04-1:赤い屋根の家
俺とラジエルはハルに導かれるまま、パストラルの町にほど近い丘陵地の緩い上り坂を歩いていた。
俺たちが歩くその道は、途切れ途切れに続く小さな森の中を貫くように続いている。森の木々から降り注ぐ木漏れ日は進む道の薄暗さを軽減させ、時折流れ込む冷やりとした空気はじわりとにじむ汗を心地よく乾かした。
上り坂をしばらく行くと、やがて緩やかに道が曲がり始める。
道に沿ってさらに進むと、視界が突然開け、抜けるような青空が出現した。その空の真下にはぽっかりと開いた空間あり、木々が塀のように取り囲んでいるのが見て取れる。そして中央には、まるで世界から取り残されたかのように、赤い屋根とレンガ造り小さな家がひっそりと建っていた。
「あれが、私たちの住んでいる家よ」
自分の家が見えてきたことで安心したのか、俺の前を歩くハルの足取りが早くなる。
俺たちと彼女との間が少し離れたのを見計らい、ラジエルが俺にだけ聞こえるように小声で話しかけてきた。
「もし、彼女が『無垢の子』であるならば、ルシファーが彼女のそばに留まる理由は何なのでしょうか?」
「……」
俺は何も答えられなかった。いや、おそらく、俺とラジエルは同じことを考えているはずだ。
天界にも地獄にも『座位』を持たないヒトの子を、この世界では『無垢の子』という。なぜ、そのようなヒトの子が生まれるのかは、今もって定かではない。
そもそも、天地が創造されて以来『無垢の子』が実際に生まれたかどうかは、天界のどのような記録にも一切残ってはいない。
しかし、『無垢の子』という言葉だけは、天界の古い書庫に眠る大事典にしっかりと明記されていた。
そこに書かれている内容は、大体こんな感じだ。
天使が『無垢の子』の命を奪うとき、その子は『神の子』として生まれ変わり復活する。『神の子』の誕生により悪魔は人間界を追われ、地獄の力が弱まる。こうして悪魔が排除された人間界は楽園へと変わる。
逆に、悪魔が『無垢の子』の命を奪うとき、その子は『悪魔の子』として生まれ変わり復活する。『悪魔の子』の誕生により天使は人間界を追われ、天界の力が弱まる。こうして天使が排除された人間界に混沌が訪れる。
つまり、『無垢の子』が何に転生するかによって人間界が真逆に激変するだけではなく、天界と地獄双方の勢力図に甚大な影響をおよぼすのだ。
だがここで、一つ大きな問題がある。
それは『天使はヒトの命を奪うことを神から禁じられている』ということだ。
神の言葉が絶対である俺たち天使にとって、『無垢の子』を『神の子』に転生させることは、どう考えても困難……というか不可能なのだ。
そして、悪魔は本来ヒトの命を奪うことに何ら躊躇いはない。
このことから、『無垢の子』は『悪魔の子』にはなり易く、『神の子』にはなり難い。
なんだって、天使にはこんな不利な条件がつけられているんだ?
天界の書庫で大事典を初めて読んだときに、俺が一番に思ったことだった。
この世界の理は、すべて神が創ったものだ。神はあらゆるものを見定め、天界と地獄、人間界の均衡を重んずる。
その均衡を重んじた結果が、この不平等だというのだろうか? それにしても、もう少しわが子に甘くてもよいのでは――なんて思う俺は、まだまだ未熟者なのだろう。
こうした事情から、『無垢の子』の誕生を確認した天使が最も優先すべきは『無垢の子』の保護とその子のそばに近づく悪魔の排除となる。
「なぜ……なんだろうな」
俺はぽつりとつぶやく。
ハルが『無垢の子』であるならば、悪魔の統治者ルシファーとなったルシフェルは、その命をすぐさま奪い『悪魔の子』にしたはずだ。
だが現実は、ハルに自分のことを『ルファ』と呼ばせ、ハル自身の口振りからも推察できるように、ハルとルファはまるで母子のように寄り添って生活をしている。
この二人の間には、一体何があるっていうんだ?
俺は少し先でスキップするように歩くハルを見つめた。
雲が少し多めの青空によく映える赤い屋根の家。それがはっきり見て取れるほどの距離にまで、俺たちは近づいていた。
昨夜パストラルの酒場で聞いた主の口振りから、俺はルシフェルが住む家を廃屋のような建物だとイメージしていた。しかし、目の前に見える建物は多少古びてはいるものの、手入れがよく行き届いており、さながら小ぶりの貴族の別荘を思わせる家だった。
赤い屋根の家のそばには、きれいに刈り込まれた金木犀の樹が一本立っていた。その樹の根元には寄り添うように、黄色い斑入りの葉が特徴のアベリアが、薄いピンクがかった白の花を咲かせている。
俺は、その景色をぼんやりと眺めながら歩いていた。
ここにルシフェルが住んでいるのか……。
俺たちの前を歩いていたハルは、いつの間にか俺のそばへと戻ってきていた。そして、俺の服の裾を軽く引っ張ると、玄関の近くにある金木犀を指さす。
「あの金木犀ね、お花が咲いたらルファが香水にするんだよ。甘くて優しい香りがするの。私、その香り大好きっ」
「へぇ、そうなんだ」
ハルの笑顔につられ、『ルシフェル』の姿を思い浮かべた俺は、思わず微笑んだ。
ハルがニコニコしながら言う。
「金木犀の花言葉を知っている? えぇっと……確か……気高い人、真実の愛……だったかな? ルファにピッタリだと思わない?」
真実の愛……か。今、それは、誰に向けられているのだろうか?
ルシフェルを地獄へ堕とした張本人が自分だとしても、俺はまだ彼女を愛していた。だがもし、彼女がほかの誰かを愛していたら……そんなことを考えると、俺の足取りは急に重くなる。
それに加えて、昨日のルシフェルの射るような視線を再び思い出してしまう。
やはり、昨日拒絶されたばかりなのに、今会うのは時期尚早ではないのか? そんな気持ちが膨れ上がってきた。
俺が急に無言になったため、ハルは心配そうに俺の顔を覗き込む。
「ミカエル? 大丈夫?」
「あ……ごめん。大丈夫。あのさ……だけど、俺、やっぱり……」
俺が言い終わる前に、赤い屋根の家の脇から聞き覚えのない女の声が聞こえてきた。
「ハル……ちゃん?」