41-4:覚醒
地獄の門は、神に仇をなした天使を地獄へ引きずり込む。
神は、なぜこの門を創ったのだろうか?
従順であるはずの天使が、いつの日にか裏切ると予知していたのか?
それとも神は、最初から俺たちを信頼していなかった?
今にして思えば、天界にとって異質な門が存在する意味を、俺たちは考えようともしなかった。
そしてルシフェルが謀反を起こした『あの時』、ベルゼブブがサタンの魔力を帯びた火種を天界の旧下層へ放ったことで、地獄の門は天使を壊す入り口へと変わる。
今では旧下層を『地獄の業火』と呼び、天界から堕ちる天使は、そこを通り抜けることとなった。
その凄まじい炎の中では、天使は意識のあるまま焼かれ、耐えがたい苦痛で気が狂うらしい。
闇に取り憑かれた俺は、この身を業火に投げ捨てることを渇望していた。
だが、突如現れたケルビムにより、その願いは断たれてしまう。
光り輝く青緑色の剣身を、ケルビムは俺の首筋にピタリと添え当てる。彼の周りからは、白い煙がシューシューと立ち上っていた。
俺は、視線だけをケルビムの足元へ下ろす。
床に広がっていた地獄の門は、彼の力でふたがされたのだろう。外界へ出られない青白い手が、白い煙を上げながら溶けて消えるを幾度も繰り返していた。
ケルビムのやるせなさそうな声が、床に座り込む俺の頭上から降ってくる。
「悪いな、ミカエル君。君を地獄へ渡すわけにはいかないもんでね」
そこへ、非難めいたガブリエルの声が聞こえてきた。
「ケルビム! おまえ、神の守護はどうしたのだ!?」
彼の『神』という言葉に、俺はビクリとなって顔を上げる。見ると、スキンヘッドのケルビムは、さも嫌そうに舌打ちをした。
「てめぇ……この状況が分かってんのか? あれを何とかしねぇと、神の守護どころじゃねぇだろうがよ」
そう言うと、ケルビムは俺と目を合わせたまま、斜め上に顎をしゃくる。
彼の肩越しに見えたのは、六枚の飛膜の翼を羽ばたかせた悪魔と、そいつを三方から取り囲む獅子・牛・鷲の半人半獣のケルビムたちの姿だった。
アレハ……ナンダ?
よく知っていたはずなのに、上空にいる悪魔が何者なのか、今の俺には分からない。
思い出そうとすると、青白い手にわし掴みされた俺の核がズキンと痛んだ。
ケルビムによって断ち切られたはずの俺と地獄のつながりは、いまだに残っているらしい。耳元で中性的な声が聞こえてくる。
「モウ、ナニモ、カンガエナクテイイ」
その言葉が、俺の意思とは無関係に思考を奪っていく。
夢と現の狭間の中で、俺はぼんやりと空を眺めていた。
空にいる漆黒の長い髪の悪魔は、こちらを見下ろすとニヤリと笑う。そしてその首に着けられた光の輪を、人差し指でなぞるしぐさをした。
「おのれ……」
空を見上げているガブリエルの苛立つ声がする。
それに満足したのか、悪魔は真っ赤な唇を嬉しそうに歪めたまま、首輪を片手で握りしめた。
ギギギと耳障りな音がしたのち、パキンと甲高い音が鳴り、首輪はいとも簡単に砕け散る。
スキンヘッドのケルビムは、俺を見ながら独り言のようにつぶやいた。
「ミカエルもルシフェルも、無意識に力を抑制するよう育てられているんだ。箍が外れちまったら、あんなもんで魔力を抑えられるわけねぇだろ……」
空を羽ばたく悪魔は、手のひらを上に向けると、そこに深紫色の魔力の塊を作り始める。
俺と向かい合うケルビムの眉がピクリと動いた。それと同時に、悪魔を取り囲む三体の半人半獣のケルビムたちが、一斉に動き出す。
悪魔は六枚の飛膜の翼を大きく広げると、深紅の魔力を押し込むようにこちらに向かって投げつけた。
だが三体のケルビムたちが、半透明の青緑色の防御壁を素早く作り、放り投げられた魔力の塊とともに悪魔をその中に閉じ込める。
悪魔が解き放った魔力は、ケルビムたちの防御壁にぶつかると、バウゥゥゥンとくぐもった音を闘技場内に響かせ、強い閃光とともに消失した。
周囲にいる天使たちから、恐怖と動揺が入り混じった騒めきが起こる。
「なぜだ……なぜ突然……」
言葉が途切れたガブリエルの疑問に、俺の首筋に剣を当てたままのケルビムが答えた。
「覚醒しちまったんだよ。真のルシファーに、な」
ヤメロ……キキタクナイ……。
胸を掻きむしりたくなるような拒絶反応が、俺の中に生まれる。
それと呼応するように、固い物が当たるピシッピシッという音が、下のほうから何度も聞こえてきた。加えて、俺の周りでは、蒸気が噴き出るように大量の白煙が上り始める。
俺を見つめるケルビムの視線が、下へと移動した。それに釣られ、首筋に剣を当てがわれた俺も、視線を下げる。
ケルビムの力により地獄の門から消失した青白い手が、門の入口を埋め尽くすほどに溢れ返っていた。
ケルビムが作り出した結界に触れて消える前に、地獄の闇から新たな手が生まれ出る。
消えては生まれるを激しく繰り返し、氷の塊が窓にぶつかるように、青白い手の指先が次々と結界に当たるため、ピシピシと音が鳴っていたのだ。
それを見たケルビムの表情が、一段と険しくなる。そして右足を真っすぐ振り上げると、それを勢いよく下ろした。
ドン!
腹に響くような低重音とともに、地獄の門に張り付いていた無数の青白い手が一掃される。あとには、ポッカリと口を開けた暗闇だけが残っていた。
「ミカエル君は、どうしても堕ちたいようだな」
そう言うのと同時に、ケルビムの背後から爆音とともに閃光が再び走る。
上空では、六枚の飛膜の翼を持つ悪魔が半人半獣のケルビムたちの結界を破ろうと、再度魔力の塊をぶつけたらしい。
「ケルビム!!」
悲鳴に近いガブリエルの声。ケルビムがまた舌打ちをする。
「ったく……。少しは自覚しろよ。この事態を引き起こしたのは、誰かってことをよ」
「まさか……ハルのこと?」
俺の横から、気まずそうなウリエルの声が聞こえた。
ケルビムは、俺から目を離すことなく答える。
「あのヒトの子は、ルシフェルを留めていた唯一の存在だった。それをおまえたちが、こんなところで壊しちまった」
「……」
俺はわずかに目を見開いた。
虫が這いずり回るように、体中がざわつく。だがなぜ、こんなに気持ちが落ち着かないのか、俺にはもう見当もつかない。
ウリエルが再び尋ねた。
「ルシフェル、だって?」
ケルビムは少し間を置き、ため息をつく。
「あいつはな……地獄へ堕ちて悪魔になっちまったが、天使の心は完全には消えなかった」
「え……」
驚くウリエルと共鳴するように、周囲も再び騒めいた。
俺を見つめるケルビムの顔がわずかに曇る。
「だが、地獄の瘴気に侵され、天使の心は消えるはずだった。なのに、あの子が生まれちまった。ルシフェルの手によって」
俺はその子を知っていた。
もうハッキリとは姿が思い出せない少女の残像に、泣きたくなるほど胸が締め付けられる。
ケルビムはさらに続けた。
「ルシフェルが何をどうしたのかは、俺も知らねぇ。だけどあの子の誕生とともに、消失するはずだった天使の心も、あいつの中で復活しちまった」
「……」
言葉を失ったガブリエルが、青ざめた表情でこちらを振り返る。
ケルビムの眉間のしわが、一層深くなった。
「それが偶然なのかは分からねぇ。ただ確実に言えるのは、天使の心の復活はあの子とともにあったってことだけだ。そしてそれは、一時的な……つかの間の出来事になるはずだった」
「ヒトの子の命が尽きる間……」
ポツリと言うラファエルに、ケルビムが頷く。
「そう。だが何も知らないおまえたちは、『天界』を理由にしてすべてを壊した。その代償がコレだ」
バウゥゥン!
上空から、またしても閃光と爆音が轟いた。しかし誰一人、凍りついたかのように動く者はいない。
ケルビムは大きく息を吐き出すと、苦悶の表情で俺を見た。
「ミカエル君、俺は君の堕天を阻止しに来た。地獄の門を封じたまま君を滅ぼせば、サタンは君を手に入れられない。だが君の肉体が天界で復活しても、堕天を望む君の心はきっと変わらないだろう。だから俺は、再び君を滅ぼす。永遠に繰り返される誕と滅。それが、俺に与えられた新たな任務だ」
「……」
ケルビムの言葉は、空虚な俺には響かない。自分が消えるのであれば、もはや何でも構わなかった。
そんな俺の心を見透かすように、ケルビムが寂しげに笑う。
「まぁ……今の君にとって、どう転ぼうが同じなんだろうな。それも仕方がない。それほどまでに、俺たちは君を追い詰めてしまった」
「……」
「君が滅びようと堕ちようと、世界の均衡が崩壊するのは時間の問題だ。ルシファーと対等に戦えるのは、双子の弟であるミカエル君しかいないから。そして均衡が崩れれば、君の望み通り、神はこの世界を滅ぼすだろう」
「なん……だと?」
ガブリエルの掠れた声がした。闘技場内も、漠然とした恐怖に包まれていく。
ケルビムはそれらを無視し、俺の首筋に当てていた剣を離すと、床に広がる地獄の門へと突き刺した。
ガンッ
ケルビムの剣が刺し込まれた床には、亀裂が縦にピシッと入る。
「選びな、最高位天使。神と同じ名の意味を持つ者、熾天使ミカエル。君は、この世界を滅ぼすのか? それとも救うのか?」
そのとき、ケルビムの背後で何度目かの爆発音が響いた。
上空で防御壁を作っていた半人半獣のケルビムたちが、爆風により散りぢりに吹き飛ばされるのが見える。その衝撃波は壇上にまで達し、俺たちの体を激しく揺さぶった。
「ちっ……。やっぱり、三体じゃ抑えきれねぇか」
苛立った表情を見せたスキンヘッドのケルビムは、床に突き刺した剣を素早く引き抜く。そして俺をこの場に残し、背丈ほどある大きな白い翼を広げ、上空へと飛び立っていった。