37-3:忌まわしき真実
淡い水色の壁紙が広がるサフィルス城のゲストルーム。
すでに闇が深まる城外とは対照的に、天井から釣り下がるシャンデリアが室内を煌々と照らしている。
だがどんなに明かりを灯しても、窒息しそうなほど重苦しい空気に支配された部屋からは、薄暗さが纏わりついて離れなかった。
ハルのすすり泣く声は、止むことを知らない。
白のローブを纏ったガブリエルが、胸ポケットから麻布のチーフを取り出した。手にしたそのチーフを、流れ落ち続けるハルの涙にそっと押し当てる。
この小さなヒトの子の心がすでに限界であることは、誰が見ても明らかだった。
* * *
石造りの別棟で、ガブリエルから自分の母がルシファーによって殺されたと知ったハルは、両手で頭を抱え狂ったように泣き喚き始めた。
実母のように慕っていた者の裏切り。取り乱すことは予想していたが、ハルのあまりの豹変に、ガブリエルだけではなく、ハルの隣にいたラジエルも驚きを隠せなかった。
発狂するハルを落ち着かせようと、ラジエルが慌てて彼女をきつく抱きしめる。そしてハルの名を何度も呼ぶが、彼女にはその声は届かない。
ラジエルに抱きしめられたハルは天井を見上げ、意味のなさない言葉をまるで獣のように叫び続けた。
このままでは自我が崩壊すると判断したガブリエルは、ハルのそばへ素早く移動すると、ラジエルに抱かれた彼女の頭を押さえつけるように触れた。そして純白の翼を広げると、ハルの頭に触れていた手のひらから光が放たれる。それと同時に意識を失ったハルは、その身をラジエルへ預けるようにグッタリと倒れた。
彼女の体を抱えたラジエルが、ガブリエルを睨みつける。
「これでご満足ですか!?」
その姿は、まるでミカエルだった。
座天使の長であるラジエルは、常に理知的だった。だが、上官の情動は部下へと伝染する。
長きに亘りミカエルの下に就いたせいで、ラジエル本来の特性が損なわれてしまった。
感情をむき出しにするラジエルを前に、ガブリエルはわずかに眉をひそめる。
これだから、ミカエルを頂点に置いてはならぬのだ……。
天使を統べる最高位者は、神に限りなく近い存在でなければならない。
時として感情に支配されてしまうミカエルに、その資格があるとはガブリエルには思えなかった。
冷めた目つきで、ガブリエルはラジエルを見返す。
「おまえの越権行為については、追って処分を下す。それまでは自室で謹慎せよ、ラジエル」
唇を噛むラジエルを残し、その日、ガブリエルは石造りの別棟をあとにしたのだった――
「はぁ……」
ハルは呆けた顔で大きなため息をつく。
ガブリエルによって拭われた涙は枯れ果てたのか、彼女の瞳から新たな涙が溢れ出ることはなかった。
いつまでも床に座り込むハルを見かねたガブリエルは、彼女の体を支え起こすと、ベッドの足元にある青いベルベットのフットスツールに座らせる。
まるで抜け殻のようなハルをその場に残し、ガブリエルは少し離れた円卓へと向かった。
そこに置かれたカラフェから、黄色味がかった液体をグラスに注ぐ。それを手にして振り返ると、再び泣き出しそうなハルの顔が目に映った。
この娘、それほどまでに……。
ガブリエルは、グラスを持ったまま立ちすくむ。
ハルが発狂して以来、ガブリエルは彼女の感情をひそかに抑制していた。
下位天使がよく行う、心の弱ったヒトの自我を崩壊から守る力。
ガブリエルにとっては些末だが、上位天使が行えば強力な効果を発するはずだった。しかしそれをもってしても、ハルの心は安定しない。
生命の維持にかかわる深い傷。それは肉体の損傷だけに限らず、ハルのような心の傷でも同じことが言えた。
ハルが再び悲嘆に暮れる前に、ガブリエルは手にしたグラスを彼女に差し出した。
「人間界のウリエルの領地で採れた白葡萄の果汁です。あなたでも飲めるものですので、安心してお飲みください」
目の前に出されたグラスを躊躇いがちに受け取ったハルは、ゆっくりと口へ運ぶ。
「美味しい……」
ポツリと言ったあと、ハルはグラスの中身を一気に飲み干した。
「少しは落ち着かれましたか?」
ガブリエルの穏やかなバリトンの声に、ハルはコクリと頷く。
「それはよかった」
空になったグラスをハルから受け取り、それをフットスツールの足元に置いたガブリエルは、ハルの隣に腰掛けた。
「……」
「……」
お互いに自分の足元を見つめたまま、沈黙の時間が過ぎていく。
たった十年しか生きていないヒトの子から、ガブリエルはすべてを引き剥がした。
彼女のためだけにそうしたのかと聞かれたら、ガブリエルは首を横に振らざるを得ない。
軽くため息をついたガブリエルは、愁いを帯びた口調で言う。
「われらも、敬い尊敬していた者に裏切られました。その傷は、長い年月が経った今でも消えることはなく、われらを苦しめ続けています。だからこそ、あなたの深い悲しみが、わがことのように思えるのです」
「ガブリエルさん……」
こちらを見上げるハルの視線を感じ、ガブリエルも彼女のほうを向いた。
「ミカエルから、あなたが天使へ転生する道を用意したい、という話を伺っております」
「それは……」
ハルの表情が苦悶するように歪む。
それは当然の反応だった。
今の彼女にとって、死が訪れることのない天使への転生は、『地獄』の苦しみを永遠と味わうことと同義なのだから。
薄紫色のうねる髪を後ろに束ねたガブリエルが、悲しげに微笑んだ。
「今のあなたにとって、天使への転生は最善ではありません」
「……」
俯くハルに向かって、ガブリエルは続ける。
「ご安心ください。この先、あなたの前に悪魔が現れることは一切ありません。お約束いたします。天使に転生せずとも、天界は一生涯あなたを守り続けます」
「一生涯……」
眉根を寄せたハルに、ガブリエルが首を傾げて尋ねる。
「何か不安なことでも?」
ハルはおずおずとガブリエルを見上げた。
「あの……、あの人の記憶だけ……消すことはできませんか?」
ハルの問いに、ガブリエルは表情を曇らせて頭を左右に振る。
「申し訳ありません。記憶消去の魔法は、その当人でないと記憶が消せないのです」
「そう……ですか……」
落胆したハルは、再び視線を下へ落した。
下層の牢へ閉じ込めたシファーに、記憶消去を使わせることはリスクを伴う。
なぜなら、そのために魔力を奪う光の首輪を外さねばならないからだ。それに乗じて、ルシファーがハルの命を奪うとも限らない。
ルシファーによって創られたとしても、ハルが無垢の子であることには変わりない。その命が悪魔によって尽きれば、彼女は『悪魔の子』として生まれ変わり、この世界に混沌が訪れる。
しかし、たとえルシファーにハルの命を奪う気がなくとも、二人を会わせようなどと、ガブリエルは微塵も考えていなかった。
この哀れなヒトの子は、大局のために果たしてもらわねばならない役割がある。
隣に座るハルは、膝の上にだらりと置いた自分の手のひらを見つめていた。
彼女の栗色の後ろ髪を、ガブリエルは包み込むようにそっと撫でる。
「私は、あなたにわれらと同じ苦しみを味わわせたくはありません。幸いなことに、あなたは未来を選べる。そして私は、あなたをこの苦しみから解放したい。あなたが望む道を、私もともに考えましょう」
「……」
ハルは虚ろな表情でガブリエルを見上げた。
天使の言葉は、ヒトの心を揺さぶる。正しき道を選ぶように。
ガブリエルの言葉はハルの心を侵食した。彼が望む結末へと導くように……。




