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哀れな堕天使  作者: 弘美
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 今はまだ彼の様子を見て、相手をよく観察するべき時なのだ。

 それはよくわかる。だが、二回目の食事で飲みに行こうと誘われて、正直驚いた。紗英の忠告がこんなに早く、しかも本当に役に立つことになるとは思っていなかったのだ。そのおかげで、私はあまり悩まずに断ることができ、それでよかったと、今は素直にそう思える。

 河村に駅裏までタクシーで送ってもらい、帰途につく。誘いを断ったことに対して気を悪くしてないだろうかと気になっていたのだが、彼は最後までいつもと変わらず頼りになる大人の男だった。

 そういえば、買ったばかりの黒いマスカラを河村と会う前に駅の化粧室で念入りにつけて行ったのだが、彼は私のちょっとした変化に気付いただろうか。いや、化粧を必要としない男にそんなことを期待するのは馬鹿げている。

 だが、もし少しでも気付いてくれていたとしたら、私はやはり嬉しく思うだろう。

 さて、そういう私を一体河村はどう思っているのか知るよしも無いのだが、そう日をあけることなく食事に誘われてデートを重ね、一ヶ月半が過ぎた。

 その一ヶ月半の間に、私の河村への評価はますます上がっていた。

 よく見ると、見てくれはそれ程悪くない風貌をしており、落ち着いて優しく女性を引っ張っていくところが、自分の奥手な性分と合っているかもしれない。そして、何よりも私を感激させたのが、(ただ)の一度も私にお金を出させなかったことだ。

 河村が連れていく店はどこも美味しく、それなりの値がするのではないかと思うような、洒落た店ばかりだった。つまり、いつもいつも彼は私を楽しませる為、喜ばせる為に、惜し気も無く労力とお金を使ってくれるのだ。

 こういう男に、私がころりといってしまうのは当然のことだと思うのだ。

 その反面、男がお金を出すのが当たり前だと思っているような女だと思われたくないという後ろめたい気持ちもあり、何回かに一度はタクシー代の支払いを申し出るのだが、河村は頑なに首を縦には振らなかった。




 そして、それは秋の訪れを感じずにはいられない、肌寒い夜のことだった。

 私は河村に連れられ、季節の野菜を使った創作料理が楽しめるというお店を訪れていた。料理の注文を済ませた後、私は傍らに置いていた紙袋を手にとった。

「あの、いつもご馳走になってますので、そのお返しというか、河村さんにプレゼントがあるんです」

 後ろめたさが綺麗に解消されるわけではないが、やはり何かしなければいけないのではないかと考えた末に思い付いたのがこれだった。

「プレゼント? 俺に?」

 紙袋の中から、丁寧にラッピングされた包みを出して手渡した。河村はそれを大事そうに受け取る。

「本当にいいの? いや、ありがとう、嬉しいな~、何だろう?」

「どうぞ、開けてみてください」

 河村は、その場で嬉々として包みを開け始める。中から出てきたのは、チャコールグレーの色をした、滑らかな肌触りのカシミアのマフラーだった。

「ちょっとまだ早いかなと思ったんですけど、これからどんどん寒くなりますので」

 河村は少々興奮気味に、しきりに感嘆の台詞を口にしながらマフラーを首に巻いて見せてくれた。

「すごく暖かいよ。ありがとう、嬉しいよ。大事にする」

 河村に喜んでもらうことが出来たことに安堵する。それと同時に、自分も相手の為にお金を使ったのだという充足感が、私の心を楽にさせていた。

 もちろん、それは河村が今までに私との食事やタクシー代に使って消えていった分よりは、取るに足らないものだろう。

 河村はマフラーを首からはずし、丁寧に畳んで包みに入れた。そして、側に置いてあったコップの水を一口飲む。その一連の動作を無言で眺めていると、彼は意を決したように口を開いた。

「これってやっぱり期待していいのかな」

 河村の意味深な発言。

 こういう時、女はどういう反応をするのが正解なのだろう。

 彼の意図していることがわからないわけではない。だからといって、こういう言い方をされると、どう返したらいいのかわからなくなるのはおそらく私だけではないはずだ。

「……えっ?」

 彼の言葉はきちんと私の耳に届いていたはずなのだが、私の口は聞き返していた。だが、河村は微かに笑みを浮かべて私を見るばかりで、応えは返ってこなかった。

 次第に顔に熱が集まってくる。何か言わなければとあたふたしていると、助け船のように料理が運ばれてきた。

 自分の顔はおそらく真っ赤に染まっているだろう。その顔を店員にも見られているような気がして、私はずっと下を向いて店員が立ち去るのを待った。

 色彩豊かな野菜がふんだんに使われた料理は、見た目も美しく、独特の輝きを放っていた。

 不意に、河村がクスリと笑う。

「ね、まずは食べよう?」

 いつまでも固まっている私を見るに見かねたのだろう。

 私は雷にでもうたれたかのようにコクリと頷き、箸を手に取った。

 その様子が可笑しかったのか、それを見て彼はまたクスリと笑う。それから彼も箸を手に取り、柔らかそうな仔羊のソテーを口に運び始めた。




 帰りのタクシーの中は無言の空気に包まれていた。タクシーが左折をすると、自分と河村の手と手が微妙に触れ合い、直進になるとまた離れる。そのことに、二人とも確実に気づいているはずなのだが、お互いに何も言わない。そして、お互いの手もそこにあるまま。

 窓越しに対向車のライトの(あか)りや、街の夜景が流れていくのをずっと眺めていたのだが、私の脳はそれらの夜景などろくに認識できようはずもなく、左手に度々触れる感覚にばかり神経を集中させていたのだった。

 この気恥ずかしさから早く解放されたい。だが、左手は固まったように動かない。

 私は顔を見られないように、顔を更に窓の方に向けた。しばらくそのままの体勢でいると、タクシーは直進しているのにもかかわらず手が軽く触れてきた。それは、明らかに意思を持ったものだった。その手は私の気持ちを確かめるように徐々に触れる範囲を増やしていき、最後には私の左手は完全に彼の手で覆われていった。

 だが、それは束の間のことだった。タクシーが停まると、彼の手はすぐに離れていった。運転手が「着きましたよ」と言い、ドアが開く。

 一瞬にして現実に引き戻されたかのように、ルームライトで車内は照らされ、外の空気がいっせいに流れ込んだ。車内に籠っていた甘い熱が消え失せ、私は思わず大きく吐息した。

 支払いを済ませた河村がタクシーから降り、私も運転手に礼を言いながらそれに続く。バタンとドアが閉まり、排気ガスを吹かせてタクシーは走り去った。

「今日も美味しかったです。ご馳走さまでした」

 この短い間に落ち着きを取り戻した私は、タクシーの中で行われていたことなど何も無かったかのように、いつもと同じように礼を言う。

「この後、何か用事あったりする?」

「いいえ、このまま家に帰りますけど……」

「じゃあ、今日は家まで送ってくよ」

「でも……」

「もっと一緒にいたい」

 それは突然低い声で紡ぎだされた。

 このような明確な意思表示は、おそらくこれが初めてではないだろうか。つい先程までタクシーの中でされていたことが、みるみるうちに頭の中に甦る。

 返答に困っている私を見下ろす河村の顔を、私はまともに見ることが出来ず、(ただ)ひたすら(うつむ)いた。

 河村はそんな私の様子に(ごう)を煮やしたのか、サッと私の手を取り、いつも私が帰る方向へと歩き始めた。

 今私の手は、彼の大きな手にしっかりと握られている。薄手の上着が欲しくなるようなひんやりとした夜だったのだが、彼の手は熱かった。

「手、冷たいね」

 河村は私の歩調に合わせるように、ゆっくりと歩きながら静かに私を見下ろす。

「そうですか」

 私は言葉少なに答える。この夜の静寂の中、そうしなければいけないような気がして、声も控え目になる。

 そうしてしばらく二人で歩いていると、堪えきれないというように、河村は突然笑いだした。

 どうしたのかと隣の彼の顔を見上げると、一瞬目が合わさったのだが、すぐに逸らされた。

「さっきから手にめちゃくちゃ力が入ってる」

「えっ、ち、ちょっ、や、やだ!」

 慌てて握られていた手を解いて引っ込めようとしたのだが、それは叶わなかった。河村は私の手をどうやっても放してくれなかった。ごめんごめんと言いながらも、彼はまだ肩を震わせている。

 私はどうにも居たたまれず(うつむ)いていると、突然握られていた手を引かれ、気が付くと私は彼の腕の中にいた。

「本当、可愛い……」

 耳の側から聴こえてきた彼の声音は、今までに聞いたことのない色味を帯びていた。それは、私の中の何かを呼び覚ますかのように、否応(いやおう)無く身体中を駆け巡った。

 河村の熱い吐息を耳元で感じていると、彼は抱きしめている腕を緩めて、私の顔を覗き込んだ。そして、その口からずっと私が欲しかった一言が告げられる。

「俺と付き合ってくれる?」

 (ようや)く待ち焦がれていたものが与えられたと、私は思った。





  

 



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[一言] はあ… 耳元のささやきは 弱いです( *´艸`)
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