42-3:失望と希望の揺蕩い
ルシフェルが作り出した地獄の結界。それはかつて、俺が人間界の古びたサイロで味わったものとは、まったく次元が違っていた。
翼の力を解放している上位天使ですら、油断すると地獄の深い闇に飲み込まれ、気が狂いそうになる。
俺は、目の前のラファエルに向かって言う。
「中位天使は、この瘴気に耐えられない。そのまま守護魔法の維持を頼む」
「分かりました」
コクリと頷く彼女から、俺は気まずそうに視線を落とした。
「それと、ラジエルを……」
そう言いかけた俺の腕に、ラファエルがそっと手を添える。
「心得ております。あとは、私にお任せください」
「……頼む……」
俺の腕の中には、白い膜に包まれた瀕死のラジエルがいた。
膜の色のせいか、顔が怖いくらいに白くなっている。それでも彼の核は、俺の魔力で何とか拍動を続けていた。
翼を広げたラファエルは、大きな楕円を描くしぐさをする。その動きに合わせ、ラジエルの周りに淡い黄赤色の膜が生まれ、白い膜ごと彼の体を包み込んだ。
前に突き出していたラファエルの両手が、ボールを持つような形に変わっていく。その動作に呼応し、膜に包まれたラジエルの体が徐々に小さくなっていく。そして最後は、彼女の両手に収まるほどの球体へと変化した。
ラジエルが収まった黄赤色の球体を、ラファエルは優しく抱きしめる。すると球体は、彼女の体内へ静かに吸い込まれていった。
腐敗した大地をも浄化する『神の癒し』熾天使ラファエル。彼女の強大な治癒力をもってすれば、ラジエルの滅びは止められるだろう。だが……。
俺は、瓦礫と化したモニュメントのほうを見た。
そこには、主の体から切り離された右腕が、無造作に転がっている。すでに灰色の塊と化したラジエルの右腕は、砂の造形物が壊れるようにドサリと崩れた。
癒しの天使ラファエルといえども、無から有は創り出せない。
片腕を失ったラジエルのことを思い、俺は奥歯をギリギリと噛みしめた。
「兄様……」
ラファエルの手が、心配そうに俺の祭服の袖を握りしめる。
俺は肩の力を抜くようにゆっくりと息を吐き出し、彼女に向かって小さく頷いた。
そのとき、頭上で閃光とともに爆音が響き渡る。
上空では、ケルビムたちがルシフェルの力により、四方へと跳ね飛ばされていた。
獅子型のケルビムが、闘技場の地面へ一直線に落ちていくのが見える。
「ケルビム!!」
俺が叫ぶのと同時に、今度は空から赤黒い炎が津波のように襲ってきた。
ラファエルの守護魔法に上乗せするように、俺とそのほかの座天使が咄嗟に防御壁を作り出す。
対応に遅れた座天使の一部は、悲鳴を上げる間もなく炎に巻かれて消し飛んだ。
虚ろな目で振り向いたガブリエルが、覇気のない声で言う。
「私の失態だ……。まさか四大天使すべてが、ここに閉じ込められるとは……」
ルシフェルの結界に包まれた闘技場は、今や外界から隔絶された空間となっていた。加えて、地獄による天界と人間界への同時侵攻の報告。
天界の軍は、四大天使全員が不在でも、各隊の指揮官が連携して対応できるよう、非常時の指揮系統が確立されている。だがそれも、一時的な措置に過ぎない。
上層には、熾天使メタトロンが残っていた。しかし、軍の統率はしないだろう。神と一心同体の彼は、神の望む通りにしか動かない。
統率者が不在のままでは、地獄の支配者ベルゼブブが率いる軍勢に、天界の軍が劣勢となるのは時間の問題だ。
そしてもし人間界が悪魔の手に落ちれば、ヒトの『座位』が地獄へ大量に移り、天使の力が弱体化する。そうなれば、ルシフェルが謀反を起こした『あの時』以上の凄惨な光景が、世界中に広がるだろう。
地獄の結界が作り出す重苦しい闇の雰囲気にのまれ、闘技場にいる天使たちから絶望感が滲み出ていた。
それでも俺は、上空を睨みつけながら必死に考えを巡らせる。
人・獅子・牛・鷲の四身一体の智天使ケルビムは、完全な悪魔となったルシフェルを身を挺して抑え込み、なんとか時間を稼いでいた。この状況を、俺が必ず打開すると信じて。
俺はその場から立ち上がると、闘技場内の天使たちを見回した。
「まだだ。まだ終わってはいない」
顔を強張らせた天使たちに向かって、はっきりとした口調で言い切る。
根拠を示さないその言葉に、天使たちは戸惑うように騒めいた。そんな彼らの中から、俺は灰赤色の短髪の天使を見つけ出す。
「カマエル!」
突然名を呼ばれたカマエルは、驚いたように体をビクリと跳ね上げた。
「はっはい?」
「おまえに、俺の一個中隊を預ける」
「え……」
棒立ちになるカマエルを見ながら、俺は続ける。
「俺とおまえの隊で、人間界の悪魔を一掃してこい。おそらく七十二柱の上位悪魔も、そこにいるはずだ。油断するなよ」
俺は人差し指を立てると、クルリと一回転させて金色の輪を作り出した。そして、その輪をカマエルの腕に向かって放り投げる。
金の輪は、彼の緑がかった薄茶色の軍服の袖に巻き付き、六枚の翼が描かれた腕章へと変わった。
「その腕章は俺の代理である証だ。それを身に着けていれば、俺の隊はおまえの指示に忠実に従う」
袖に巻かれた金の腕章を見つめるカマエルの顔は、明らかに困惑していた。
無理もない。カマエルは、上官の俺に対し、裏切り者と刃を向けたのだから。
さらに言えば、彼は能天使の長ではあるが、主天使と力天使が所属する中位三隊のなかでも、最も位が低い天使。
絶対的な階級社会の天界で、下位天使が上位の座天使部隊を指揮するなど前例がない。
「あっあの……」
尻込みするカマエルの言葉を、すぐさま俺は遮った。
「裏切り者の堕天使を、おまえ自らが裁け。そして人間界を、ヒトを救うんだ」
「……」
口をわずかに開いたまま、カマエルは俺を見つめる。だがそれもつかの間で、背筋を伸ばすと、固い表情で己の胸を右の拳でドンと叩いた。
「このカマエル、ミカエル様から仰せつかった大役を見事に果たし、必ずや能天使の誇りを取り戻してみせます」
その言葉に、俺は大きく頷いた。
カマエルは以前、俺に向かって、自分たちの屈辱と無念を晴らしてくれると信じていた、と言った。
だが、俺が悪魔を殲滅したところで、能天使たちは救われないだろう。
カマエルたち能天使は、己を救う以前に、天使本来の存在意義を再認識することが必要だと感じていた。
今の天界は、負の感情が肥大している。そして、ヒトを正しき道へ導き、彼らを悪魔から守るという天使の本質が、希薄になっている気がするのだ。
それはなぜか?
すべては、ルシフェルが起こした『あの時』の謀反が原因だ。
それがもし、神による『計画』だとしたら?
「あなたが創る未来が見たい」
ラジエルの言葉が、俺の耳にこびりついて離れない。
高潔だった熾天使ガブリエルが、己を汚してまで世界を変えようとした。ならば、俺は俺のやり方でこの世界を変えてやる。たとえそれが、神の意に反することであろうとも。
ついさっきまで世界の滅びを望んでいたくせに、なんて都合のいい心変わりなのか……。
俺の脳裏に、したり顔で笑うラジエルがチラつく。
ほんっとうに卑怯だな、ラジエル。
心の中で苦笑する俺に、ウリエルが紫色に染まった空を憎々し気に見上げながら尋ねる。
「でも、この結界はどうする? 腹立たしいけど、僕らの力でも簡単には破れないよ?」
「それは問題ない」
「問題ないって……」
訝しげにこちらを見るウリエルのほうへ、俺は体ごと向き直った。
「それよりもウリエル、おまえは天使軍の統率を頼む。『あの時』と同じで悪いな」
「……ミー君の尻ぬぐいは……もう慣れたよ……」
そう言いながら、ウリエルは気まずそうに笑う。
「そうだったな。よろしく頼む」
「で、結界は?」
「それは、ガブリエルが何とかする」
「え?」
驚いたウリエルは、隣にいるガブリエルを見た。彼もまた、あぜんと俺を見ている。
「私が……か?」
「できるよな?」
「……」
真っすぐ見つめる俺から逃げるように、ガブリエルは目を伏せた。
こいつの心は、今や完全に折れている。その姿は、少し前の俺だった。
そうか……。『あの時』のガブリエルも、俺を鼓舞するためにわざと挑発していたのか。
一回り体が小さくなったように見える長弟に、俺は静かに言う。
「このままでは、天界は地獄の手に堕ちる。おまえは、それでいいのか?」
「……」
「ガブリエル。これは、おまえにしかできない」
ガブリエルは、しばらく唇を真一文字に結んでいた。やがてゆっくり顔を上げると、鋭い目つきで俺を見つめ返す。
「わかった。この結界は、私が破壊する」
そう言ったガブリエルは、階下へつながる階段へと歩き出した。すると、それを見計らったかのように、頭上から大声が聞こえてくる。
「作戦会議は終わったかぁ!? こっちはもう持たねぇぞ!!」
見上げた先にいる人型のケルビムは、言葉とは裏腹にヘラリと笑う。しかしその顔には、疲労が色濃く出ていた。
「今行く!!」
俺は続けて、闘技場内にいるすべての天使に聞こえるよう、声を張り上げる。
「皆は、ガブリエルに従え! 俺はここで、あの悪魔を滅ぼす!!」
そう言い放った俺は六枚の純白の翼を広げ、ルシフェルが作り出した地獄の空へと羽ばたいた――




