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哀れな堕天使  作者: 弘美
7/40

 明日は三連休の二日目である為、予定通り仕事は休み。

 私は一人で飲むには(いささ)か買いすぎと言えなくもないくらいの量の缶酎ハイと、おつまみを買い込んで帰宅した。

 いつもなら、ここは迷わずに日本酒なのだが、今夜はシュワシュワとした炭酸で、スカッと憂さ晴らしをしたい。そんな気分になったのだ。

 その要因は、先程別れたばかりの紗英から聞かされた話にあった。




「実はね、気になってる人がいるの」

「は?」

 紗英は自然消滅してしまった元恋人の話を切り上げた直後に、何も悪びれず新しい恋の話を始めたのだ。つまり、つい先程やっとの思いで恋人を吹っ切ったように見せかけておいて、本当はとっくに彼女の中では片がついていたのだ。

「それならさっきの話は一体なんだったのよ」

 私は憤慨して、思わず強い口調になる。

 道理で思い切り良く吹っ切れるわけだ。彼女の思い切りの良い性格を好ましく思うなどと、呑気なことを考えたことを後悔した。

「うふふ。そんなに怒らないでよ~。別に嘘を言ったわけじゃないのよ。これでも結構悩んだんだから。元彼のことは大好きだったから、別れて辛いわよ。でも、彼と長い間会ってない時に、すぐそばにいる自分好みの男に言い寄られたら、やっぱり気持ちはそっちの方に行っちゃうものなんじゃないかしら」

 紗英はにやけた顔で嬉しそうにため息をつく。

 自分からではなく、男の方から既にアプローチされていることまでさりげなく舌に乗せるところが憎らしい。

「しかも、連絡もくれない会いにも来ない男よ? あんなに放って置かれるなんて、やっぱり私のプライドが許さないわよ。あんな写メ送られてこなくても私の方からお断りだわ」

 そう言って、紗英はプイッとそっぽを向く。

 写メも先程見せられた為、これも嘘ではないだろう。

「ふ~ん。で、その人と付き合うの?」

 すると、紗英は再び嬉しそうな顔でこちらに向き直る。

「うふふ。それなんだけどね。うちの会社、社内恋愛ダメみたいでさぁ」

 紗英が先程、社内恋愛は大丈夫なのかと訊いてきた理由を、私はここでようやく納得した。

「同じ会社の人なんだ」

「そうなの。きちんと社則で決まっているわけではないんだけど、そういう暗黙のルールがあるみたい」

「ふ~ん。なんだか面倒な会社ね。じゃあどうするの?」

「ん~、向こうは内緒で付き合う気満々みたい。私もそうしてもいいかな~って思ったんだけど、やっぱりバレた時のことを考えたらね~。同じ職場にね、お局さんみたいな人がいて、なんでかわからないけどその人からの風当たりが強くてさ」

 お局さんと聞いて、私は眼鏡にひっつめ髪の地味な感じの中年女性を思い浮かべた。もしかすると、職場でも紗英はその男好きする性分を発揮していて、風当たりが強いのはそのせいなのではないかと私は邪推(じゃすい)する。

「もしバレたら、今の職場に居づらくなるような気がして。最悪会社を辞めないといけなくなるんじゃないかと思ってるの。今の会社は辞めたくないのよねぇ」

「それって別れるだけじゃダメなの?」

「別れたら別れたで、今度は気まずくなると思うのよ」

「ああ……そうよね」

 だが予想では、おそらく紗英は何だかんだ言っても、社内恋愛に構わず付き合うことにするのではないかと私は思っている。これは親友としての単なる勘だ。

 その後、私達は別の話題に花を咲かせ、カフェの店員がラストオーダーの時間を伝えに来た頃、二人で店を出て少し歩いたところで彼女と別れた。




 帰宅後、私は買ってきたものをテーブルの上に広げて、梅酒の缶酎ハイを開ける。プシュっと小気味良い音が鳴り、すぐさまそれを喉に流し込む。喉に刺さる炭酸は、一瞬でも私を爽快な気分にさせてくれる。缶の中からするシュワシュワと弾ける炭酸の音が、耳に心地好い。

 酎ハイを一口飲んで落ち着くと、にわかに思い出すのは紗英の話。

 彼女の話に、最初は確かに呆れていたのだ。何故なら話を要約すると、元恋人との自然消滅にうまいこと便乗して、丁度言い寄って来た男の方にただ転んだだけではないか。

 だが、同時に湧き上がる羨む心が邪魔をする。私はこれを、心の底では認めたくないと思っていたはずなのだが、それらは嘲笑うようにじわじわと浸食していった。

 全く、なんて忌ま忌ましいのだろう。自分から行動しなくても好みの男が寄ってくるなど、私の人生では到底起こらないような気がする。いや、起こらないと断言すらできる。

 合コンに参加しないと男とは無縁な自分は、やはりこう思う。元々与えられているものが違うのだ。紗英と自分を並べて考えるところからして既に間違っているのだ。そして、そういう人生を歩みなさいという、神様からの啓示なのだと。

 ふと、お酒やおつまみと一緒に買ったもう一つのある物を思い出し、私はそれを買い物袋から取り出した。買い物袋から出てきたのは黒のマスカラだ。私はそれを丁寧にパッケージから取り出し、鏡の前に腰を降ろした。

 とりあえず、試しにマスカラを恐る恐るつけてみる。私の目は特に大きくもなく小さくもなく、顔の中のあるべきところに静かに収まっているというような、極めて平凡なものだ。それがマスカラを塗っただけで、面白いように簡単に物を言いたげに主張し出す。

 もちろん紗英のようにはいかないのは当然だが、それが私の目にはなんとも新鮮なものに映り、あらゆる角度から鏡を覗き込む。そして、一通り気がすんだ私は再び酎ハイを呷るように飲み始めた。




 連休明け、私は再び河村に食事に誘われた。河村と会うことを意識して、私はいつものようなラフな服装はやめて、自分が持っている洋服の中では一番大人っぽく、落ち着いたものを選んだ。

 会うのは仕事が終わった後なので、更衣室で制服から私服に着替えると、いつもと違う服装に身を包んでいるのを小島正子に目敏(めざと)く指摘されてしまった。

 少々頑張りすぎただろうかと居たたまれない思いをしたものであるが、後でこうして良かったと、正直ヒヤリとしたのを覚えている。

 駅裏で待ち合わせてそこからタクシーで移動し、連れて行かれたお店は上品な店構えのイタリアンレストランだった。

 中に入ると、カップルだけではなく家族連れもいたりして、思っていた程尻込みしたくなるような雰囲気や客層ではなかったのだが、かと言って、パーカーにジーンズだと間違いなく浮いていただろう。

「素敵なお店ですね」

 河村は満足そうに少しだけ笑う。

「ここはパスタが旨いんだよ」

 そう言うと、メニュー表を広げて見せてくれた。色々な種類のパスタやピザ、リゾット等の他に、デザートやドリンクも載っている。私はカルボナーラを選んだ。

「前も思ったけど、相田さんってこういうのあまり悩まず決めれるよね」

 虚を突かれて思わず顔を上げると、河村と目が合う。

「いや、女の子ってさ、これとこれどっちにしようって中々決められないイメージだったんだけど、相田さんは、サーッと見ただけでこれって言ったからさ」

 河村は、最後を身振り手振りを加えながら言った。

 思ってもみなかったことを言われ、可愛げの無い女だと思われただろうかと、私は心の中で反省する。

「……そう言われれば、たしかにあまり悩まないですね。でも、いつもというわけでもないんですよ」

 少しずつ胸の鼓動が早まっていく。この胸の鼓動と落ち着かない心を抑えるように、私はぎゅっと手を握り締めた。

 河村はそんな私を気にする様子も無く、メニュー表に目を走らせている。

「ワインを頼もうと思ってるんだけど、相田さんも一杯だけどうかな?」

「ワインですか?」

「うん。カルボナーラなら白がいいかな。どう?」

 ワインは日頃あまり口にしないのだが、一杯だけならせっかくだから飲んでみるのも悪くない。

「それじゃあ一杯だけなら」

 河村はすぐに店員を呼び、てきぱきと幾つか注文した。

 改めて見るその姿が、私の目には頼もしく映る。安心して全てを任せることが出来る。こういう男と一緒にいれば、自分は絶対に幸せな人生を歩むことが出来るのではないだろうか。

 自分は二十三歳にして、本当にいい男と巡り会うことが出来たのかもしれない。





 私が迷わずカルボナーラにした理由は、口元が赤いトマトソース等で汚れるのを気にせず食べることが出来るからだった。そんな理由で選んだカルボナーラだったのだが、一言で言うと絶品だった。

 クリーミーで、胡椒がやや強めのカルボナーラと、果実の香る白ワインがこんなにも合うとは。

 河村は海老クリームのパスタにしたようだ。まろやかそうなクリームが、海老とパスタにたっぷりと絡みついて、見るからに美味しそうだった。

 私はグラスに残っている白ワインを最後まで飲み干すと、椅子の背もたれにだらりと身体を預けた。だが、まだホロ酔いという程でもない。河村はそんな私を、見計らったように誘ってきた。

「もしよかったらでいいんだけど、この後飲みに行かない?」

「……今日これからですか?」

「うん。明日は仕事?」

 河村はテーブルに身を乗り出して、私の顔を覗き込む。

 私はつい先日、カフェで紗英から受けた忠告を思い出した。

「二人きりで飲みに行くのは、もう少し様子を見てからにした方がいいと思うわ」

 いつになく真面目な顔をして、意外なことを言い出した紗英を、私は思わずじっと見つめた。

 頭上にある洒落た照明ランプが、彼女の美しい顔を余すところ無く照らしている。

「なんで?」

「だって、絵里はお酒にそんなに強くないでしょう? また記憶なくしたらどうするのよ」

「あぁ……そっか」

「そうよ。彼が信頼出来る人かどうか、もっとしっかり見極めてからでも遅くはないわ」

 いくらいい男を捕まえたいとは言えども、自分を安売りする気は、もちろん無い。だから、紗英の忠告には大きく頷いた。河村が、女を酔い潰してものにするような男ではないのを願うばかりだ。

 私は何気無く彼の指をちらりと見た。

「はい。あの、すいません、今日はちょっと……」

「そっか。それは残念」

 言葉とは裏腹に河村は穏やかに笑う。これが大人の余裕というものなのだろうか。


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