40-3:絶望の果て
ハルが眠る白い繭を見つめたハンネスが、両手で握りしめた短槍を大きく振り上げる。
やめろっっ
俺がそう叫ぶ前に、ルシフェルの声が闘技場内に大きく響き渡った。
「動くなぁぁぁぁっ!!」
光の首輪で力を封じられているはずのルシフェルの言葉が、ハンネスを縛り付ける。
短槍を振り上げたまま、彼は目だけをギョロリとルシフェルのほうへ動かした。
ルシフェルもまた、突き刺すように彼を見る。
「おまえの顔は覚えている、ハンネス・タネリ。パストラルの宿の主。妻の名はニーナ。息子の名はアーロン。ラグナスの町で同じく宿屋を営んでいる。その妻はアンナ。長女はシェリー。半年前に長男ブライアンが生まれた。そしておまえの娘クラリッサは、奉公先の屋敷で、コーディという庭師と一年前に結婚。知っている? その娘の腹には子がいる。本人はまだ気づいていないようだけれど」
先ほどまでのルシフェルとは違う、威圧的で低く重い声色。
振り上げていたハンネスの短槍が、小刻みに震え始めた。
「なんで……あんた……そんなこと知っているんだ?」
しかしルシフェルは、彼の問いを無視して続ける。
「そんなことはどうでもいい。そこに横たわるものを、少しでも傷つければ、おまえの一族を皆殺しにする。一族だけでは済まされない。おまえにかかわったもの、おまえの目に映っていたもの、そのすべてを生きたまま喰い殺してやる」
ルシフェルから滲み出る異様な殺意に圧されたのか、目を見開いたハンネスは白の繭からゆっくり下がると、ブルブルと手を震わせながら短槍を下ろした。
恐怖と緊張のせいか、彼の額からは汗が噴き出ている。
ルシフェルの豹変を見た俺は、あいつと人間界で話し合ったときのことを思い出す。
俺は地獄からハルを守るために、彼女を天界へ引き渡すよう、ルシフェルに迫った。そのときあいつは、感情を剥き出しにしてそれを拒否した。
ハルが、天界と地獄の勢力を揺るがす存在であるからではない。それ以前に、ルシフェルにとって彼女は『特別』なのだ。
わずかではあるが、ハルとともに過ごした俺にも、ルシフェルの気持ちが分かるような気がする。
ハルのひたむきで真っすぐな愛情は、天使以上に相手を包み込む力を持っていた。それでいてガラス細工のように繊細で脆く、何をおいても守らなければならないと思わせる。
そんなハルの命が、今目の前で奪われようとしていた。
天使たちがいるこの場でハンネスを脅せば、彼女はやはり魔王ルシファーの愛し子であったと認めたことになる。
しかし今のルシフェルには、それを気にする余裕すらなかった。
この世界に、存在しているだけでいい。
俺がルシフェルに対して抱く感情と同じように、あいつもまた、ハルに対しそう思っているのだろう。
ルシフェルの脅しに、ハンネスが震える声で反論する。
「あっあんたに、俺の家族を殺せるはずがない。あんたは力を失って、天界に永遠と閉じ込められる。そっ……そうだろ?」
最後は同意を求めるように、壇上の俺たちのほうを見上げた。
それを受けて、ガブリエルが冷ややかな笑みを浮かべながら頷く。
「その通り。そこにいる悪魔は、力の源である両翼を切り落とされ、天界で囚われの身となる」
その言葉で安心した顔つきになったハンネスは、ルシフェルを睨みつけた。
「元はと言えば、あんたがすべて悪いんじゃないか! あんたが天界を裏切らなきゃ、この子はあんたに会うことはなかった。あんたがおかしなことをしなければ、この子は普通の人生を歩んでいたはずだろ!?」
「……」
まるで急所を突かれたかのように表情が凍りついたルシフェルは、そのまま言葉を失う。
自信を取り戻したハンネスは、短槍の柄を握り直すと、床に横たわる白い繭へ顔を向けた。
座天使に両腕を拘束された俺は、壇上から叫ぶ。
「やめろっハンネス! あなたの魂が汚れることを、ニーナは望んではいない! あなたなら、それが分かるだろう?」
俺の言葉に驚いたハンネスは、体をビクリと跳ね上げ再びこちらを見た。
このままではハルの命だけではなく、ハンネスの魂も取り返しのつかないことになる。俺は一度息を吐き出すと、努めて冷静な口調で彼に語り掛けた。
「死者であるあなたは、冥界の管理者である私の裁定が下されていない。今あなたが罪を犯せば、あなたの座位は天界から地獄へと移ってしまう。それがどういうことか、あなたは理解しているのか?」
「……」
ハンネスの顔が歪む。俺から顔を背けるように、闘技場の中心に置かれた白い繭に目を落とした。
「分かって……いますとも。俺の座位が地獄へ移れば、天界の座位とは比べ物にならないほど、生まれ変わりが遅くなる。それだけじゃない。俺の来世は、ヒトとして生まれ変わることはない……」
地獄の座位を持つ魂は、冥界にある転生の螺旋階段を一番下から登り始める。そしてハンネスの言った通り、来世はヒトとして生まれ変わることはない。しかも、一度地獄の座位を持った魂が、再びヒトとして生まれ変われる確率もとてつもなく低い。
「分かっていて……」
そこまで言うと、俺は隣にいるガブリエルを見た。
横目で俺を見返したガブリエルが、同意するように微かに頷く。
なんてことだ……。
ガブリエルは俺に、ハンネスに対して「事実を伝えた」と言っていた。
それは、無垢の子であるハルが『悪魔の子』に転生すれば、人間界に混沌が訪れるということだけではなかった。
ヒトの命を奪えば自分がどうなってしまうのかも、ガブリエルはハンネスに伝えていたのだ。
何もかもを理解し、自らの意思で、ハンネスは短槍を握りしめている。
これが、神が与えた『自由意志』というヒトの権利。
しかしこの天界の大地で、こんな所業が許されてよいわけがない。
俺は眉間にしわを寄せて、ハンネスを見た。
パストラルの町で、彼は山賊の刃により命が尽きた。しかし、ハルのような特別な運命を背負った者ではない。
たまたま選ばれてしまったのだ。無垢の子の命を絶つ者として。
俺はハンネスを諭すように言う。
「ハンネス、見誤ってはいけない。たとえ、あなたがその子の命を奪ったところで、ヒトの世界が地獄から救われるわけではない」
ハンネスは目の前の白い繭を見つめたまま、苛立ったように叫んだ。
「じゃぁ、どうすれって言うんだよ!? 俺はニーナのそばにはいられねぇ! もう触れることすらできないんだ! こうすることでしか、俺はあいつを……家族を守れねぇんだよっ」
最愛の者に二度と触れられないもどかしさと悔しさは、俺にも痛いほど分かる。だが俺は、頭を左右に振り静かに答える。
「俺たちがいる。俺たち天使が、人間界を地獄から守る。だから……その槍を床に、置いてくれ」
「……」
ハルの眠る繭を見つめていたハンネスの目から、涙が静かにこぼれ落ちた。
己の愛する者のために、幼い子どもの命を犠牲にする。躊躇いが消えるはずなどなかった。
ハンネスは涙を拭うこともせず、きつく目を瞑る。
「……だめ……だ……。俺が……俺がやらなきゃ……。ニーナが……家族が悪魔に喰われちまう……」
自分に言い聞かせるように、ハンネスがブツブツとつぶやいた。
熾天使の力さえ使えれば、俺は彼の内面にある躊躇いと罪悪感を増幅させ、その行動を止められたかもしれない。だが、今の俺にはこれが精いっぱいだった。
「ハンネス!!」
悲鳴のような俺の叫びとともに、ハンネスがカッと目を見開く。そして、握っていた短槍を素早く振り上げた。
「ニーナは……俺の家族は、俺が守るっ!」
ヒュンと空気を裂く音とともに、ハンネスの短槍がハルを包む繭へと一直線に落ちていく。
「やめろぉぉぉぉぉぉ!!」
「いやぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!!」
俺とルシフェルの叫び声が同時に響いた。
重力に従った短槍が、ハルの繭へと落ちる。ハンネスはさらに力を加え、繭に突き刺さった槍をズブズブと奥へ押し入れた。
深く押し込まれた短槍から手を離したハンネスは、ハァハァと体全体で息をしながら、よろよろと後ろへ下がる。
槍が突き刺さった辺りから赤い液体が湧き出し、白い繭をじわりじわりと赤く染め上げていった。短槍は舞台の床まで到達しているのか、繭の下からもドロリとした鮮血が漏れ出てくる。
「ハル! ハル! うそよ! うそよぉぉぉぉっっ」
膝から崩れ落ちたルシフェルが、頭を抱え、狂ったように喚いた。
ついさっきまで俺の耳に届いていたハルのトクントクンという拍動は、今は一切聞こえてこない。きっとルシフェルの耳にも、届いてはいないだろう。
あんなに必死になって守ろうとしていた幼い命は、ヒトの手によりアッサリと奪い取られてしまった。
俺は……俺たちは、何のために悪魔を滅ぼすほどの力を持っているのだろう? 目の前の小さな命と、人道を外れた魂すら救うこともできないくせに……。