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40-1:絶望の果て

 ラジエルの足元には、サキュバスだった灰の山が築かれた。しかし形が保たれたのは一瞬で、重力に逆らえないその山は、白の舞台にサラサラと崩れてしまう。


 死の魔法が発動した魔法陣の中で、生きながら肉体が朽ち始めたサキュバス。そんな彼の首を、ラジエルが切り落とした。少しでも早く、滅びの苦しみからサキュバスを解き放つために。


 ほかに方法がなかったとはいえ、あまりにも(むご)い現実を前に、夢魔が悪夢を見せているのではないかと思ってしまう。いや、そうであったら、どれほどよいだろうか。

 だが、あのいたずらっぽく笑う夢魔は、もうこの世界にはいない。

 俺の中で、やり場のない哀傷感だけが、心にべっとりと張り付いて離れなかった。



 足元に散らばった灰を無表情で見下ろすラジエルは、握りしめていた剣を手放した。主の手を離れた剣は、地面に辿(たど)り着くことなく空中で消え去る。

 闘技場内が騒めく中、ラジエルは魔法陣が描かれた舞台からゆっくりと降りた。舞台袖にいるルシフェルの真横まで来ると、彼はその場に立ち止り、何かを言いたそうにわずかに開く。

 だがラジエルの口はすぐさま閉じられ、眉間にしわを寄せながら固く目を(つぶ)った。

 ほんの数秒の沈黙。

 そして次に目を開くと、彼は鋭い視線で空を見上げ、俺たちのいる壇上へと羽ばたいた。


 ラジエルは、俺とガブリエルの間にふわりと降り立つと、怒りを押さえるような低い声色で尋ねる。


「これでご満足ですか? ガブリエル様」


「……」


 ガブリエルは、サキュバスが消えた舞台を見下ろしたまま、何も答えない。

 露骨に不快な表情を見せたラジエルは、座天使たちが座る席へと戻ろうと歩き出した。

 そのとき、ガブリエルが右手を左肩まで引き上げる。それを視界の端でとらえたラジエルが、反射的に彼のほうを見た。

 ガブリエルは引き上げた自分の右手を、左から右へ素早く振り払う。


 ビュン!


 ガブリエルが作り出した突風が、正面にある舞台へ一直線に向かって行く。

 舞台に広がっていたサキュバスの灰が、その風により一瞬で吹き払われてしまった。

 まるで(ちり)を払うかのようなガブリエルの行為に、ラジエルは彼をギリギリと(にら)みつける。

 ラジエルの射貫くような視線を受け止めながらも、ガブリエルは気に留める素振(そぶ)りも見せず、ただ前を見据えていた。

 そんなガブリエルに対し、ラジエルの表情が怒りから失望へと変わっていく。最後はうなだれるように肩を落とし、自分の席へと戻って行った。

 ふがいないことに、俺は、消沈するラジエルに声を掛けることすらできず、丸まった背中を見つめるしかできなかった。



 サキュバスの灰が一掃された舞台では、中央に白い塊が浮かぶように現れる。その塊は一枚布となり、舞台に描かれた魔法陣を覆い隠すように広がった。

 舞台袖では、鈍色の仮面を被った座天使がルシフェルを拘束する光の鎖を引き上げ、(ひざまず)いていた彼女を立たせる。


「ルシファーの両翼を切り落とす」


 俺は、ふいにガブリエルの言葉を思い出した。

 サキュバスが滅びた今、次はルシフェルがあの死の舞台に立たされる。そう思うと、ドクンドクンと俺の鼓動が耳障りに響いた。



 あいつの両翼を切り落とされたら……。



 俺は正気を保てる自信がない。そうなれば、行き着く先はまさに『地獄(ゲヘナ)』だ。

 握りしめる俺の手は、汗でぐっしょりと()れていた。


 サキュバスのときと同様に、(やり)を持った座天使に前後を挟まれたルシフェルは、彼女の鎖を持つ座天使に伴われ、白い布で覆われた舞台をゆっくりと回り込む。

 闘技場内にいるすべての天使たちが、息を殺すようにそれを見守っていた。


 ルシフェルが舞台を挟んで壇上の俺たちと向かい合う位置に来ると、ガブリエルが右手を上げる。

 それを合図に、顔の半分を白の仮面で隠し、白のローブに身を包んだ天使たちが闘技場の端からソロリと現れた。彼らは何かを空中に掲げるように四方に立ち、ゆっくりと舞台へと向かってくる。



 なん……だ?



 白のローブ姿の天使たちが掲げる『物』が何であるか、俺は目を凝らした。

 それは、純白のドレスを身に(まと)った小さなヒトの形をしている。

 両手を胸の前で固く結び、栗色の髪を横に流すように束ね、眠るように目を閉じた少女の姿。


 俺は思わず声を上げた。


「ハル!?」


 眠るハルを掲げた天使たちの列を見たルシフェルが、この日初めて感情を(あら)わにする。


「これは……一体どういうこと?」


「……」


 ガブリエルは、当惑と動揺が入り混じったルシフェルの問いに答えることなく、無表情で舞台を見下ろしていた。


 ハルを運ぶ天使たちは、神聖なものを扱うように彼女を舞台の中心にそっと下す。そして身を屈めたまま、やおらその場から引き下がった。

 天使たちが舞台から降りた途端、床に広がっていた白い布は、ひとりでにその四隅が上空へと高く引き上がる。それと同時に、幾重にも織られた布が端からハラハラと解け始めた。


 空中で解けた白い布は細い糸の束となり、純白のドレス姿で眠るように横たわるハルに巻き付いていく。すべての糸がハルを包み込むと、舞台の中央には巨大な繭のような白い塊が出来上がった。


 闘技場内は、これから何が起こるのか分からず、異常なほど静まり返っている。

 その静けさが、余計に俺の不安を()き立てた。


「何を……するつもりだ?」


「あの子に何をする気?」


 期せずして、俺とルシフェルの声が同調する。

 ガブリエルはフンと鼻で笑い、周囲によく通る声で言い放った。


「彼女を絶望へと導いたのは、ルシファー、おまえだ。おまえの欲望が彼女から祖母を、母を、すべての血縁者を奪った。おまえ自身もそう述べていたはず。そして彼女は選んだのだ。己の『終焉(しゅうえん)』を」


「な……」


 驚いた俺は、隣にいるガブリエルを見上げた。



 ハルが……自らの死を選んだというのか?



 あの屈託のない幼い笑顔の少女が、自分の命を捨てる。そんな選択をしたとは、にわかには信じられなかった。

 俺と同じように思ったのか、ルシフェルが頭を大きく左右に振る。


「うそよ! あの子がそんな選択をするわけがない! おまえがそう仕向けたに違いないわ!」


 ガブリエルはルシフェルを(さげす)む目つきで、即座に否定した。


「一体何のために? 考えてもみろ。彼女は、愛していた者(おまえ)に裏切られたのだ。天使に転生すれば、忘れ去ることもできず、未来永劫(えいごう)その憎しみを抱え続けなければならない。さりとて、この先ヒトとして生きるには、あまりにも孤独で惨いとは思ないか?」


「……」


 ガブリエルの言葉に、ルシフェルは唇を()んで押し黙る。彼はさらに続けた。


「ならば、彼女の望む未来を(かな)えるのが、天使としての務めであろう? これは『救済』なのだ」


 俺は沸き上がる怒りを抑えながら、ガブリエルに反論する。


「救済だと? ハルはまだ、すべての真実を知ってはいない。目に見える事実だけで、おまえは彼女に、自分の未来を決めさせたのか?」


「……」


 前を見据えていたガブリエルの顔が、わずかに俺のほうへと傾いた。


 こいつとは、嫌になるほどの長い付き合いだ。ルシフェルの言う通り、ガブリエルが望む通りにハルを導いたことくらい、語らずとも想像がつく。

 しかしなぜだ? ヒトの寿命など、俺たちの時間に比べたら瞬く間の出来事だ。ましてや、神に与えられた寿命を自ら断とうとする者の後押しなど、天使が行うことではない。


 まさか……と思いながらも、俺はボソリと言う。



「ルシフェルを……壊すつもりか……」


「……」


 何も言わないガブリエルは、口角を微かに(ゆが)めた。

 その顔に、俺は愕然(がくぜん)とする。


 魔力の発動源である両翼を切り落としたところで、過去に全天使を統べ、今は全悪魔を統べているルシフェルの気力が削がれることはない。

 頂点に立つ者は、それほどまでに強靭(きょうじん)な精神力を持たねば務まらないからだ。

 俺もルシフェルも、この世界に生まれ落ちたときから、『統べる者』として神にそう育てられてきた。

 しかしこの強靭な精神は、たった一つのことでいとも簡単に崩壊する。俺はそれを、ガブリエルの前で証明してしまった。

 そして無垢の子ハルは、魔王ルシファーの愛し子。これはもう、隠しようのない事実となってしまっている。

 わが子同然のハルの命をルシフェルの目の前で断てば、あいつはきっと壊れてしまうだろう。



 たったそれだけのために……、ガブリエル(こいつ)はハルの命を犠牲にするというのか?



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