブリエルが、喉奥で笑った。
「分かっている。あとで必ず合流する」
「頼りにしているよ。熾天使ガブリエル」
ウリエルはテキパキと天使たちに指示を出すと、皆を連れてすぐさま闘技場を後にする。
ただ一人、床に座り込むガブリエルは、その光景をぼんやりと眺めていた……。