39-1:処刑
天界の中で、最も広い大地を有する下層。
うっそうとした森が大半を占めるこの大地の北東には、緑と土が入り混じった平原が広がっていた。
のどかな風景が続くその場所に、周囲とは一線を画した真っ白な闘技場が建てられている。そこは、名前の通り天使たちが闘技を披露したり、祭事などを行ったりする場だった。
楕円形の闘技場には、両翼を広げた形の巨大な白いモニュメントが、ここが天界の所有であるとでも主張するように、空へ向かってそびえ立っている。
モニュメントの足元には、闘技場全体を見渡せる広い空間があった。
講壇として使われるその場に、魔力を封じる光のリングを枷のように両手首にはめられた俺は、左右を座天使に挟まれた状態で立たされている。
ガブリエルの動きは速かった。
魔王ルシファーを捕らえたのだから、当然ではある。
地獄が……あのベルゼブブが動き出す前に、先手を打つはずだとは思っていた。
案の定、上層の大神殿にある地下室へ放り込まれて二日ほどで、俺はこの場へと連れてこられた。
闘技場の中心には、白い床に銀色の魔法陣が刻まれた円形の舞台が用意されている。
白に金糸で模様が描かれた祭服を着た俺は、嫌悪の表情でそれを見下ろしていた。
これを……天使が描いたというのか……。
舞台に刻まれた魔方陣には、もがき苦しみながら、肉体が徐々に朽ちていく術が施されている。それはまさに、天界に造られた『処刑台』だった。
俺は、目の前が闇で覆われる感覚に陥る。
この惨い魔方陣の中心に立たされる者は、間違いなく、天界に捕らえられたサキュバス、そしてルシフェルなのだ。
死の舞台を見下ろす俺の隣に、白に淡い青緑の糸で模様が描かれた祭服を着るガブリエルが立っていた。
俺たちの左側には、四大天使であるウリエルとラファエルが着席しており、後方には彼らの従者である座天使が座っている。その中には、青白い顔をしたラジエルの姿もあった。そして、座天使たちの末席に、無表情で前を見据えるサリエルもいる。
闘技場の観客席には、これから起こる出来事を見届けさせるかのように、能天使と力天使たちが集められていた。
彼らは、ルシフェルが謀反を起こした『あの時』に最も被害にあった階級。そのせいなのか、場内は異常な負の感情で満たされていた。
両翼を広げた白いモニュメントを背に、主宰者として立つガブリエルが、下にいる従者の座天使へ合図を送る。
程なくして闘技場の端から、光の鎖に体を拘束されたルシフェルとサキュバスが、座天使に連れられて入ってきた。
それを見た場内の天使たちが、動揺するように騒めく。
灰色のローブを着たルシフェルは、凍りついた表情で黙々と歩いていた。そして、彼女と同じローブ姿の男のサキュバスは、たった二日でかなりやつれた顔をしている。
その原因は、彼らにはめられた、魔力を奪い続ける光の首輪のせいだった。
ルシフェルとサキュバスは、壇上の俺たちが見下ろせる位置まで、座天使に引致される。所定の場所まで来ると、座天使に肩を押さえつけられ、無理やり跪かされた。
それを見ているだけの俺は、自分のふがいなさに苛立ち、歯を食いしばる。
地下室にいたときから、ルシフェルたちを救う方法を俺はずっと考えていた。
そしていつも、同じ結論に達する。だがそれは最善ではなく、むしろ最悪だった。
この場に立った今も、俺はまだ迷っている。
騒然となる天使たちを制するように、ガブリエルが右手を上げた。それにより、場内がピタリと静まる。彼の威厳に満ちた声が響き渡った。
「ルシファー、おまえは天使の首長でありながら、われらを裏切り、同胞たちを道連れにして地獄へと堕ちた。それだけでも大罪であるのに、悪魔と化したおまえは、人間界でも数多のヒトの魂を、その欲望のままに地獄へと連れ去った。そして今、事もあろうに、ごく普通のヒトの子を『無垢の子』へと変える術を手に入れた。これは、天界・人間界双方にとって由々しき事態だ」
無垢の子であるハルの存在は、ごく一部の天使にしか知られていない。事情の分からない大半の天使たちが、驚きと戸惑いで再び騒めき始める。
当のルシフェルは、こちらを見上げることもせず、無表情で正面を見据えていた。
おそらくルシフェルは、ハルを『無垢の子』へ変えた方法を明かしてはいない。
あいつをこのまま滅ぼせば、その核は地獄の最下層へと戻る。そして、長い歳月を経たとしても、新たな肉体を得て『魔王ルシファー』は必ず復活する。
これが『不死』という、天使と悪魔が持つ定めだった。
復活したルシファーは、ハルのような無垢の子を再び創り出すかもしれない。
安易に滅ぼせないあいつを、ガブリエルはどうする気なのだろうか?
俺の疑問に答えるかのように、ガブリエルがさらに続ける。
「だが、天界でルシファーを滅ぼしたところで、問題の解決には至らない」
騒めいていた場内は、彼の言葉に聞き入るように静まっていった。
ガブリエルは周囲をぐるりと見渡すと、最後は正面にいるルシフェルへと視線を落とす。
「そこで、智天使を除く上位三隊の合議により、ルシファーはその両翼を切り落としたのち、上層の地下牢へ封印することとした」
「な……」
思わず漏らした俺の声は、場内にいる天使たちのどよめきにかき消された。
俺は険しい顔で、隣に立つガブリエルに小声で尋ねる。
「おまえ……何を言っているのか、わかっているのか?」
ガブリエルは、壇上からルシフェルを見下ろしたまま、周囲に聞こえない声でボソリと尋ね返してきた。
「不満か?」
「そんな暴虐、天使が行うことじゃない」
「暴虐……か。だが、魔力を解放する両翼を切り落とさねば、天界は爆弾を抱えて過ごさねばならない。それにあの悪魔は、永遠に天界へ留まることとなる。おまえの望み通りに、な」
最後の言葉に、俺は反射的に声を荒らげる。
「こんなこと、俺は望んでなんかいない!」
これに驚いた周囲の天使たちが、何事かと俺のほうを見た。
ガブリエルの安い挑発に乗ってしまった俺は、すぐさま後悔する。だがもう手遅れだった。
ガブリエルは、ゆっくりと俺のほうに体を向ける。
「やはり最高位天使は、いまだにあの悪魔に心を奪われているようだ」
ほかの天使たちに聞こえるよう、わざと声を張り上げて言うと、哀れむような目つきで俺を見た。
周りの天使たちも、ガブリエルに同調するような視線を俺に送ってくる。
「……」
俺は無言のまま、ガブリエルを睨みつけた。
天使は悪魔を滅ぼす。そうすることでしか、ヒトを悪魔から守れないからだ。
しかし、惨い滅びをもたらす魔法陣も、悪魔の両翼を切り落とすことも、天使が行うことではない。たとえそれが、大罪を犯したルシフェルに対してでも、だ。
なぜなら天使は、この世界で最も慈悲深い神の御使いであるのだから。
俺を見ていたガブリエルはわずかに口角を歪めると、再び闘技場全体を見渡した。
「しかし! 両翼を切り落としただけでは、われらの苦痛は救われない! われらがあの悪魔から同胞を奪われたように、ルシファーもその苦痛を味わうべきではあるまいか!?」
場内の天使たちは、賛同の雄叫びを一斉にあげる。
ガブリエルは、サキュバスの処遇について言及していた。俺はたまらず反論する。
「いい加減にしろ、ガブリエル! これは単なる報復だ! 慈悲深き神に仕える天使が、己のために力を使うというのか!?」
俺のほうに顔を向けたガブリエルは、冷めた表情で首を傾げた。
「報復? 悪魔を滅ぼすことは、天使本来の務めであろう?」
「こんな残虐な方法で行うことの、どこがだよ!?」
俺の言葉を聞いたガブリエルは、大きくため息をつく。
「どんな方法であろうと、結果は何ら変わりない」
平然と言う彼に対し、俺はさらに声を張り上げた。
「相手が悪魔だからといって、何をしても許されるわけじゃない! それに、サキュバスの出自は、あいつが望んで決めたわけじゃないんだ! それなのにっ」
露骨に眉をひそめたガブリエルは、俺の言葉を遮る。
「これまで、おまえも悪魔を滅ぼしてきたはずだ。そうであるのに、あの悪魔だけは特別扱いなのか?」
「……」
俺は、その言葉に絶句した。
こんなやり方で悪魔を滅ぼすなんて、絶対に間違っている。
だが、ほかの方法なら良いのか?
それとも、滅ぼされようとしているのがサキュバスだから、俺は必死に止めようとしているのか?
これがほかの見知らぬ悪魔だったら、俺はここまで必死になるのか?
残酷なまでに『平等』を重んじる天使の呪縛が、俺を縛り付けた。
そのとき、サキュバスの投げやりな声が、下から聞こえてくる。
「もういいよ、ミー君」
声のするほうを見ると、強張った表情のサキュバスと目が合った。俺は悔しさで顔を歪める。
口元だけ笑う彼は、頭を左右に振った。
「正直、ウンザリなんだよね、地獄も天界も。どっちにいたって、何かに縛られて不自由ばかりなんだもん。君たちを見ているとさ、この世で最も哀れな存在だなと思うよ」
「……」
今、サキュバスができる精一杯の虚勢。
それが分かる俺は、あらためて、彼が何者であるかを認識させられる。
ガブリエルの言う通り、サキュバスは俺にとって特別だった。
俺は……目の前の『友』すら救えないのか?