42-1:失望と希望の揺蕩い
*揺蕩い(たゆたい)=ゆらゆら動いて定まらないこと
ひときわ大きな体躯の人型のケルビムは、俺を置き去りにし、暴れ回る悪魔のもとへと羽ばたいていった。
去り際に残した彼の言葉が、地獄の門の上に座り込む俺の頭から離れない。
「選びな、最高位天使。神と同じ名の意味を持つ者、熾天使ミカエル。君は、この世界を滅ぼすのか? それとも救うのか?」
俺の答えは、すでに出ている。それにもかかわらず、あいつはあえて「選べ」と言った。
その意味を考えようした途端、刺すような胸の痛みに襲われる。
ズキンズキンと脈打つ苦痛に、堪らず俺は胸ぐらを掴んだ。
一度結びついた地獄とのつながりは、ケルビムに断ち切られても簡単には消えないらしい。「ナニモ、カンガエルナ」とささやく声に、俺の思考が再び奪われていく。
そうして空っぽになった俺は、ケルビムが向かった空をただぼんやりと眺めていた。
獅子・牛・鷲の半人半獣のケルビムたちに人型のケルビムが加わり、六枚の飛膜の翼を広げた悪魔へ一斉に斬りかかる。
漆黒の長い髪をゆらりとなびかせながら、悪魔はケルビムたちの攻撃を軽々とかわしていく。その最中、崩れかけた片翼のモニュメントのほうをチラリと見下ろした。
赤眼を細めた悪魔は、まるで獲物を見つけたかのように、真っ赤な唇をニヤリと歪ませる。
獅子のケルビムが鋭い爪を立て、悪魔の斜め上から迫った。悪魔はそれをスルリと避けるが、獅子の背後から、剣を構えた人型のケルビムが突進してくる。
悪魔は黒光りする剣を素早く召喚すると、ケルビムの剣をギリギリのところで受け止めた。その間に、牛と鷲のケルビムが新たな防御壁を作り、悪魔を閉じ込めようとする。
人型のケルビムの剣を勢いよく弾き飛ばした悪魔は、体をいったん縮めると四肢を大きく広げ、周囲に魔力を放出した。
かわす間もなく、薄紫の衝撃波をまともに喰らった四体のケルビムは散りぢりに吹き飛ばされる。
周囲に誰もいなくなった悪魔は、この機を逃すまいと弓を引く動作をした。
黒く光る弓の中心に、深紫の矢が作り出される。悪魔はそれを、下に向かって勢いよく放った。
魔力を帯びた矢は、片翼のモニュメントの前で茫然と空を見上げるガブリエルに向かって、真っすぐ飛んでいく。
「兄様、危ないっ」
その場を動かないガブリエルのもとへ、ラファエルが素早く移動した。
悪魔から放たれた矢がガブリエルに当たる寸前で、彼女は淡い紅色の盾を作り出す。
バゴォォォォン!!
ラファエルの盾に衝突した矢は、灰色の爆煙とともに消え去る。だが上空の悪魔は、彼女の盾に向かって、次々と魔力の矢を放った。
「くっ……」
続けざまに降り注ぐ悪魔の矢に耐えきれず、ラファエルの盾は鏡が割れるように粉々に砕け散る。
煙に巻かれ周囲が見えない無防備のラファエルを狙い、悪魔が最後の矢を放った。
「ラファエル!!」
そう叫ぶウリエルが、ラファエルとガブリエルを押し退ける。彼らが消えた空間に飛び込んできた魔力の矢を、ウリエルの紅蓮の剣が受け止めた。そして、その矢を後ろへと弾き飛ばす。
矢は深紫の楕円の塊へ変化し、天界の象徴だった崩れかけのモニュメントに激しくぶつかった。
魔力の塊に貫かれた片翼のモニュメントは、ガラガラと音を立てながら倒壊し、闘技場内は悲鳴と怒号に包まれる。
それをひとごとのように眺めていた俺は、上空にいるケルビムの叫び声を聞く。
「ミカエル君! 避けろ!!」
声のするほうを見ると、鎌のような五本の刃が、俺に狙いを定めて向かってきていた。上空では、右手を振り上げたまま、醜く笑う悪魔の姿が目に入る。
地獄の門に記憶の一部を奪われた俺は、あの悪魔の名を思い出せない。ただ、彼女の手でこの身が滅びると自覚した途端、不思議な安堵感を覚えた。
きっとこれが俺の本望なのだろう、そう思った瞬間だった。
「ミカエル様!!」
黒い影が叫びながら、俺の視界を遮る。
目の前に立つ藍色の長髪の天使が、淡い水色の防御壁を作り出した。だが悪魔の放った五本の刃は、いとも簡単にそれを砕き、彼の右肩を切り裂いた。
「うわぁぁぁっぁぁっ!!」
絶叫とともに、その天使の千切れた右腕が俺の横をすり抜ける。
飛び散った彼の鮮血が、吹き付ける雨のようにバシャリと俺に降りかかった。目の前で崩れ落ちる天使の体を、反射的に抱き留める。
彼の体の重みが、血なまぐさい臭いが、地獄の闇に捕らわれていた俺を一気に覚醒させた――
「ラジ……エル?」
鮮明になった目の前の光景に、俺の理解が追い付かない。
「おまえ……何で……」
ラジエルから流れ出るドロリとした血の生暖かさが、俺の手や腕に伝わってきた。
彼は俺に抱き留められたまま、苦し気な表情で微笑む。
「やっと……お目覚め……ですか? ミカエル様」
「俺……は……」
「あなたの願いを……邪魔立てし……申し訳……ございま……せん」
苦痛で呻くラジエルに向かって、言葉が出ない俺は何度も頭を横に振った。
何をやっているんだ、俺は……。
常にこの身を案じていたラジエルが、地獄へ堕ちる俺を黙って見ているわけがない。
己を犠牲にしてでも、それを阻止する。考える必要なんてない。それがラジエルという天使であることを、俺はよく知っていたはずなのに……。
片腕を失った彼の体には、斜めに刻まれた四本の深い傷があった。そこからドクドクと、濃い赤の血液が漏れて出てくる。
押し寄せる後悔に顔が歪む俺を見て、ラジエルは傷の痛みとは異なる苦悶の表情を浮かべつつ、口元だけをほころばせた。
「サキュバスは……滅びてしまいました……。ですが……いつかまた復活いたしましょう……。そのとき……今のルファを見たら……ひどく……驚く……でしょうね……」
いたずらっぽく笑うサキュバスの顔を思い出し、堪えきれずに涙が溢れ出す。
そう、分かっている。天使と悪魔は不死なる存在。たとえ滅びたとしても、新たな肉体を得て、あいつは必ず蘇る。
それでも、あんな惨い滅ぼし方を強いた天界の罪は、永遠に消えることはない。そして、その罪の一端を背負わせたラジエルのことを思うと、俺は自分を許せなくなる。
「もうしゃべるな……。腕だけじゃなく、おまえの体も深手を負っているんだ……」
しかし俺の制止を聞き入れることなく、ラジエルは悔しそうな表情で続けた。
「あなたに……託されていた……にもかかわらず……ハル……を……守れず……お詫びの……しようも……ござ……いません……」
「もういい……。もういい……から……」
薄桃色に頬を染め、ニコリと笑う栗色の髪のハルをまざまざと思い出し、俺の顔がさらに歪んだ。止めどなく流れ落ちる俺の涙が、ラジエルの薄藍色の祭服を濡らしていく。
ラジエルは残った左手で、俺の腕を力強く掴んだ。
「ハルは……優しい……子……です……。絶望を……選んでしまった……彼女は……それが……きっかけで……世界が滅びた……と知ったら……どう……思うの……でしょうか……」
「それ……は……」
俺は言葉が続かない。
純粋で朗らかで、慈愛に満ちたハルは、まるで幼い頃のルシフェルのようだった。
そんな彼女に死を選ばせたのは、俺たちだ。だからといって、あの子は世界が滅ぶことを望んではいないだろう……。
傷の痛みで時折呻き声をもらすラジエルは、済まなそうに笑う。
「申し訳……ござ……いま……せん。私は……卑怯……です……。あなたに……つらい……選択……ばかりを……望み……」
「ラジエル……」
「それでも……私は……見たい……のです。あなたの……おそばで……あなたが……創る……未来を……」
「俺が創る……未来?」
予想外の言葉に驚く俺を、青白い顔のラジエルが強いまなざしで見つめていた……。