40-2:絶望の果て
ガブリエルはルシフェルの魔力を奪うだけでなく、ハルの命を使い、あいつの心までも打ち砕こうとしていた。
だが、どうやって?
天使がヒトの命を奪えば、天界の禁を犯したと見なされ、地獄へ堕ちてしまう。
さらに言えば、人間界の統治者であるガブリエルは、過去に悪魔の侵略を許し、神の子を人間界へ降ろさざるを得なくなった苦い経験をしている。
その彼のプライドが、再び神の子を生み出すことを許すはずもなかった。
俺の中で、嫌な予感が急速に膨れ上がる。
壇上の下の舞台へ再び目を向けると、一人の男が闘技場の端から出てきたことに気が付いた。
「……ヒト?」
俺は眉をひそめる。
頭髪が薄くなりかけ、猫背でゴロンとした小太りの男は、前後を権天使に挟まれ、オドオドとした様子で周囲を見回しながら歩いていた。
その列が、ハルを包み込んだ白い繭のある舞台へと徐々に近づいていく。
あの男、どこかで……。
記憶の糸を辿った俺は、すぐさま男のことを思い出した。
「ハンネス……、ハンネス……タネリ?」
ハルたちが住んでいた、人間界の赤い屋根の家。そのそばにあった町パストラルで、ハンネス・タネリは宿屋を営んでいた。
人間界へ降り立った俺とラジエルは、偽名を使い、ハンネスの宿屋に長期間の滞在をしていた。
そして彼の宿屋があるパストラルの町は、ルシファーの息子マモンの企てにより、悪魔に操られた山賊たちによって襲撃を受ける。
民家に火を放ち、己の命さえも顧みず略奪と殺戮を繰り返す山賊たち。その一人に襲われたハンネスの妻ニーナを、偶然居合わせた俺が救う。
ハンネスとともに逃げたはずのニーナが一人きりだったため、俺が彼のことを尋ねると、ニーナは「夫は山賊にやられました……」と言ったのだ。
抱えていた麻の袋をぎゅっと抱きしめ、悔しそうな顔でポロポロと涙を流す彼女の姿を、俺はまざまざと思い出す。
とうに命が尽きたはずのハンネスは、ヒトが生まれ変わる冥界で、輪廻の螺旋階段を上っているはずだ。
パストラルの襲撃で天界へ戻ってきたヒトの魂を、冥界の管理者である俺がすべて裁定したのだから。
それにもかかわらず、ハンネスはヒトの形を保ったまま、今目の前を歩いている。
事態がのみ込めない俺は、眉間にしわを寄せ、隣に立つガブリエルに尋ねた。
「これは……どういうことだ?」
「……私のほうで、ハンネス・タネリの魂を預かっていた」
少し間を開けながらも平然と答えるガブリエルに、俺は目を剥く。
「死者を天界に留めておいたというのか? 冥界の管理者でもないおまえに、そんな権限はないはずだ!」
怒る俺に対し、悪びれる様子もなくガブリエルは頷いた。
「そう。冥界はおまえの管轄だ。だが、人間界は私の管轄。彼はまだ、おまえの裁定を下されてはいない」
「おまえ……まさか……」
ガブリエルが何をしようとしているのか理解した俺は、愕然とする。
死者は冥界の管理者である俺の裁定が下されると、ヒトの形を失い、現世の記憶を魂の奥深くに沈められる。
しかし命を失ったハンネスは、俺の裁定が下る前に、ガブリエルによってヒトの形を維持したまま、天界に留められた。
ガブリエルはなぜ、越権行為ギリギリのようなことをしたのか?
それは、俺たちにはできないことを、ハンネスにさせるために他ならない。
ハンネスは円形の舞台の横で、白の仮面を被った天使から短槍を手渡されていた。
穂先を下に向けた槍の柄を握りしめた彼は、どこか不安そうな顔つきをしている。しかし、己がこれからすべきことを自覚しているかのように、しっかりとした足取りで舞台へと上がっていった。
「ハンネスに、何を話したんだ……ガブリエル」
俺は、ハンネスの動向に注視したまま尋ねる。
答えは聞かなくとも分かっていた。だが俺は、彼の口からそれを直接聞かねばならない。
ガブリエルも前を見据えたまま、感情のない口調で答えた。
「無垢の子と同様に、事実を伝えたまでだ。娘の命を絶たなければ、人間界が地獄と化してしまう可能性があると」
「なんてことを……」
予想通りの答えに、俺は苦悶の表情で自分の銀色の髪をグシャリと握る。
ハルと出会って間もない頃、俺は「天使はヒトの命を奪うことを禁忌とされている」と彼女に話した。
しかしその禁を破ることなく、天使がヒトの命を奪う方法がある。
それは、悪魔がヒトを惑わすのと同様のやり方だ。
正しき道へ導くはずの天使が、ヒトの不安や恐れを増幅させ、その意思決定を狂わせる。
この場合、ガブリエルはハンネスの不安を煽り、ハルの命を絶つよう仕向けたのだ。
天使や悪魔が何をささやこうとも、己がどう行動するかの最終決定権はヒトにある。
そのため、もし天使がヒトを惑わす導きをしたとしても、神がヒトに与えた『自由意志』という権利を侵したことにはならない。
だが己の都合でヒトを動かす行為は、神の御使いである天使の存在意義そのものを汚すため、タブーとされている。
なぜだ? なぜ、ガブリエルは、ここまでする?
以前からルシフェルは、ガブリエルを『抜け目ない』とみなしていた。たしかにこいつは、いつも一つ二つ先を見越して行動をする。
一見すると冷淡で狡猾に見えるが、本来の熾天使ガブリエルは、全天使の長だったルシフェルに負けず劣らずの清廉潔白な天使だった。
天使であることに誇りを持っていたガブリエルは、周囲に対しても、神の理の徹底した厳守と天使としての高潔さを強く望んでいた。
その姿勢こそが、神に仕える者のあるべき姿だと考えていたからだ。
ガブリエルの考えは、おおむね間違ってはいない。だが、神の理に囚われ過ぎることを危惧したルシフェルとの間で、意見の対立をしばしば起こしていた。
それでもガキの頃のガブリエルは、天使たちの頂点にいるルシフェルや俺に追いつこうと、地道な努力を積み重ねていた。
考えてみれば、こいつはまるでハルのような純粋さを持っていた気がする。
しかし今のガブリエルには、昔のような純粋さや高潔さは感じられない。
それどころか、サキュバスやハンネス、ハルでさえも、己の目的を達するための使い捨ての道具としてしか見ていないのだ。
何がガブリエルを、これほどまでに歪ませた?
そこまで考えた俺の目に、ガブリエルとハルが重なって見えた。
「そう……か……」
俺は全身から力が抜けていき、崩れるようにその場に座り込む。
ガブリエルは絶望したのだ。ハルと同じように。
絶対的な存在だった天使の長ルシフェルの裏切り。彼女と唯一対峙できる俺のふがいなさ。それだけではなく、簡単に闇に飲まれた天使それ自体に。
へたりこむ俺を、ガブリエルはチラリと見たが、すぐさま視線を正面へと戻す。
薄紫色の軽くうねる長髪を後ろに束ね、切れ長の細い目とすらりとした鼻筋の横顔。冷淡なまなざしの中に、ガブリエルの覚悟を俺はやっと見つけた気がした。
こいつはおそらく、この世界を創り変えようとしている。たとえ己が、天使の姿をした悪魔になろうとも。
俺はガブリエルを見上げ、力のない声で言う。
「ガブリエル、もうやめろ……。これ以上突き進めば、おまえ自身も取り返しのつかないことになるぞ……」
前を見据えたままのガブリエルは、俺にしか聞こえない声でボソリと答える。
「もとより覚悟の上だ」
「もういいっ! 両翼を切り落とされたルシファーが天界に留まれば、無垢の子は創り出せない! 俺は最高位天使の座を退いて、ハルの守護者となる! それで十分なはずだろ!?」
「……」
「ガブリエル!!」
悲鳴のような俺の叫びは、周囲の天使たちの動揺を引き出した。
不安が入り混じる騒めきの中、ガブリエルはわずかにこちらに顔を向ける。
「もはや手遅れだ。すべてはあそこにいる者が決めること。そして私は、彼を止める気はない」
それだけ言うと、ガブリエルは再び舞台を見下ろした。
くそっ! どうすれば!?
彼の強硬な姿勢を変える手立てを、俺は見つけられない。
灰に変わったサキュバスの姿が脳裏にチラつき、俺はギリギリと奥歯を噛みしめた。
舞台上では、短槍を胸の前でしっかりと握りしめたハンネスが、足元に転がる繭をじっと見つめている。
やがて意を決したかのように、彼は持っていた短槍を大きく振り上げた――