04-2:赤い屋根の家
ハルの名を呼ぶ女の声がして、俺たちはそちらを見る。
赤い屋根の家の脇には、目のやり場に困るほど胸元が露わになった黒のロングドレスを身にまとった女が、驚いた顔をして立っていた。
「一体どこへ行っていたの? 急にいなくなっちゃうんだもん。とっても心配したのよ!」
そう言って駆け寄ってきた女は、俺からハルを引き剥がすように彼女を抱き寄せた。女の長い亜麻色の髪がサラリと揺れる。
腰の細いその女は、『妖艶』という言葉がしっくりくるほどに異性を惹きつける美しさがあった。しかし、その妖艶さが薄らぐほどに目を引くのは、身長183cmのラジエルと同じくらいの背の高さ。
女に抱きしめられたハルは、事情を説明しようと顔を上げた。
「ごめんなさい。あのね、実はね……」
しかし女は、正面に立つ俺の顔を見つめながら、ハルの言葉に被せるよう口を開く。
「ハルちゃん、こちらはお客様?」
「あ、うん。この人はね……」
ハルが俺たちの素性を明かさないよう、俺も彼女の言葉を遮った。
「突然の訪問で申し訳ありません。えーっと、ルファさん……はいらっしゃいますか?」
俺の言葉に、女は首を傾げて微笑んだ。その瞬間、周囲の空気がぐらりと揺れる。
「薬をご所望ですか?」
ただその一言にもかかわらず、女の言葉は俺の鼓膜を通り抜け、脳内を侵食する。甘美な香りが漂い、俺の意識は徐々に薄れていった。
「え? いや、そう……では……な……く……」
体中の力が抜けていく中で、俺は女の問いに何とか答える。
なんだ、これ? それにこの人……こんなに背が低かった……か?
俺は、いつの間にか目の前にいる女を見下ろしていた。
「あら? では、私をご所望?」
ニヤリと笑った女の髪は、気がつくと亜麻色から黒色になっていた。いや、最初から黒だった……? 髪の長さも胸の辺りで……それに、この顔……。
ルシ……フェル?
「いいのよ。あなたが望むままに……」
俺の顎にそっと手が添えられ、ルシフェルの顔が俺に近づいてくる。
俺は睡魔に襲われるように思考が鈍くなり、ただ彼女に導かれるように唇を近づけた。
「ミカエル様っ!!」
唇が触れる寸前で、ラジエルが俺の腕をぐいっと後ろへ引く。そして、すぐさま俺の前に身を挺するように割り込んだ。
「ラジエル……、俺は……一体?」
俺は、夢から覚めたような体のだるさと激しい眩暈に襲われた。その場に立っていられなくなり、地面に膝を突く。油断をすると意識が飛びそうだった。
俺の様子を見たラジエルは、女を睨みつけながら怒鳴る。
「おのれ! 夢魔めがっ!!」
次の瞬間、ラジエルの背から純白の大きな翼が現れた。そして、腰に下げていた剣を引き抜き、女に向けて剣先を突き付ける。
女はニヤリと笑うと、ラジエルに呼応するように黒い飛膜の翼を広げた。ハルを片手で抱えた女は、ラジエルと距離を置くように後ろへと飛ぶ。
「ラジエルさん、やめて! これはきっと間違いなのよ!」
ハルは女の黒いドレスにしがみつき、慌てたように叫んだ。
しかし、ラジエルはハルの言葉を無視し、目の前の女をけん制するように剣を構え続ける。
妖艶な笑顔を崩さない女は、ラジエルを見つめたまま手を前へと突き出した。すると、何もない空間から銀色の剣身が妖しく光るレイピアが出現する。
「『サキュバス』って呼んで欲しいわぁ。でも、残念。この世で最も高貴な天使様の精気を吸い損ねるなんて」
そう言いながらサキュバスは、ラジエルに向かってレイピアの剣先を突き付けた。
「下級悪魔ごときが熾天使を愚弄するか……」
低くうなるラジエル。その物言いは静かだが、眼光は怒りに満ちていた。
「ラジ……やめ……ろ」
地面に片手をついてなんとか体を支えている俺の声は弱々しかった。怒りに支配されているラジエルには俺の声も届いていない。
いつもは沈着冷静なラジエル。そんな彼が、サキュバスの安い挑発でいとも簡単に冷静さを失うなんて……俺にとっては珍しい光景だった。
ラジエルの怒りを面白がるようにクスクスと笑うサキュバスは、彼をさらに煽る。
「あなた様もお気をつけになったほうがよろしいのではぁ? 下級悪魔ごときに、簡単に翻弄されてしまう熾天使様の下に就いたら、さぞご苦労も絶えないことでしょうしねぇ」
「貴様っ!!」
ラジエルは怒りに任せ、疾風のような速さでサキュバスの間合いに入って行く。それを見たサキュバスは舌なめずりをし、獲物を得た猛獣のようにラジエルへと突進した。
「やめてぇぇぇぇぇっ!」
ハルの声がむなしく辺りに響き渡る。
二人の剣と剣がぶつかり合う刹那、猛スピードで何かが地面へと突き刺さった。その衝撃で、ラジエルとサキュバスの近くの土が舞い上がる。次の瞬間、バンっと大きな音とともに何かが弾た。それと同時に、黒い膜が衝撃波となって四方へと広がる。
衝撃波をまともに食らったラジエルとサキュバスは、両反対側に吹き飛ばされ地面へと叩きつけられた。
衝撃波が通り抜けたあとも、俺たちの周りはモノトーンのような暗さと纏わりつく鬱屈とした空気に支配され続ける。
「ラジエル!」
どす黒い膜のような空気の中を、俺は重い体を引きずりながら、ラジエルのそばまでなんとか辿り着く。
ラジエルはすぐさま体を起こし、頭を左右にブンブンと大きく振った。
「一体、何が……?」
ラジエルからは怒りが消え去り、何が起こったのか分からないといった困惑した表情をする。
「サキュバスさんっ!」
俺たちとは反対側でハルの声が聞こえたので、俺はそちらに目を向けた。倒れたサキュバスに駆け寄るハルの無事な姿に、俺はほっと胸をなでおろす。
ハルに抱えながら起き上がったサキュバスは、黒のロングドレスについた草やゴミをバンバンと両手で払い、空を見上げた。
「いきなりは、ひどいんじゃないかなぁ?」
空に向かい抗議をするサキュバスに釣られて、俺たちも上を見る。
青い空からモノトーンへと変わったそこには、六枚の黒い飛膜の翼を羽ばたかせ、下界にいる俺たちを冷たい視線で射抜くルシフェルの姿があった。
昨日、放牧地で会ったときと同じ鈍色のローブ姿のルシフェルは、俺たちとサキュバスたちの間に、飛膜の翼を羽ばたかせてゆっくりと降りてくる。
ルシフェルがふわりと地面へ降り立つと、彼女の背に生えた翼は音もなく消えてしまう。それと同時に、黒い膜のような空気もなくなり、森の木漏れ日と冷やりとした空気が再び周囲を満たし始めた。
ルシフェルは俺とラジエルを一瞥したあと、彼女に対し「いきなりはひどい」と抗議をしたサキュバスを見た。
「手癖の悪い従者を躾けるのは、主の務めだと思うのだけれど?」
冷たい口調のルシフェルに、サキュバスは頬を膨らませる。
「夢魔の性癖なんだから、仕方がないでしょぉ?」
「……」
ルシフェルは眉間にしわを寄せたまま、首を傾げて肩をすくめた。そして、ハルのもとへとゆっくり近づくと、彼女をぎゅっと抱き寄せる。
「ハル、心配したのよ……。急にいなくなるから」
「ごめんなさい、ルファ。私……何とかしようと思って……。でも……こんなことになるなんて」
抱きしめられたルシフェルの腕の間から、ハルは顔を上げた。彼女の頬に涙が伝う。
ルシフェルはハルの涙を親指でそっと拭うと、頭を左右に振った。
「ハルのせいじゃないわ。どちらかというと、これはサキュバスのせいなのだから」
もう一度ハルを強く抱きしめたルシフェルは、彼女に見られないようにサキュバスを睨みつけた。
ルシフェルの非難めいた視線に、サキュバスはばつが悪そうな顔をする。
「ごっごめんね、ハルちゃん……。ついね、つい」
俺は現実を突きつけられているように、目の前の光景を見ていた。
愚かにも俺は、ルシフェルの背にはいまだに純白の翼が生えていると、どこかで思っていたのだ。だが、彼女の背に生えていたのは、紛れもなく悪魔の翼だった。
俺とルシフェルの間には、見えない境界線が引かれている。認めたくはないが、それが現実だった。
やはり……俺の知っているルシフェルは、もういないのか……。
突き付けられた現実に、鉛のように重くなった俺の体は、今にも地下深くに沈んでしまいそうだった。




