42-2:失望と希望の揺蕩い
いつの間にか俺は、天使の未来は常に神の手の中にある、と思っていた。
ルシフェルの謀反も再会も、ハルとの出会いさえも、すべて神の筋書きどおりだったのではないか?
犠牲の上でしか成り立たないこの世界を、神が傍観しているだけなのは、何らかの意図があるからではないか?
ついには、根本的な疑問を抱く。
『神は本当に、この世界のすべてを享受する存在なのか?』
目の前で壊れていくルシフェルを見たとき、俺は一つの結論に辿り着いてしまった。
天使と悪魔、そしてヒトさえも、神の望みを果たすための駒に過ぎないと。
父であり、創造主である神への溢れんばかりの怒りと嫌悪。
今なら分かる。
堕天する者は皆、己の意思で神とのつながりを断つのだろう。
だから俺のもとへ、地獄の門が現れた。つまり俺は、神の加護を受けるに値しない存在となったのだ。
ラジエルは、俺が天使ではなくなったことを知っていたはずだ。それにもかかわらず、神ではなく俺の創る未来が見たい、と言う。
そして今も、苦痛で顔を歪めるラジエルは、懇願するようなまなざしで俺を見ていた。
おまえの期待には答えられない……。
そう思ったとき、上層の地下室で言われたケルビムの言葉が蘇る。
「ミカエル君なら、辿り着けると思うんだよな。神のいる頂に……さ」
俺の核がドクンと脈打った。
何で今、そんなことを思い出すんだよっ
苛立つ俺の気持ちとは裏腹に、まるでスイッチが入ったかのように、頭の中でさまざまな思いを巡らしてしまう。
ルシフェルの謀反、無垢の子の誕生、神の頂、世界の未来――
俺は……一体何のために創られた?
あともう少しで、何か重大なものが掴めそうな感覚。しかしそれを遮るように、ラジエルが呻き声を上げた。
「ぐっ……」
俺の腕の中で体を大きく反らせたラジエルは、口から泡立った鮮血を吐き出す。
「ラジエル!!」
力が抜けたラジエルの体重が、俺の腕に重くのしかかった。早鐘のようにドクンドクンと波打っていた彼の拍動が、徐々に弱まっていくのが分かる。
途端に、俺は目の前の現実に恐怖を感じた。
もう嫌だ……。これ以上、失うなんて……。
世界の滅びを望む俺が、ラジエルの滅びを拒絶するなんて矛盾している。そんな考えを振り払い、俺は赤黒く染まる彼の胸に手を当てた。
無理だと知りつつも、いつものように意識を背中へ集中させる。すると、ごく当然のように、俺の背には六枚の純白の翼が現れた。
「何で……」
神とのつながりが切れたはずの俺が、まだ翼を出せたことに一瞬戸惑った。だが俺は、すぐさま淡い白の光でラジエルを包み込む。
その光に触れた地獄の門は、パンッという乾いた音とともに粉々に砕け散った。あとの残ったのは、傷一つない闘技場の白い床だけだった。
「兄様! ラジエルは!?」
崩れたモニュメントの下敷きになった天使を、介抱し終えたのだろう。ラファエルが、慌てた様子で駆け寄ってくる。
そのとき、俺たちのほうへ何かが向かってくるのを、視界の端で捉えた。
反射的にそちらへ顔を向けると、深紫の魔力の塊が目前まで迫っていた。
「危ない!」
六枚の翼を大きく広げた俺は、取り囲んでいた淡い白の光を瞬間的に拡張させ、ラファエルをも包み込む。
バゴォォォォンッ!!
俺が作り出した白の魔力に深紫の魔力がぶつかり、閃光と灰色の煙が辺り一面を覆いつくす。
風に流された煙の隙間から、こちらを見下ろすルシフェルの姿が見えた。
「……」
俺は、上空をギリギリと睨みつける。
ルシフェルは、右頬から首にかけて、赤黒い鱗のような皮膚が剥き出しとなっていた。飛膜の翼を羽ばたかせ、俺を挑発するように深紅の唇をニヤリと歪ませる。
ぶつかり合う互いの視線を遮るように、人型のケルビムが俺たちの間に割って入った。そして獅子・牛・鷲の半人半獣のケルビムたちとともに、半透明の青緑色の防御壁を作り出し、再びルシフェルを封じ込める。
その傍ら、スキンヘッドのケルビムが、チラリと俺のほうを見た。
分かっている……。
俺はわずかに頷く。
そのとき、階下へつながる階段から、能天使が息を切らしながら登ってきた。
「ご報告いたします! 狭間の緩衝地帯に地獄の軍勢が集結しております!」
「来たか……」
予期していたかのように、ガブリエルがボソリと言う。
地獄の支配者ルシファーが天界に捕らえられたと知れば、もう一人の支配者であるベルゼブブが、軍勢を率いてやってくるのは当然だ。
「わが君にもしものことがあれば、悪魔が死滅しようとも、天界を攻め続ける」
地獄で俺にそう言ったベルゼブブは、宣言通り、すべてをかけて主を取り戻そうとしているのだろう。
伝令の能天使は、ソワソワとしながら「もう一つご報告が……」と続ける。
「人間界にも、凄まじい数の悪魔が降りておりまして……」
「なんだと?」
振り向いたガブリエルの形相に驚いた能天使は、体をビクリと強張らせた。
上空でルシフェルを抑えこむケルビムたちの動向を見ながら、俺は静かに口を開く。
「戦力の分散を狙っているんだ。ベルゼブブは天界をよく理解している。人間界へ降りた悪魔たちが囮だと分かっていても、俺たちはそれを無視できない」
「くっ……」
ガブリエルは憎々し気に唇を噛んだ。
かたや俺は、不思議な感覚に陥っていた。これを何と説明してよいか、分からない。
俺の愛したルシフェルが消えてしまった哀惜と、そのルシフェルの面影を残した悪魔が暴れている嫌悪と、すべての原因を作り出した天界への怒り。
そんな負の感情が、俺の心を相変わらず支配していた。それにもかかわらず、頭の中は妙に冷めているのだ。
俺は、腕の中でぐったりしているラジエルを見下ろす。
どうして俺は……。
「本当に卑怯だな……ラジエル」
小声でつぶやいた俺は、ラジエルを抱き留める腕に力を込めた。
上空では、ルシフェルが力をためるように身を屈め、大きく広げた翼とともに黒く淀んだ魔力を一気に放出した。
その衝撃により、彼女を取り囲んでいた青緑色の防御壁が、ケルビムたちを巻き込みながら粉々に吹き飛んだ。
封じるものが消えたルシフェルは、両手を広げて天を仰ぎ見る。
彼女の頭上に生まれた黒みがかった深紫色の球体は、風船のように膨らみながら、闘技場全体をあっという間に覆いつくした。
途端に、天界の澄んだ空気が、纏わりつくような鬱屈としたものへと変化する。
次の瞬間、場内の中位天使たちが、叫び声をあげ始めた。絶叫する彼らは灰と化し、まるで弾けるように次々と砕け散る。
これは……!
「ラファエル!!」
突然の事態に茫然となっていたラファエルは、俺の声でわれに返った。地獄の瘴気から天使たちを守るために、守護魔法を闘技場の観客席に張り巡らせる。
「天界に地獄の結界を張るなんて……」
ウリエルが、忌々しそうに空を見上げた。
俺たちは、魔王ルシファーが作り出した結界により、地獄の疑似世界に閉じ込められてしまった……。