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あれが夢ではなかったら、自分は身の破滅だったかもしれない。
あんな衝動的な浅い考えで、都合よく不慮の事故に見せかけることが出来たとは思えない。ちょっと冷静に考えればわかることだ。身の破滅なんて、当然まっぴらだ。
だが、夢で良かった、なんて寿命が縮むような思いをしても、自分の負の部分に一度芽吹いたものは消えなかった。この不穏な心に、私はどうしても折り合いをつけたくなった。
つまり、紗英の泣く姿を見るとはいかなくとも、少しくらい困ればいい。それくらいはいいのではないかと思ったのだ。
ちょっとした思いつきだった。
近くの公衆電話から目的の番号にかけ、よく知っている声が電話に出た。
「はい。…………もしもし?」
すぐにガチャンと電話を切った。
同時に、今までにない興奮が私を取り囲んだ。体内の血流がカッと燃えたように熱を持って騒いだ。
東京のタワーマンションで、今頃どういう顔をしているだろうか。想像したら愉快でたまらなかった。
時折思い出したようにちらちらと顔を出す臆病な心は見事に吹っ飛んでいき、何か一つの大きなことをやり遂げたような気持ちになった。
電話の向こう側にいるのが私であることがわかってしまったらどうしよう、などということは些細なことに思えて、その瞬間だけ嘘みたいにどうでもよくなるのだった。
勝ち組の人生をおくっている紗英。少しくらい怖い思いをすればいいのだ。
とは言え、只の間違い電話だと思われた可能性もある。あるいは、すぐに着信拒否にされたかもしれない。それならそれでもういいか、と思ったが、次も電話はつながった。
「はい。……もしもし、もしもーし?」
紗英の応答する声が響いたが、今度はすぐには切らず、完全に無言になってから電話を切った。
公衆電話からの無言電話が二日続けば、さすがに不気味に思うだろう。さすがにもう着信拒否にされたかもしれない。そう思ったが、その次の日も電話はまたつながった。
応答はなかった。こちらの様子を探ろうとしているのか、こちらの出方を待っているのか、無言のまま時間は過ぎていった。
どんな音も聞き逃すまいと受話器を耳に当てたまま息を潜める。そうして自分も紗英の出方を待ちながら、同時にどこか釈然としない気持ちが広がり始めていた。
何故、彼女は着信拒否しないで無言電話に出るのだろう。
ふとそう思った途端、高ぶっていた感情は急降下していき、代わりに得たいの知れない不安が瞬く間に私の胸中を占領した。
これ以上はもうやめよう。
すぐに電話を切ろうとしたその時、紗英の声が電話口から流れてきた。それは思いもよらないことだった。
「もしかして、あなた……あの人の前の奥さんですか?」
一瞬、彼女が何を言ったのかわからなかった。
彼女の言葉を聞き漏らさないように、私は更に息を押し殺した。
「今度はわざわざ公衆電話からいやがらせですか。どうやって私の携帯の番号を調べたのか知りませんけど、ちゃんと慰謝料は受け取ったんでしょう? もういい加減にして下さいよっ」
そう言って、今度は向こうから一方的に電話は切れた。
最後の方は自分が知っている彼女とは別人のような、ぶっきらぼうで奇声じみた声だった。
自分の知らなかった彼女の一面にまず驚き、次に、彼女が口にした言葉からどう考えても導きだされる一つのことに、私は手のひらの受話器を見詰めたまましばらくその場で立ち尽くした。
自宅アパートに帰宅し、部屋着に着替えるなりベッドに寝転んだ。その格好で手を伸ばしてテレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。
映ったのはバラエティ番組だ。司会のお笑い芸人がゲストの芸能人と喧しくトークを繰り広げている。
それを見ながら、帰宅途中のコンビニで買ったスナック菓子を取り出して摘まむ。我ながらだらしのない格好だなと思ったが、誰が見ているわけでもない。
そうしているうちに、笑いが込み上げてきた。クックックッと笑うだけだったのが、次第にアッハッハッと声が大きくなり、気づくとお腹をかかえて思い切り笑い転げていた。
おそらく紗英は不倫していたのだ。その為に彼女は一つのよその家庭を壊し、奪ったのだ。
以前、結婚式には呼ぶから来てね、と言っていたのに、内輪で結婚式を済ませたのは不倫の末の結婚だったからだ。それどころか、本当に結婚式を挙げたのかもあやしい。
詳しい経緯はわからないが、前妻の恨みを買っているのは間違いなさそうだ。私の前では自信満々のあの紗英が、あんな奇声じみた声を出す程に追いつめられている。
ハァハァと息を整えて大きく深呼吸をした。こんなにバカみたいに笑ったのはいつ以来だろうか。
ごろんと仰向けになって天井を見詰めた。そのうち、ある考えが心の中にぽうっと灯火のように浮かんだ。
私は多分、紗英には負けたくなかったのだ。
それは好きとか嫌いだからとかそういうことではなく、彼女と一緒にいるうちに、どうしてか負けたくない気持ちにさせられたのだ、と私は思う。
何故、私は今まで紗英ときっぱりと縁を切ろうとしなかったのか。
会うのが嫌なら毎年来てたメールなんか無視して黙ってフェードアウトすればよかったのだ。そうすることで、すぐには関係を断絶することが出来なくても、お互い遠くに住んでいるのだから、いずれは付き合いは無くなっていただろう。
だが、それでは逃げただけだ。それは、私にとって負けたことになるのだ。
今、ようやくそれがわかった。
彼女の美貌には到底かなわないけど、せめて人生では彼女よりもうんと幸福になってやろう。そして、それをたびたび彼女に見せつけて優越感に浸ろう。
そんな気持ちが根底にあった。だが、考えないようにしていた。自分が彼女に嫉妬していることを認めたくなかったのだ。嫉妬心を気取られるのも嫌だった。
紗英の奇声じみた声を思い出して再び笑いが漏れたが、すぐに引っ込んだ。
そのまま思考の渦流に身をゆだねてしばらく経った後、自然と「もう、いっか」が出てきた。思考が終着点に辿り着いたのだ。
テレビの音がうるさく感じ、リモコンで消した。部屋の電気も消して、布団に潜り込む。
布団の中で、私は何故か無性に誰かに抱きしめて欲しくなった。
年が明け、実家に帰省した。
姉が去年の秋からパートを始めていたらしい。
「スーパーのレジのパートなの。優衣は小学校だし、この家にはお母さんもいるし。私も将来の為に少しは稼がないとね」
「ふぅん。二人目はもういいんだ」
もちろん子供のことだ。
「そういうわけじゃないけど、とりあえず今は時間があるから外に出ることにしたのよ」
「へー。お姉ちゃんがねぇ」
「私の友達にね、旦那さんが病気で働けなくなっちゃった人がいて。元々共働きだったんだけど、旦那さんと自分と子供二人の生活費を、その友達が一人で稼がなくちゃいけなくなったのよ。その話を聞いて、私も色々考えちゃったの。うちの人も、もしそうなったらって」
この話を聞いて、ハッとした。
幸せな結婚をしたからと言って、それがずっと永遠に保証されるわけではない。自分の夫が不治の病に冒されたり突然のリストラにあったり、不慮の事故で重大な身体障害を負うことも有り得る。結婚は全てのゴールではない。こんなことに何故今まで気付けなかったのだろう。
次の日、携帯電話に珍しい人から着信が入った。私の他にもう一人の独身を貫いている大学時代の女友達だ。
「実は、結婚して、先月のクリスマスイブに入籍したの」
「わぁ、本当? おめでとう。式はいつなの?」
「式は挙げないで、籍だけ」
「そうなんだ。そういえば届いた年賀状にはそんなこと何にも書いてなかったわよ」
届いた年賀状には旧姓が書かれていたはずだった。
「うん、びっくりした? こういう事は年賀状じゃなくて、電話でちゃんと言いたかったから。それに……」
「それに?」
「すごく言いづらいんだけど、私達くらいの歳の未婚の人にはこういう結婚報告ってさ、たまに地雷じゃない?」
思い切り吹き出した。
「地雷!?」
「あれ、絵里はそんなことなかったのかな。私は結構そうだったから」
「……ううん、わかるわ。私もそうだった。でも、今はそういう気持ちは無いわ。だって、友達でしょう?」
受話器からほっとした気配が伝わってきた。
「よかった、そう言ってくれて。本当は言おうかどうか迷ったんだけど、私も友達だと思ったから……」
「ありがとう、言ってくれて。幸せになってね」
「うん、ありがとう。もしよかったら、今度一緒に御飯でも食べに行こうね」
温かな気持ちで電話を切り、テーブルの上にまとめて置いてあった年賀状の束を手に取った。一枚一枚ゆっくりと眺めていき、ある人からの年賀状で手が止まった。
菊池多江からの年賀状だ。裏面には干支のイラストの下の方に小さく、再婚して名字が変わりました、と書いてあった。
あの黄色い野球帽の男の子は、もうすぐ小学校を卒業する頃だろうか。
西原正子からの年賀状もあった。家族でバーベキューをしている写真がプリントされている。
その後に紗英からの年賀状が出てきた。今年は子供だけの写真をプリントしたらしい。フワフワのドレスを着せられた彼女の子供は、人形を手にきょとんとした顔をしてこちらを見ている。
紗英はあれからどうしただろう。
彼女のように、一見幸せな結婚に見えても、外からではわからないことがある。こう言うと、幸せな結婚なんかどこにもないのだ、と思ってしまいそうになるが、逆もまた然り。
誰が見ても苦労しかなさそうな結婚でも、当人は幸せかもしれない。本当のことなんか他人にはわからない。自分が選んだ人生で幸せなら、私はそれでいいと思う。
携帯電話を手に取った。
「紗英ちゃん? 私。明けましておめでとう。たいした用事は無いんだけど――――」
完結しました。
活動報告に後書きを載せますので、もしよければそちらにもお越し下さい。
今まで読んで頂きありがとうございました。




