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河村から最初の電話がかかってきて以来、毎夜のように携帯の着信音が鳴るようになった。仕事が終わってすぐに電話してくれていたらしく、いつも時間はまちまちであった。
そんな彼は、私を口説くふうでもなく、とりとめのない話を十分程して、最後は「じゃあまた」と言って電話を切るのだ。
それが数回続いたある日の夜、毎日電話をしてくれるのは嬉しいが、いつまでこの状態が続くのだろうかと焦れた私は、思いきってずっと気になっていることを彼に訊いてみた。
「合コンの時、私に声かけてくれたのはどうしてですか?」
一瞬の沈黙の後、戸惑いながらも彼はこう答えた。
「……え~と、それはもちろん、可愛いなと、思った、からだよ」
あの合コンでの私のどの辺りが可愛いと思ったのだろうかと腑に落ちなかったのだが、私はそれ以上は追及しなかった。
それよりもむしろ、どこか余裕を感じさせる話し方をする彼が、先の問いに対して急にしどろもどろになった様子になんとも言いがたい快感を覚え、気がつくと私の口元には自然と笑みが広がっていた。再び私の胸の中で、ぽわん……と小さな気泡が浮かんでいく。
彼は、打って変わって慣れた様子で誘ってきた。
「明日の夜、一緒に食事でもどう?」
明日は連休に入る前日だ。私はいつものように仕事が終わったら帰るだけだ。
「無理にとは言わないよ。都合が悪ければ合わせるから」
どうかな?と私の反応を窺う彼に、私は快く了承した。
実のところ、毎夜のように電話してくるわりには、中々「会おう」と言ってくれないことに、やはり自分ではダメなのではないだろうかと断念しかけていたのだ。彼をしどろもどろにさせた問いが良い方向へ作用させたのか、漸く会う約束に辿り着くことができたことに、私は多いに安堵した。それほどまでに、私は彼の誘いを待ちわびていたのだ。
電話を切り、私はふわふわとした高揚感に満たされていく。
男に誘われる。私にとって、味わい難いこの高揚感をどう表現したらよいのだろう。たったこれだけのことで、自分が、まるでとんでもなくいい女であるかのように錯覚してしまいそうだ。
翌日。私は仕事が終わり、河村と約束した場所へと急いでいた。
私の職場は駅の表側から出て少し歩いたところにあるのだが、私は駅裏のあまり目立たない場所を待ち合わせ場所に指定した。
彼は私が指定したとおりの場所で、携帯を片手に佇んでいた。
すぐに私に気付くなりパッと顔を上げた彼は、思っていたよりも誠実そうで、清潔感のあるこざっぱりとした顔をしていた。
「こんばんは。相田さんだよね?」
「はい。こんばんは。あの……河村さんですよね?」
電話を通した声とはまた印象が変わる彼の肉声は、居酒屋での微かな記憶に残る声よりも、幾分硬さが感じられた。
私達は形式的な挨拶を交わし、早速予約をしてあるという店へと足を向けた。駅裏からタクシーに乗り、十分程走ったところにその店はあった。
連れてこられた店は、ふわふわとろとろのオムライスを売りにしているお洒落な洋食屋だった。
事前に何が食べたいかを訊かれた時に、職場から離れている店がいいことをまず第一に挙げたのだが、彼は特に理由を訊くこともなく素直に私の希望をきいてくれたようだ。因みに、職場の同僚に見られるのを避けたかったのがその理由だ。
店の中に入り、彼が予約している旨を店員に告げると、奥の席に案内された。
「今日は俺のおごりだからなんでも好きなもの頼んで」
「いいえ、そういうわけには……」
初めての二人での食事だが、恋人同士というわけではないので、やはりここは遠慮をしておくべきだと断ろうとしたのだが、彼はやんわりと手で制した。
「いや、ここは俺がもつから気にしないで」
どうぞ。と言いながら、彼はメニュー表を広げて見せてくれた。
その時、彼の長い指が私の目に映る。節々の目立つ男らしい指に、私の胸の奥から勢いよく一気に気泡がブクブクと放出していった。
私は慌てて目を逸らし、この店の一押しだというオムライスを選んだ。
「それだけでいいの? スープやサラダもあるんだよ?」
「いえ、大丈夫です」
そう?と言うと、彼は店員を呼び、私の分と自分のを幾つか注文した。
注文を済ませてすることがなくなると、向かい合わせで座っているせいか、途端に目の前の男を妙に意識し始める。
胸の鼓動が波打つのを感じ、私は視線を彼から外すように斜めに落ち着けた。
何を話そうかと考えて、私は何故か合コンの時にいた関西弁の男を思い出した。河村のことはかろうじて記憶にあった程度なのに、あの男の関西弁が強烈に耳に残っていることに、心の中で苦笑した。
「そういえば訊いてなかったけど、相田さんて何歳なの?」
河村から話題を振ってくれたことに安堵し、私は真面目に答えた。
「今年で二十三になりました」
「二十三かぁ。今年うちの会社に入ったばかりだよね?」
「はい。まさか合コンで同じ会社の人に会うとは思いませんでした」
小島正子から合コンでの会話の内容を聞いておいてよかったと思った。
「最初見た時にすぐ○×支店の人だってわかったよ。売り場が忙しそうな時間にしか行ったことがないから、多分俺のことは知らないんだろうなと思ってたけどね」
「じゃあ小島さんのことも知ってます?」
小島正子は私よりも三年程長くいるのだ。
「君の隣に座ってた人なら顔だけ知ってる。あの人は俺のこと知ってるかもしれないと思ったけど……何か言ってた?」
「いえ……河村さんのことは知らない感じでした」
私は、若干首を傾げてそう答えた。
普通は三年も同じところに勤めていれば、顔ぐらいは見知っていてもよさそうなものではないだろうか。だからと言って、彼女が嘘をついているとは思えなかった。
よく考えてみると、小島正子という人がどういう人物であるのかをよく知らないということが、この時に僅かに私の脳裏を掠めたのだが、河村との会話に意識を引き寄せられると、一瞬にしてそれらは綺麗に消え失せた。
河村は、ふ~ん。と相槌を打ち、それ以上は興味が無いとでも言うように話を変え、合コンした時のことを話し始めた。
「君、いきなり一人で日本酒を飲みだしたでしょう? それもすごく美味しそうに。それで、どんな人なんだろうって思ってさ。若そうに見えるけど、実は俺とそんなに変わらないのかなぁとかさ」
「あぁ、私、日本酒が好きなんです。友達と飲む時はビールや酎ハイを飲みますけど、家で一人で飲む時は日本酒なんです」
「何か好きな銘柄とかあるの?」
「そういう拘りはないんです。それに、高価なものは買えませんので、普通にスーパーで安売りしているのを飲んで一人で楽しんでるんです」
私が家で飲むのは、主に仕事が休みの日の前夜だ。テレビを観たり携帯を弄りながら、漬物をつまみに数百円のお酒をまったりと飲むのだ。
飲み会などで、気心の知れた複数と飲むのも好きだが、誰の目も気にせず一人で伸び伸びと飲むお酒は、まるで、着ている衣服を全部脱ぎ捨てるような解放感がある。
「日本酒は一人の時にしか飲まない感じなの? この前の合コンではビールや酎ハイじゃなくて、日本酒だったけど」
「誰かと飲む時は、いつもは結構まわりに合わせてしまうんですけど、あの時は、なんとなくそんな気分になっちゃったんです」
もちろん、あの日の水面下でのことなどこの男には言わない。
合コンに来れなくなった人の穴埋めに急遽誘われ、自分は頭数要員のつもりで参加したこと、更に色々な体裁を放棄したこと。これらをこの男にわざわざ言う必要はないだろう。
だが、結果として、今の状況に至るとはあの時は夢にも思わなかった。男というものは口では何だかんだ言っても、結局、パーカーにジーンズの女よりも、きちんと綺麗にしているキラキラした女に吸い寄せられていくものだと思っていたのだ。
それがどうだろう。電話で河村は、私を「可愛いと思った」と言ったのだ。真に受けているわけではないが、やはり女として、言われて悪い気はしない。
気が付くと、最初に危惧していたよりも会話は弾み、私の頭の中から関西弁の男は完全に消えていた。そして料理が運ばれ、今テーブルにはふわふわとろとろのオムライスが二つと、レタスの上にローストビーフが乗っているサラダが並んでいる。
「じゃあ、とりあえず食べようか」
「はい、いただきます」
ほわほわと立ち昇る湯気と良い匂いで空腹だったのを思い出し、半熟になっている卵にそっとスプーンを入れた。中のチキンライスが見え、とろりとした卵が流れていく様に、堪らなく食欲を促された。
ふわふわとろとろのオムライスは、さすが一押しにしているだけあって、思わずにんまりする程美味しかった。
不意に、くすりと笑う河村の気配にふっと顔を上げる。
そこには、まだ口を付けてもいないスプーンを手に持ったまま、口元に微かに笑みを浮かべて、射るように私を見ている彼がいた。
途端に自分の頬が熱くなっていき、再び胸の鼓動が大きく波打つ。
どうにか視線を外し、もう一口オムライスを口へ運ぶ。それでもなお、河村の視線が纏わりつくのに耐えきれず、私はカチャリと小さな音をたててスプーンを置いた。
「そんなに見られたら食べづらいです……」
掌で口元を覆い隠してそう言うと、彼はくすくすと肩を揺らしていかにも可笑しそうに笑い出した。そして、ごめんごめんと言い、漸く彼はオムライスを食べ始めた。
食事を終えた私達は、店の外に出たところでタクシーに乗った。そこから再び十分程走り、待ち合わせをした駅の裏で二人で降りた。
彼は家まで送ると言ってくれたのだが、さすがにそれは気兼ねして断った。そして、降りる時にタクシーの料金の支払いを申し出たのだが、いいから気にしないで。と言われ、結局全部河村にお金を使わせることになった。
「今日はご馳走さまでした。すごく美味しかったです」
私はにこやかに礼を言う。
「気に入ってくれたみたいでよかったよ。また良さそうな店を探しておくから、二人で行こう」
「……はい!」
「じゃあまた電話するから。気をつけて帰ってね」
河村に見送られ、私は漸く帰途についた。
歩きながら、私は一人で回想にふける。
一人の女として扱われるということがこんなにも嬉しく、また、こんなにも甘美なものであるのかと、私はついひとりでに口元が綻んでいくのを抑えるのに苦労したものだ。
後に、この身に起こることなど少しも知るよしもなく、帰宅した後も自然と睡魔に襲われるまで、飽きることなく何度も何度も反芻しては、幸せな気持ちになった。