41-3:覚醒
ルシフェルの口の端から、金色の液体が滴り落ちる。ハンネスの魂をむさぼり喰う彼女は、まるで仕留めた獲物を喰らう獣のようだった。
闘技場の壇上からその惨状を見た俺は、背から六枚の翼が消え、床にへたり込む。
場内の天使たちも、胸の中心がえぐられたハンネスの無残な姿を、時が止まったかのように見ているだけだった。
ハンネスの魂に噛り付くルシフェルの側頭部から、黒く鋭い角が二本生えてくる。
それだけではなく、金色に輝く魂を喰えば喰うほど、彼女の色白で美しい顔には黒く細い線が亀裂のように刻まれていった。そして陶器の仮面がひび割れるように、細かく亀裂が入ったルシフェルの顔の表面が、ポロポロと崩れ始める。彼女の白い肌が消えた部分からは、赤黒い鱗のような皮膚が剥き出しとなった。
俺の目の前で、ルシフェルの……、いや、魔王ルシファー本来の姿が徐々に露わになっていく。
それに呼応するように、俺の中で抑え込んでいた黒の油塊が、脈打つように膨れ上がった。
サキュバスは、ルシファー付きの悪魔というだけで、見せしめのために処刑台に立たされた。
ラジエルは、そんなサキュバスを苦しみから解放するために、彼の首を自らの手で切り落とした。
ハルは、ルシフェルと俺に裏切られたと絶望し、その命を絶つことを自ら選んだ。
ハンネスは、愛する家族のために天界の座位を捨て、世界に混沌をもたらすかもしれない幼い命を壊した。
信じがたいことに、これらはすべては、天界という神の御許でつい先ほど起こった出来事だ。
だが、それだけではない。
憧れていた長姉の謀反に加え、その容姿が似ているために、己を介して見えるルシフェルの罪に苛まれ続けるラファエル。
過去の呪縛に囚われている長兄がこれ以上壊れないようにと、俺を欺くしかなかったウリエル。
歪んでしまった天使たちと天界のために、高潔を手放し己を汚すことを選択したガブリエル。
そして……、敬愛していた神を、慈しんでいた弟妹たちを、愛し合っていた俺を、裏切り捨てたルシフェル。
神はなぜ、天界の頂でこの状況を傍観していられる?
上層の地下室で聞いたケルビムの言葉が、俺の中で蘇る。
「神が最も恐れているのは、神の手に負えないほど世界の均衡が崩れることだ」
世界の均衡が崩れれば、神は『前任者』というやつと同じ選択をするらしい。
ケルビムが言うには、それは『世界を無に還す』ことだそうだ。
この世界が消えるのを恐れているにもかかわらず、神は自らの手を下さない。
それは、『前任者』が旧世界に介入し過ぎたせいで、すべてを消去する選択をせざる得なくなった過去があるからだと、ケルビムは言っていた。
だから神の代わりに、俺たちは犠牲を強いられているのか?
目の前で滅ぶ友を、幼き命を、道を外そうとする者を救うこともできず、天使たち自身も救われない世界。
ケルビムはこうも言っていた。この世界を創った神も、自らを犠牲にしていると。
俺には分からない……。犠牲の上でしか成り立たない世界は、本当に必要……なのか?
俺の中で、何かがプツリと切れた。
その瞬間、座り込んでいた床に、小さな黒いシミのようなものが現れる。シミは、あっという間に円形に広がり、俺を取り囲んだ。
それは闇の世界への入り口。地獄の門が開いた瞬間……だった。
「!!」
俺の傍にいたガブリエルは、地獄の門の出現に驚き、身をよじってその場からすぐに離れる。
地獄の門の真上に座る俺は、虚ろな目で暗黒の深淵を見下ろした。
ここに堕ちさえすれば……。
微笑みながら堕ちていった、『あの時』のルシフェルを思い出す。
そう。『あの時』のように、ここへ堕ちればすべてが終わる。世界は無に還るのだ。
ラファエルに支えられながら起き上がったウリエルは、俺の異変にすぐさま気付く。反射的にラファエルを横へ押し退けると、紅蓮の剣を構えた。
それを視界の端でとらえた俺は、ウリエルのほうへと顔を傾ける。
苦悶の表情を浮かべた彼は、構えた剣を俺へ向けていた。
「うそでしょ? ミー君……そんなの嫌だよ……」
自分に向けられたウリエルの悲痛が、ひとごとのようにしか思えない。俺の感情は、すでにまひしていた。
俺を囲む暗黒の空間から、青白い腕が音もなく二本スルリと伸びてくる。その腕は、俺の首に抱きつくように回り込んだ。冷やりとした感触。不思議と不快な気持ちはなかった。
巻き付く腕の冷たさとともに、俺の意識が鈍くなっていく。
俺はウリエルから、闘技場の中心にある白い舞台へと視線を移した。
ポツリと置かれたハルの亡骸が包まれた白い繭は、時間の経過とともに鮮血のまだら模様が黒い朱色へと変わっている。
繭の横に立つルシフェルは、ハンネスの魂を喰いつくし、満足そうな顔で手にべっとりついた金色の液体を舌なめずりしていた。
顔の一部が赤黒い鱗の皮膚に変わった彼女は、まだら模様の繭が何であるか、もう覚えてはいないだろう。
アレは、もはやルシフェルではない。己の欲望しか持ち合わせていない、ただの醜悪な悪魔だった。
こうしている間にも、地獄の門から無数の青白い腕が伸びてきては、俺の体に纏わりついていた。そのたびに、俺の何かが失われていく。
さっきまでの悲嘆や怒り、悔しさがごちゃ混ぜになった感情は消え、今は、どうしようもない虚しさと失望だけが俺の中に取り残されていた。
「いら……ない……」
俺の口から言葉が漏れる。
「ミー君……ダメだよ……」
ウリエルの震える声が、かすかに聞こえた。だが俺は、溢れる感情を止められない。
もうどうでもいい。先のことなんて考えたくもない。このまま、闇に埋もれて消え去りたい。だから早く、誰かこの身を切り裂いてくれ……。そんなことで頭がいっぱいだった。
自分の中から沸き上がる言葉を、俺はそのまま吐き出す。
「こんな世界いらない……。犠牲を強いられるだけの世界なんて、消えてしまえばいい……」
俺の言葉を待っていたかのように、地獄の門から一本の青白い手が、勢いよく飛び出した。
その手は俺の胸を突き破り、体内にある核をわし掴みにする。
刺すような鋭い痛みが全身に走り、俺は思わず息を止めた。そのとき、歪んだ笑顔をこちらに向ける漆黒色の長髪の男が、陽炎のように見えた気がする。
あの顔……どこかで……。
しかし、俺の核を握りしめる青白い手が、体の感覚とともに記憶の一部と思考を奪い、俺の意識が薄らいでいく。
「ミー君!!」
くぐもって聞こえるウリエルの叫び声は、意識が遠のく俺を現実へと引き戻す。
だがそれに対抗するように、俺の体に纏わりつく青白い手が地獄の深淵へ誘おうと、俺の思考を鈍らせる。俺はその誘惑に逆らうことなく、闇に身を委ねるようとした。
そのとき、頭上から舞い降りてきた白い影が、俺の体に絡みつく青白い腕すべてを切り裂く。
「ケルビム!?」
ガブリエルの驚く声が聞こえた。
凍りかけた核が、再び息を吹き返す。それと同時に、俺の体は本能的に、空気を目一杯取り込んだ。大量に入ってくる空気にむせて、俺は床に両手をついて激しくせき込む。
呼吸が落ち着いた俺は、闇から連れ戻された失望感を抱えながら、ゆっくりと顔を上げた。
俺の目の前には、白の法衣を身に纏ったスキンヘッドの智天使ケルビムが、険しい表情で立っている。
彼は、手にしていた鮮やかな青緑色の剣を俺の首筋にピタリと当て、悔しそうに口を開いた。
「やっぱり……こうなっちまったか……」