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何ヵ月か振りに会った紗英は、今ではすっかり東京に住む都会の女性だ。
自慢の艶やかな黒髪を背中まで伸ばし、流行の服を巧みに着こなして綺麗な脚を組んで座る姿は、待ち合わせをしていたカフェの中で、まるでそこだけ違う絵を切り貼りしたかのように浮いていた。
そんな彼女に、少し離れた席に座っている若いサラリーマン風の男が、先程からちらりちらりと視線を送っているのだが、彼女はそれを知ってか知らずか、まるで歯牙にもかけない。
それが、いかにも彼女らしいと、私は秘かに心の中で毒づいた。
彼女には昔からそういうところがあった。
彼女と知り合ったのは高校入学したての頃であるが、この頃も、彼女はやはり艶やかな長い髪と、二重瞼のきょろりとした大きな目が印象的な美少女であった。
交際の申し込みは両手でも足りないくらい数知れず。おそらく、校内で彼女を知らない男子はいなかったであろう。
それ故なのかどうかはわからないが、彼女は自分の容貌が人目を引くものであることをよく知っていた。
それは、欲望を瞳の奥に宿した男の視線はもちろんのこと、羨望の混じった好意的な視線、単なる興味本位の不躾な視線等、実に様々である。彼女は、こういう視線にはもう慣れっこなのだ。
そんな彼女とよく一緒にいた当時の私は、時々居心地の悪い思いをしたものであるが、今では高みの見物ができるくらいには余裕を持てるようになった。いや、正しく言い換えると、歳と共にふてぶてしさが身に付いた、という方が当てはまる。
そしてこの時の私は、いつもよりも機嫌良く彼女には見えたらしい。
「なぁに、どうしたのよ」
彼女の問いに視線を向けると、紅が引かれた彼女の唇は美しい弧を描き、大きな目は何かを期待するように更に大きく見開かれ、私を映し出していた。
「え? どうもしないわよ?」
「嘘。何かいいことがあった時の顔をしているわ。私の目は誤魔化せないわよ」
紗英は身を乗り出し、わずかな挙動も見逃すまいと、困ったように笑う私の顔を覗きこんだ。
「やだ、本当に何もないって」
「そ~お? まぁ、絵里がどうしても言いたくないなら別に言わなくてもいいけどぉ~」
紗英は、口を尖らせて少しおどけたようにそう言うと、目の前のコーヒーカップを手に取り、そっと口付けた。だが、目だけはまだ私の反応を窺っている。
その、いつか絶対に聞き出してやろうと言わんばかりの紗英の顔に思わず笑いが溢れた。
「ふふふ。実はね……」
私は河村との出会いから昨日までのいきさつを話した。
「へー。聞いてる限りは悪くなさそうじゃない?」
「うん。悪い人ではないと思うわ。店は違うけど同じ会社の人だし」
次に会うのはいつになるのだろうかと、私は昨日会ったばかりの河村へと思いを巡らせた。
紗英はそんな私をニヤニヤして眺めている。
「うふふ。いいなぁ。デート代を全部出してくれたってところが、やっぱり歳上の男っていいわよねぇ」
昨夜わかったのだが、河村は私より五つも上らしい。
「デートって……ただ二人でオムライスを食べただけよ」
すると、紗英は突然顔を近づけてきて囁いた。
「キスした?」
からかうような紗英の問いに思わずコーヒーを吹き出しそうになり、慌ててナプキンで口元を拭う。
「し、してないわよ! もう、急に、なんてこときくのよ」
「じゃあ、手は? つないだ?」
私にかまわず、紗英は矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
やれやれと小さく溜め息をついた私は、諦めて昨夜のことを思い起こし、ううん。と首を横に振った。
河村は私に指一本触れなかった。
「なぁんだ、そっか~」
「なぁんだ、って、なんでよ」
「ん~、絵里のそういう話、やっぱり聞きたいからさぁ」
紗英は、当然とでも言うように、にっこりと笑う。
「あのねぇ、まだ付き合ってないのよ。そういうことは、付き合ってからに決まってるじゃないの」
「え~? そんなことないわよぉ」
紗英は少々不満げに口を尖らせる。
サラリーマン風の若い男が、再びこちらをちらりと見た。少し声が大きくなってしまったようだ。だが、そうでなくても彼女の声はよく通るのだ。
あっ、そうだ。と、紗英は急に何かに気が付いたように声をあげた。
「絵里の会社って、社内恋愛は禁止されてないの?」
「えっ」
紗英に言われて初めて、あっそうか。と、思った。河村が同じ会社の人間だとわかった時に、何故ちらりとでも頭に浮かばなかったのだろうか。もし河村とこのまま進展していけば、これは俗によく聞く社内恋愛というものになるのかもしれない。だが、私と河村は職場が違うし、社内恋愛が禁止されているのなら、おそらく小島正子が教えてくれているはずだ。
そして、私が完全に脳の外に放っていたその言葉を、するりと口にした紗英は、もしかすると私が思っている以上に、東京で苦労しているのかもしれないと思わせるものがあった。
「多分大丈夫だと思うわ。それに、私と河村さんは、まだどうなるかわからないわよ」
紗英は、え~?と言いながら流し目の視線をよこす。
「さっきの話だと随分いい感じに聞こえたけどな~。イヤではないんでしょ?」
そう訊かれた私は、声に出して肯定するのがなんとなく恥ずかしく思えて、紗英の顔を見ながら無言でこくりと頷いた。
紗英は顎を引くようにして、ふふん、と満足そうに笑うと、ゆったりとテーブルに両肘をつき、手の甲の上にちょこんと顎を乗せた。
「付き合うことになったら教えなさいよ」
「うん、もちろんよ。そういえば紗英ちゃんの方はどうなの? 同じ大学だった人と付き合ってるんでしょう?」
「別れちゃった」
紗英は笑顔はそのままに短く即答した。話の矛先を彼女に向けた途端、矢のような速さで返ってきた言葉に、私は思わず黙り込んで彼女を見詰める。
「お互いに休みの日が合わなくて、そのまま自然消滅しちゃった」
先程よりもやや早口で話す彼女は、その内容に反して明るい口調だった。だが、恋人の話題に触れてからずっと微妙に伏し目がちでいることから、やはり恋人を失ったことで、少なからず気落ちしているのだろう。
一本一本にしっかりと黒いマスカラが塗り付けられている彼女の長い睫毛は私の目をよく引いた。
「休みが合わないとダメね~。大学では毎日のように会ってたのに、気がついたら二ヶ月も会ってなかったの。まめに連絡を取り合ってたのも、気がついたら無くなってたわ」
なんでもないことのように話す彼女の心中を察して、私は彼女の話に黙って耳を傾けた。
「それで、慌てて彼に電話したんだけど出てくれなかったの。そしたらね――――」
紗英は、テーブルに両肘をついたまま腕を前に組み、これからさも驚くような話をするかのように身を乗り出してきた。
「何処の誰だかわからないアドレスから突然写メが送られてきたのよ」
紗英は、まるで何度も言い慣れた台詞のように、それを一息に言った。
「写メ?」
彼女は頷き、手元のコーヒーで喉を潤す。
「彼と知らない女と仲良さそうに写ってた。これはもう決定的なんじゃないかしら」
そう言って紗英はバッグから携帯を取り出し、見せてくれた写メールには彼女の恋人と女が写っている。写メールの二人はどう見ても友達以上の親密な仲にしか見えなかった。
紗英は俯きかげんだった顔を上げ、絵里はどう思う?と問う。
彼女の長い睫毛で縁取られた大きな目は黒いマスカラで更に引き立てられている。
私は吸い込まれていきそうになるその瞳から逃げるように、さりげなく斜めに視線を落とした。
「その写メ、誰から送られてきたのか心当たりは無いの?」
「ん~、普通に考えて、やっぱり一緒に写ってる女が怪しいと思うのよ」
「……そうよね。ねぇ、もう一度電話してみたら? もしかしたら誰かのいたずらっていうこともあるかも」
紗英は、美しい顔とすらりとした体型に加え、男好きするところがある。これはもう彼女の天性のものと言ってよいだろう。容姿だけならまだしも、こういうところが同性から反感を買いやすいのだろうと私は思う。
女というものは、美しく綺麗な女にはとりわけ手厳しい。要するに、それは女の醜いやっかみなのだ。
高校時代もそういうやっかむ女が五、六人固まって、よく紗英を遠目にひそひそと話していたものだ。内容は、やはり大体は紗英へのやっかみだった。特に、クラスで人気のある男子と仲良く喋っていようものなら、ちょっとした嫌がらせを受けることもしばしばあったようだ。
紗英にはそんな過去がある為、今度のこともおそらくそういう部類の女か、若しくは彼には既に新しい女がいるのだということを彼女に示したい人物。即ち、紗英の言うように、写メに写っている女だろうと私は心の中でそう踏んだ。
考え込む様子の紗英は、やがて吹っ切るように首を横に振ると、肩にかかった髪を手で祓った。よく手入れされた癖のない黒髪はサラサラと素直に背を覆う。
「もうあれから日にちが経ってるし、やっぱりもういいわ。連絡がなくなっていることにさえずっと気付かなかった時点で、多分もう終わってるのよ」
紗英は自分で自分を納得させると、それまでよりは幾分すっきりとした顔で小さく笑みを浮かべた。
「……紗英ちゃんがそう言うならこれ以上は言わないけど。でも、その写メの送り主は紗英ちゃんのアドレスを知ってるということよね?」
「あぁ、また何か送られてきたらアドレス変えることにするわ」
紗英は事も無げにあっさりと一蹴した。
「……元彼の番号とアドレス消去っと。はい、これでもうこの話は終わり!」
紗英は、携帯を片手にぴしゃりと言い放つ。既に彼女の中で、彼は元彼になったらしい。
本当にそれでいいのか?と、通常なら思うところだが、元々紗英はこういう女なのだ。人によっては非情に思えるかもしれないが、望みの薄い恋愛をずるずると引きずり、女友達に夜な夜な電話で愚痴を溢すよりは、よっぽどましというものである。
私は、紗英のこのような思い切りが良くさっぱりとしているところを、好ましく思う。そして、紗英だからこそ、このように気持ち良く吹っ切ることが出来るのだろうなとも思うのだ。
「誰だかわからない人が紗英ちゃんのアドレスを知ってるって気持ち悪くない? 気を付けた方がいいわよ」
「うん、ありがと」
紗英はにっこりと微笑み、不意に、それでね。と切り出した。